最終話「意外」
リコーが識る「先帝」という男は、まごうことなき人類最強の魔導士であった。
人類最高峰の魔力量。寸分の狂いもなく行使される無数の高等魔術。そして、それらを手足の延長よりもさらに自在に操る完璧な制御力。歴史に綺羅星のごとく輝くその実績と絶対的な実力に、いかなる疑いの余地もなかった。
しかし、リコーが彼に対して最も崇拝し、心酔していた部分は、そこではない。先帝の真の恐ろしさは、自身の力すら客観視して解体する、病的なまでの分析力にあった。
まだ先帝が存命だった頃、薄暗い謁見の間で彼がリコーへ向けた、ある問いかけがある。
『――俺を殺すには、どうすればいいと思う?』
自らの死すらも盤上の駒として楽しむような、冷徹で、ひどく官能的とも言えるそのやり取りは、リコーの脳髄に焼き付いて離れない大切な、極上の思い出であった。
先帝は、自身の強さを知ると同時に、自身の「弱点」を誰よりも正確に理解していた。そして将来、必ず自分のような理不尽な力を持つ敵が出現することを予見していた。
その自己分析と、遥か未来を見据えた予測の集大成。それこそが、先ほどスオスが切り捨てたあの『先帝の遺産』であった。
リコーは、足元で自らの血の海に沈むスオスを見下ろしながら、芝居がかった優雅な手振りで語りかけた。
「先ほど貴方が壊したあの『先帝の遺産』。あのおぞましい姿や攻撃は、遺産の実体ではなく、と、いいますか。ただの副産物なのですよ」
その言葉に、床に張り付いていたムロヤは息を殺した。
(あの、光線を撃ち、空間を埋め尽くし、世界を終わらせるほどの凄まじい威力の魔法を無尽蔵に放っていたアレが……。アレが、ただの副産物だと……?)
極限の恐怖と混乱の中で、ムロヤは限界まで見開かれた両眼を閉じることすら忘れていた。
「あまりにも濃密すぎる魔力を内包した魔道具というのは、時折、自意識を持ったかのように蠢き、あのような生々しい形態をとることがある。あれはただそれだけの、あってもなくてもよい『おまけ』なのです」
全身の自由を奪われ、内臓が溶け出すような激痛の中で、スオスは僅かに動く口元を必死に震わせた。
「まどう……ぐ……?」
血泡を吹きながら漏れた少年の掠れ声に、リコーは三日月の笑みを限界まで深め、歓喜に肩を震わせて嗤った。
「ええ、そうです。『先帝の遺産』は…あれは…貴方のような理不尽を含めた、人間を確実に殺すために作られた……『毒』を撒き散らす、ただの箱なんですよ」
リコーが、歓喜とともにのたうち回りながら読んだ、あの羊皮紙、山賊の、最後の一人の死亡報告書。
『死因――中毒死』。
リコーは倒れ伏すスオスを見下ろし、黒手袋の指先を指揮者のように優雅に振り上げた。
彼の所作はどこまでも演劇的であったが、そこに「勇者をいたぶる」ような蛇足をする意図は欠片もない。躊躇なく即座に殺す。それが、この絵画を一番美しく彩る最後の一筆。それこそがリコー・タディーカという男の冷徹さ。空中に、鋭利に研ぎ澄まされた巨大な岩槍が即座に形成される。
「待て……よ……っ、この、卑怯者……!」
スオスは血反吐を吐きながら、必死に言葉を絞り出した。時間稼ぎの意図は明白だった。
「毒を使うなんて……真正面から戦えない、臆病者の……クズが……!」
「くす……くすくすくすッ!」
己の理不尽な暴力で世界を蹂躙してきたであろう少年が、自身の敗北を前に「卑怯」や「公平さ」を訴え、自らを口汚く罵る。その事実が、リコーには愛おしくて可笑しくて、興奮してたまらなかった。
「ああ!あなたの時間稼ぎは最高です! ああ!名残惜しい! しかし、ここで死んでいただかないと!この美しい芸術の!最後のピースを!」
歓喜の声とともに、リコーが指を振り下ろす。岩槍が、無慈悲にスオスの心臓へと射出された。
――ガァァンッ!!
必殺の岩槍は、スオスの肉体を貫く寸前で、眩い光の盾に弾き飛ばされた。
「……なに?」
リコーが目を細めた先。そこには、白銀の治癒士衣を泥と血で汚した少女、カーラーが震える両腕を突き出していた。
彼女の膝は笑い、歯の根は合わず、その顔にははっきりと恐怖が張り付いていた。
しかし、それは彼女にとって「対処可能な恐怖」であった。目の前の狂った魔導士がもたらす恐怖は、確かに恐ろしい。だが、彼女の魂を真に縛り付けている絶対的な恐怖――狂犬のようなスオスや、背後にいる参謀長リークライトに対するそれ――を上回ることは決してなかったのだ。
ここでスオスを見殺しにすれば、自分はあの老人からいかなる凄惨な報復を受けるか分からない。その対処しようのない恐怖に比べれば、目の前の敵の攻撃に割り込むことなど、ただの生存本能の延長に過ぎなかった。
「スオス殿っ……!」
カーラーは懐から、くすんだ金色の装飾が施された手のひらサイズの石板を取り出し、自身の魔力を叩き込んだ。
それは、古臭い石板だった。しかし、次の瞬間、極彩色に輝きを放ち、輝きが膨れ上がりスオスとカーラーを光の奔流で包んだ。
パキリと何かが砕ける音が響くと、複雑な術式が空中に展開され、空間が歪みはじめた。
「…なっ!?」
光が弾け、次の瞬間には、勇者と治癒士の姿は中央櫓の頂上から完全に消失していた。
静寂が戻った櫓の頂上。
吹き抜ける夜風の中、リコーは砕け割れた石板を見つめ、静かに手を下ろした。
「なんだったんだ…?あ、あいつらは…いない?」
「く…くっくっく」
「り、リコー?」
「アーッハッハッハ!」
石板は…『緊急転移の魔道具』だった。リコーも一度しか見たことがない。古代遺跡の発掘で稀に発見されるのみで、現代の技術では決して作ることができない、使い捨てのアーティファクト。
「どうやら私の計略は、失敗してしまったようです!大失敗だぁ!アーッハッハッハ!」
完璧に描き上げたはずの美しい勝利の絵画。その最後の最後で、名もなき野良犬に泥の足跡を付けられたような、余計な一筆を足されたような感覚があった。
だが、リコーの薄い唇は、再び歪な笑いを放って止まらない。
絶対の死地から逃れ去った勇者。予期せぬアーティファクト。盤面が混迷さを増せば増すほど、この劇はより濃厚な美しさを孕んで面白くなる。
「逃げ帰った勇者の報告を聞いて、王国の老物どもはどんな顔をするでしょうねぇ……」
リコーは静かに嗤った。
その瞳の奥では、冷ややかな狂気が渦を巻き、彼の冷徹と狂喜が混在する脳髄は、早くも次なる凄惨な策謀を練り上げるために、激しくのたうち始めていた。
第一幕 完
とりあえず、キリがいいので(今日のところは)ここまでにします。
読んでいただき、ありがとうございました!
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