箱根の温泉宿 3/6 極上のおもてなし
パージ法が施行される夜、富士山屋ホテルでは、特別な宿泊プランが提供されていた。外部との通信は完全に遮断され、宿泊客には「安心して楽しんでいただく為」として、その一切を断つことが告げられる。部屋には美食を味わうための雰囲気作りだと説明され、モバイルフォンなどの通信機器は全て回収されることとなった。
宿泊客であるレイナードは、チェックインの際に予約者と異なると言われたのだが、日本人の知り合いに譲ってもらった事とその背景を告げ、宿側の確認で少々待たされている時に、通信機器の回収を告げられた。
渋々ながらもその指示に従い、携帯電話を回収係に渡した。彼が周囲を見渡すと、見覚えのある顔がいくつも並んでいた。日本の政財界の重鎮たちや、有名企業の経営者など、どれも富裕層とわかる人々が集まっている。
「こんな日に、政治家がのんきに温泉旅行か…」と、レイナードはため息をつきながら内心で嘆息した。緊張感に欠けるその姿が、逆に異様な不安を掻き立てた。
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「特例という事で」と告げられてチェックインし、部屋の豪華絢爛さに胸を打たれたり、天然温泉のまろやかさを堪能してから、サイズが合わない浴衣には着替えず、自分で持参したカジュアルな服装で夕食の会場へ向かい、自分の名前のカードが置かれている席に座った。
丁度その時、奥から現れたのは白髪で恰幅のいい大柄な男。総料理長のレオである。レイナードは、その流暢な日本語とフランス語交じりの軽やかな挨拶に、一瞬驚きを覚えた。
「皆様、本日は特別な夜にお集まりいただき、誠にありがとうございます。この特別な夜を皆様と共に過ごせることを大変光栄に思います。」レオが言葉を口にすると同時に、スタッフが宿泊客にグラスを配り始めた。
「お手元にお渡ししたのは、アペリティフ、食前酒です。箱根に長く続く名店「村上三郎商店」の梅を使い、日本酒とフランス産の赤ワインをブレンドした特別な梅酒です。どうぞお楽しみ下さい。」
レイナードの手元には、濃厚な赤い色の液体が注がれた小さなグラスが差し出された。ふわりと立ち上る香りは、甘酸っぱい梅と芳醇なワインの香りが混ざり合い、どこか夢の中にいるような感覚を覚えさせる。彼はグラスに鼻を近づけ、その豊潤な香りを楽しみながら一口飲み込んだ。
梅酒の甘さとワインの深みが絶妙に絡み合い、口の中に広がる余韻は格別だった。飲み干した瞬間、ふと彼の脳裏に一瞬の違和感がよぎる。どこかで嗅いだことのある香り…まるで遠い記憶から引き出されたような、朧げな感覚。しかし、その余韻が続く前に、次の料理が運ばれる気配が周囲を包んだ。
厨房の方から漂ってくる甘く濃厚な香りが、空腹を刺激する。
「これはメインディッシュのソースの香りか?」と、思わず期待に胸を膨らませたレイナードだったが、すぐに異変を感じ取る。急激な眠気が、彼の意識を薄れさせていくのだ。
周囲を見渡すと、他の宿泊客も同様の状態で、次々と席に沈み込み始めていた。同じ会場にいた客たちが、まるで操り人形のように目を閉じ、椅子に身を預けている。
「おや…お客様、まだ意識があるようですね?」突然、レオの冷ややかな声が耳元に響いた。
辛うじて意識を保っているレイナードは、目の前に立つレオに目を向けた。眠気に抗いながら、ふと視線を彼の首元へと移す。そこには、皮膚の奥から浮き上がるように見えるタトゥーがあった。炎の上にパラシュートのマーク…それは、確かフランス国家憲兵隊の特殊部隊「GIGN(Groupe d'Intervention de la Gendarmerie Nationale)」の紋章だった。
「あれは確か…?」意識が朦朧とする中で、彼の疑念は拭えない。目の前のシェフが、ただの料理人ではないことは明白だった。レイナードの体は、重く、まるで鉛のように沈み込んでいく。朦朧とする意識の中で、過去の戦闘や任務経験から、今、この状況がとても危険であると頭の中で警笛が鳴っている。
「ゆっくりとお休みください、特別なお客様。今夜は、私の最高傑作をご提供いたします。お客様という食材を使って。」レオの声が、まるで冷たい刃のように響く。
やがて、意識が暗闇に溶けていく中で、レイナードは最後の力を振り絞り、周囲にいる他の客たちが無防備に横たわる姿を目に焼き付けた。そして、自分もまたその一員として、深い眠りへと堕ちていったのだった…。




