エピローグ
馬車は、イスト(中央)に向かって走ってゆく。
レイシェスは、憂いに満ちた目で窓の外の景色を見た。
『姉さん、見て!』
ウィニーの声が、彼女の耳の中で甦る。
『雪が終わってる! ここから春なの!?』
無邪気で可愛い、レイシェスのたった一人の妹。
道の端から雪がなくなり、花の咲く道へ向かうこの馬車を、妹は春に向かう馬車だと思っていた。
あれから、二度目の春が来た。
二年に一度開かれる、冬の終わりに行われる謁見会の時期が、再び訪れたのだ。
レイシェスを憂いさせるのは、この馬車にはもはやウィニーは乗っていないせいである。
彼女の妹は、左肩の町で今日も頑張っていることだろう。
去年の秋遅く出来たあの芋の収穫量は、ロアアールでも左肩の町でも信じられないほど多く、民衆を歓喜させた。これが、今年から軌道に乗れば、食料問題も解決していくだろう。
しかし、今年は正念場の年となる。
ニーレイ・ハド(東牙の王国)は、威信にかけてもあの町を取り返しに来るに違いない。
かの町は、ロアアールの代わりに、その攻撃の全てを跳ね返さなければならないのだ。
レイシェスも、のんびりとイストに行っている暇はないほど日々忙しい。
それでも、謁見会はやってくる。
だから、彼女は王に謁見し、事情を説明した後、すぐにロアアールにトンボ帰りをするつもりだった。
勿論、イストを含め他の公爵の協力も、仰がねばならない。
ロアアールの危機はエージェルブ諸公国の危機──それが、左肩の町に名前を変えただけである。
それは、フラの公爵がうまく取り仕切ってくれることになっていた。
レイシェスの、非常に頼もしい盟友である。
「難しい顔をしてる」
窓の外を見ながら、これからのことを考えていたレイシェスは、向かいの席から小さな笑いと共に声をかけられてハッとした。
「そうかしら?」
慌てて彼女は、自分の顔に手を当てる。
それから呼吸を整えて、向かいの席を見るのだ。
「不安か?」
低く、優しい声。
肌は、レイシェスとは比べ物にならないほど太陽に愛された色をしていて、ウィニーと同じ赤毛を持っている。
「いいえ、不安はひとつもないわ……スタファ」
フラの公爵弟である彼が、そこにいる。
左肩の町から、まだ雪の深い回廊を通って、つい先日ロアアールに到着したばかりだ。
一緒にイストに行き、フラの公爵と情報交換をした後、また共に彼女の故郷まで戻る予定である。
そのまますぐに、ロアアールで簡略的な式を挙げることになっていた。
公爵の結婚というお披露目的な意味の式は、後日改めて落ち着いてから行う。
後者の式を、一度で済ませば簡単なのだが、隣国がそれを許してくれない。
公爵の式ともなれば、残り四公爵およびイストからの賓客を招かねばならないのだ。
そんな予定を悠長に立てられるほど、いまのロアアールは暇ではなかった。
では、「いま」式を無理に挙げなくてもいいのでは、という話になる。
それも、体面が悪い。
何故ならば、これからスタファは、左肩の町かロアアールに住むからだ。
彼がロアアールにいる間、すなわち、レイシェスの側にいる間、紳士的な子羊でいてくれるわけではなかった。
そうなると、いつ神から新しい命を授かるとも限らない。
未婚の公爵が、そんなだらしない真似をするわけにはいかなかった。
だから、書類上だけでも婚姻の形を取っておく必要があったのだ。
親戚を説得するのは、難しくはなかった。
いま、ロアアールはフラの援軍を、一番頼りにしている。
スタファは、そのフラの公爵の実弟なのだ。
防衛戦でも、十分に名を馳せた彼を拒むということは、ロアアール軍部を敵に回すのと同義だった。
だからこそ、レイシェスが強引にねじこみはしたものの、こんな普通ではありえない、簡略的な式が周囲に認められたのである。
「ウィニーは、式に来られるかしら」
最前線の土地にいるのだから、無理は言えない。しかし、レイシェスは妹に自分の結婚を祝って欲しかった。
イストが近づき、それと同じだけウィニーと離れて行く感覚も味わいながら、彼女は自分が本当に、妹を心の支えにしていたのだと思い知る。
『大丈夫よ、姉さん!』
「大丈夫だ、レイシェス」
そんな彼女の心の隙間を、スタファは妹とよく似た言葉で、妹とは違う笑みで埋めてくれる。
「ウィニーなら、何としてでも式に駆けつけてくるさ……来るのは、ウィニーだけでいいんだしな」
けれど、彼の心はウィニーよりも狭い。
言外に、「あいつは来るな」と言っているのだから。
「まぁ……でも、彼がウィニーを一人で行かせるとは、私には思えないのだけど」
『あいつ』とやらを思い出し、レイシェスはクスクスと笑ってしまった。
彼は、未来を何ひとつ信用していない。
そんな不確かなものの中に、もはやウィニーを投げ込むとは思えなかったのだ。
「大事にしない癖に、所有欲だけは強い男だからな……」
スタファは、苦い顔でため息を落としながら呟いている。
「いいじゃない、あの人はウィニーだけいればいいんだもの。それも、愛じゃないのかしら?」
きっと今頃も、ウィニーは好き勝手なことをする彼に対して、しっかりと反撃していることだろう。
「違うね、あれは愛なんてもんじゃない」
レイシェスの意見に、スタファは肩をそびやかす。
「あんなもの、奪うことしか考えていない……ただの恋だ」
「まあ」
スタファにかかれば、ギディオンはまるで恋を覚えたばかりの少年扱いだ。
なまじ年齢を重ね、自分の権力の使い方を知っている人間だからこそ、恋を捕まえる力は強大で、タチが悪いもののように思える。
「でも……ウィニーなら大丈夫よ。ちゃんと、彼と戦えるもの」
けれど、黙ってひねりつぶされないのが、彼女の妹の強さ。
レイシェスは、それだけは絶大の信頼を持っていた。
「確かに、ウィニーなら大丈夫だろう……さっさと捨てればいいのにな」
彼女の婚約者は、とことん彼のことを好きにはなれないようだが。
「ウィニーは彼を捨てないでしょうから、これからも四人で前線防衛に努めなきゃね」
そんなスタファに、レイシェスは少し意地悪な言葉を投げてやる。
「四人、ねぇ……不協和音を出す男を一人抜けば、全て丸く収まる気がするが」
下手くそな奏者をけなしながらも、スタファはこれからも彼と付き合っていくのだろう。
レイシェスと、ロアアールのために。
彼女は、そこにウィニーを入れなかった。
ウィニーのために戦う男は、既にいるのだから、と。
寒い土地に、四つの音が奏でられる。
ロアアールの音。
フラの音。
フラとロアアールの間の音。
そして。
イストでもない、黒く耳障りな音。
それらは、絡み合って音楽を作り、ひとつにまとまっていく。
そんな曲が流れる中。
「ねえ、スタファ……いつか私、フラに海を見に行きたいわ」
馬車の外を見ながら、レイシェスはわがままを言った。
「その願いは、必ず叶える……約束だ」
そんな彼女のわがままは──約束を違えられることはなかった。
左肩に住まう黒い男は、その町だけでは満足せず、進撃を続け。
もはや、ロアアールが危険な地だったことなど、みなが忘れてしまうほど、国境線を大きく書き換えてしまったのだから。
その後、新しい地域はエージェルブ諸公国から独立し別の国になるのだが、ロアアールとは、長きに渡って良好な関係を築くこととなったのだった。
『終』