番外編2 ウィリアム④
ドラグールの森で大氾濫の気配有り――。
父上がその急報を受けたのは、明け方のことだったという。宿の騒がしさに俺が目を覚ました時には、父上は護衛の騎士をひとり領地へと先行させるため手配をしているところだった。
父上だけでなく、騎士たちも皆ピリピリと殺気立っていて、よほどのことが起きているのだということだけはわかって。
だから、俺はジョセフに聞いたのだ。
「何があったのか知っているか?」
「それが……。どうやら、ドラグールの森に異変があったようで」
「あの魔の森で? 異変とはどういうものだ」
「私も詳しくは……。フィロース子爵の使者が言うには、大氾濫の気配があるとか――」
「――……なんだって?」
瞬間、頭が真っ白になった。
大氾濫。
言葉だけなら、知っている。
歴史の授業で何度も出てくる言葉だ。人類は古来から、魔物と戦い続けてきた。その恐るべき厄災は、ひとたび発生すれば街一つどころか国一つすら滅ぼしかねないものである、と。
だからこそ、貴族たるものはそれに備え、民を守るべく戦う義務があるのだと――。
一番最近、スタンピードが起きたのはいつだっただろう。
その場所は、どうなっただろう。
――その都市は、壊滅状態に陥って、生存者もほとんどいなかったと。そう教わらなかったか。
「ちょっ、ウィル様っ!」
目の前にいたはずのジョセフの声が、後ろから聞こえる。それでようやく、俺は自分が駆けだしていることに気付いた。
頭はまともに動いてなくても、身体は勝手に動くものらしい。
はやく、はやく、はやく。
行かないと。
助けに行かないと。
心を急かす言葉が頭を埋め尽くす。
階段を駆け下り、宿を飛び出し、目に付いた馬の手綱を握り、鞍に飛び乗ろうと――。
したところで、ぐんっと強く引っ張られ、身体が宙に浮いた。
「何をしている、馬鹿者!」
「……ちちうえ」
額に汗を浮かべたまま、父上が声を荒げていた。
こんな風に怒りにまかせた顔を向けられたのは初めてのことで、ひゅっと喉が鳴る。
だが、それでも、それでも。
――行かなくちゃ。
その気持ちはまったく消えていないのだ。
「放してください、助けにいかないと!」
「愚か者め。今お前が行ったところで何になる! 足手まといになって邪魔をするだけだろうが!」
「でもっ!」
反論したかったのに、言葉が出てこない。
父が正しい。わかっている。わかっていた。
けれど、あの森のすぐそばに、あの兄妹がいるのだ。
初めてできた、友達が。
「ウィル。今お前が――我々がすべきことは、ここで引き返すことではない。一刻も早く領地に戻って、救援隊を組織することだ」
「しかし、父上、それでは」
間に合わないのではないか。
その言葉は、とても口にはできなかった。そうしたら、現実になってしまいそうで。
じわりと目頭が熱くなる。視界がぼやけて仕方なく、何度も瞬きをするのに、そのたびにひどくなっていった。
宙に浮いたまま揺れていた足が、地面におろされる。
俺の両肩をぐっと掴み、正面から顔を覗き込んでくる父上は、さっきまでの剣幕はどこへいったのか、困ったような表情になっていた。
まるで、泣く子には勝てないとでも言いたげな。
「大丈夫だ。防壁を見学させて貰っただろう。あれは防護結界を発動するためのものだ。フィロース子爵は、領民全員を防壁内に避難させ次第、結界を張ると言っている。防護結界はうまくやれば長期間の籠城も可能だ」
「……はい」
「領地に、即座に救援隊を編制し、騎兵だけで先行するよう早馬を出した。ディール卿なら即応してくれるだろう。我々はこれから、すぐに領地に戻る。救援物資の手配と、王家へも対応を依頼せねばならんからな。休憩は最低限となる。耐えろ」
「……っ、はい」
父の言葉は、正論だ。
わかっている。
だから頷いた。
頷いたけれど、心はちっとも納得していなかった。
悔しい。
今まさに、メアリーアンが、リオンが、危険な目にあっているかもしれないのに。
恐ろしい思いをしているはずなのに。
助けに行くことすら、俺にはできない。
父上の号令で、使用人たちが、騎士たちが、慌ただしく荷造りを終わらせて、馬車は出発する。
もはや旅の景色を楽しむ気持ちなど消え失せて、ひまわりの鉢植えを抱えてぼうっとすることしかできなかった。
その晩、フィロース領の方角。その上空で、凄まじい落雷が立て続けに発生していた。まるでこの世の終わりのような異常な光景を、呆然と見つめて。何が起こっているのか、彼らは無事なのか。
ぐるぐる、ぐるぐる。
考えるのはそればかり。
領地に帰り着いてからも、俺にできることなんて何もない。
騎士たちを動かすのも、支援物資を用意するのも、実行する権限をもつのは父上だけなのだから当然だ。
領主城の一画に設けられた礼拝堂で、フィロース領の無事を祈ることしかできなくて、情けなくて、悔しくて、仕方なかった。
――大氾濫収束の速報を受け取ったのは、領地に帰り着いた翌々日のこと。
この時ほど、神々に感謝したことはないだろう。
領主一家は無事だという。防護結界のおかげで、ブルウッドの街にも大きな被害はないそうだ。防壁の外の村の被害はまだまだ未知数で、あたりにまだ魔物もうろついているらしいけれど――ひとまずの危機は脱したと言える、と。早馬での報せに、俺は数日ぶりに安心することができた。
「良かったですね、ウィル様」
「ああ……。本当に……。本当に、良かった」
父上宛にきた急報を、礼拝堂に籠もっていた俺に教えにきてくれたジョセフも、ほっとしたような顔だ。
「それじゃあ安心したところで、食事をしに行きましょうか。ここのところろくに食べてないでしょう。奥様も旦那様も、心配してますよ」
「……そうだな。すまない」
どうやらここ数日の俺の様子は、周囲に心配をかけるようなものだったらしい。礼拝堂を出るや、すれ違う使用人みんな「良かったですね」と声をかけてくる。執事や家政婦には顔をしわくちゃにされて喜ばれた。
食堂に顔を出せば、待ち構えていた母上に抱きしめられて、困惑してしまう。高位貴族の貴婦人は、子どもと接するのに直接抱き上げることはあまりない。たいていは育児は乳母に任せるものだからだ。
俺の記憶にある限り、こんなことは初めてだ。
「あなたの方が倒れてしまうのではないかと思いましたよ」
「……ご心配をおかけして、申し訳ありません」
いつにない至近距離にある母の顔。王家の血筋特有の、明るい青の双眸には涙がにじんでいた。
「いいのです。けれど、貴方がお友達を心配するように、貴方を心配する者もいるということだけは、忘れないでちょうだい」
「はい、母上」
――愛されていない、と。思っていたわけではない。
関心も愛情もきちんと向けられていると、わかっていたつもりだったけれど。
こんな風に態度で、言葉で示されるのは初めてのことで、気恥ずかしくなってしまう。こんなとき、メアリーアンなら、屈託なく笑って母親を抱きしめかえすのだろうか。
「……さあ、ひとまずの憂いは晴れたことですし、お友達の話を聞かせてちょうだい」
「は、はい!」
柔らかに微笑む母に、ようやく俺も、笑顔を返せた。
あの街での日々を、楽しい思い出話として母上に話せることが嬉しい。
また心配されてはいけないから、今日はもう行かないけれど、明日になったらまた、礼拝堂へお参りしよう。
今度は感謝を捧げるために。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!




