影からの招待状
「人に、なった……?」
目の前で漆黒の影が鮮やかな人肌の女性へと変貌を遂げた光景を目の当たりにし、ナオミは警戒の色を一層強めながらも、驚愕に瞳を大きく見開いたまま微動だにせず構えを解かずにいる。
そんな中、変化した女性の顔立ちをまじまじと見つめていた瀬戸の喉から、突如として息を呑むような声が漏れた。
《……っ! お前……神楽坂か……!?》
その女性の顔には、瀬戸がよく知る懐かしい友人としての面影が、ありありと刻まれていた。唯一、昔の記憶と異なっているのは、白く透き通るような頬や滑らかな首筋、そして身体のあちこちにまるで生き物のようにうごめく、刺青じみた異性物質の不気味な模様だけだった。
《そうやで。あおいちゃんやで……久しぶりやな、瀬戸先輩》
神楽坂葵――かつての知人がそう名乗り、まるで何事もなかったかのように嬉しそうに手を振りながら笑顔を向けてくる。
その余りにも人懐っこい態度は、殺伐とした戦場の真ん中にあるとは思えないほど自然だった。
『紬……彼女は一体……?』
(俺の、大学時代からの友人だ……あれが本物なら、な)
通信回線を通じて不安げに問いかけるエマに、瀬戸は冷や汗を流しながら心の中で苦渋の返答を返す。
二千年という途方もない歳月を経たこの終末の世界で、かつての大学の知人に遭遇するという展開は、あまりにも出来すぎていて都合がよすぎる。目の前の存在が本当に本物なのか、それとも記憶を巧妙にハッキングされた罠なのか、瀬戸の胸中から疑念の霧は一向に晴れなかった。
《お前……本当に、本物のか?》
湧き上がる数々の疑問と警戒心を抑えきれず、瀬戸は思わずそう問い質す。
《失礼やな。こんなべっぴん、ほかにそうそうおらへんやろ? なんやったら、昔の恥ずかしい話でもしよか?》
《……っ……!》
返ってきた言葉は、あまりにも昔と変わらない、記憶の通りの口調だった。その圧倒的なリアリティを突きつけられ、瀬戸は思わず言葉を失い、大きく動揺してしまう。
《そやけど……まあ、今日はもう時間がないようやな》
ふと、葵の表情がわずかに引き締まり、周囲の空気がピリッと張り詰める。その言葉と同時に、彼女は再びその柔らかな人肌の身体を、どす黒い異性物質の影へと変化させ始めた。
[ディアーナ:警告! 対象の生体反応が急速に消滅します!]
「逃がさない……っ!」
ディアーナの切迫した警告が響き渡るのと同時に、ナオミが「逃がすものか」とばかりに黒剣を鋭く閃かせ、影と化した神楽坂めがけて一気に踏み込み、強烈な一撃を叩き込みにいった。
しかし、瀬戸が咄嗟に制止の声を張り上げるよりも早く、ナオミの刃が振るわれる。
「やめろ、ナオミ……ッ!」
叫びは間に合わず、黒剣は猛烈な勢いで影を両断したかに見えたが、そこにはただ空を切る乾いた風の音だけが虚しく響き渡るばかりだ。
《おっかない子やねえ。まあ、そんなん効かへんけど》
完全に異性物質の影へと戻った神楽坂は、揺らり、ゆらりと、まるで実体のない幻影のようにその場をただ漂っている。ナオミがどれほど激しく剣で切り裂こうとも、あるいは致命的な急所を貫こうとも、まるで濃い煙のようにふわりと舞い散るだけで、物理的なダメージは一切通じない。
「っ……この……!」
《今日は、邪魔者がいっぱい増えてきたようやし……また今度にするわ、先輩》
神楽坂の姿は、まるで初めからそこに存在していなかったかのように、周囲の大気中を満たす微細な異性物質の粒子へと溶け込んでいく。
《待て、神楽坂っ……!》
《ほなな》
瀬戸の伸ばした手すらもすり抜けるように、影はみるみるうちにその色を薄くし、完全に消え失せてしまった。
[ディアーナ:対象の反応、完全にロストしました。それと保管されていた人形の反応も同時に消失しています]
完璧に意表を突かれ、手の上で転がされたような、何とも言えない気味の悪い虚脱感が瀬戸の胸を満たしていく。そのやり口は自分の知っている神楽坂をありありと思い出させる。
「ねえ……大丈夫?」
ナオミが荒い息を整えつつ、黒剣をそっと鞘に納めながら瀬戸の側へと歩み寄ってくる。
「ああ、そっちはどうだ?」
「ん? 大丈夫……リズはまだ気を失って眠ってるけど、ちゃんと生きてるよ」
ナオミ自身もすでに戦闘態勢を解き、周囲への警戒を緩めていることから、ひとまずこの場の危機は去ったと判断し、瀬戸はナノマシンの出力を下げる操作を行う。
革鎧の継ぎ目を眩く照らし出していた純白のプラズマ発光が次第に収まり、いつもの無機質な暗色へと戻っていく。
[ディアーナ:注意。下の階層から、多数の不審な反応が急速に接近してきます]
ディアーナからの新たな警告とほぼ同じタイミングで、重々しい足音が階下の通路から響いてきた。どうやら、この遺跡を管理・警備している常駐の兵士たちが、戦闘の音を聞きつけて一斉に駆けつけてきているらしい。
(邪魔者が増えてきたって言ってたのは、この警備兵たちのことか……)
『そのようですね……。あちらの索敵能力や情報網も、私たちのシステムと同等か、それ以上のようです』
瀬戸は深く、重苦しい溜息を一つ吐き出しながら、目の前に広がる荒れ果てたオフィスを見回した。これからやって来る警備兵たちに、この惨状を一体どう説明したものか。頭痛の種が増えたと眉間を押さえていると、ふと、床に転がっている粘田の冷めきった遺体に視線が止まった。
倒れた直後は何も持っていなかったはずのその硬直した手の中に、なぜか一枚の白い紙片がしっかりと握りしめられていることに気づく。
不審に思いながらも近づき、その紙を引き剥がして確認すると、そこには綺麗な日本語でこう記されていた。
――明日、北の森で待っとる。見つけてみ。
「……っ」
瀬戸は無言のまま、その紙きれを右手の力でぐしゃりと力強く握りつぶす。そして、再び周囲の広大な空間へと視線を走らせた。
もうそこにはいないはずの神楽坂葵の視線が、今なお背中に突き刺さっているような奇妙な悪寒を感じつつ、瀬戸は迫り来る警備兵たちを迎えるため、ゆっくりと言葉を呑み込んでそちらへと歩き出した。




