揺れる王国、勇者の影
鉄錆の町に暗闇が満ちる頃、ベッツの宿の前には一際目を引く豪華な馬車が停まっていた。宿の喧騒を背に、馬車が静かに滑り出す。車内には三人の影があった。ガレス、バレリアン、そして彼を迎えに来た副隊長メイア・グレースである。
「隊長! 本当に、いい加減にしてください! 泥酔して宿にまで迷惑をかけて……っ、一体どういうつもりですか!」
メイアのお説教は、馬車が動き出した瞬間から止まる気配がない。彼女の鋭い指摘に対し、ガレスは頭の後ろで手を組み、苦笑しながら「すまん、すまん」と謝罪を繰り返す。その図式は、まるで父と娘のようでもあった。
「メイア、それくらいにしておけ。ここ連日、命懸けの戦いが続いたのだ。ひと時の酒くらい、大目に見てやれ」
バレリアンが穏やかに仲裁に入ると、メイアは不満げにしつつも、ようやく口をつぐんだ。静寂が訪れた車内で、バレリアンは表情を消した。その目は、先ほどまでの慈愛に満ちた老人から、王国を見守る重鎮のそれへと変わっていた。
「……ガレス。そろそろ本題を聞こうか。あの黒剣、いやセトという男、一体何者だ?」
車内の空気が一変する。メイアもあわてて姿勢を正した。二人はいままでずっと、瀬戸に探りを入れていたのだ。あの異常な戦闘力、遺跡物を扱うことのできる特異な体質。そして、何より魔力を一切感じないという不可解な存在感。
ガレスは背筋を伸ばし、真剣な眼差しで答えた。
「ホーエン殿。私は彼と背中を預けて戦いました。はっきり言って彼の行動に裏表はない。彼はただ、純粋に人を助けるためだけに動いていました。それにどうやら嘘はそれほど得意ではないようです。あんなに感情が豊かで貴族ぶぜんとした私にも分け隔てなく接してくれる人物としか言いようがありません」
バレリアンは深く頷く。
「わしもそう思う。弟子が倒れたときの激昂が演技だったとも思えん。先ほども何を思い詰めているかと思えば……優しすぎるのう」
彼自身も、瀬戸という人間に邪な気配は感じなかった。だが、疑問も残る。あの強さであれば国内外でも聞こえてくるはずなのだから。幸い今回、「特別協力者」として遺跡物を使用し、その報告として王都へ彼を招集する口実はできた。今後、この荒廃した世界で彼と繋がっておくことは、王国にとって大きなカードになるはずだとバレリアンは思案する。
しかし、ガレスの口から飛び出した言葉は、バレリアンの推測を遥かに超えていた。
「……あと可能性の話ではありますが……セト、あの方は勇者様と思われます。」
馬車が大きく揺れた気がした。メイアが「えっ!」と声を上げ、バレリアンは眼光を鋭くさせ、その太い眉を深くひそめた。
「何か根拠がなければそのような戯言を言うまい。ガレス、理由を述べよ」
「はい。可能性と申しましたが実は確信に近いと感じております。……まず第一に、ダンジョンで出会った時、あの浮世離れした雰囲気です。どこか、昔会った誰かと重なるような……そんな感覚がありました」
「そういえば、貴殿は任務中に勇者と会ったのであったな……」
「はい……今思えば、あの時の勇者様と初めて黒剣として会った時の感覚は似ておりました」
ガレスは指を折りながら続ける。
「次に、今回のダンジョン内での戦闘報告です。ダンジョン内で『勇者が使った』と伝承される技——あの圧倒的な白光を見たという証言が複数上がっております。その後の捜査であの場所には黒剣であるセトだけしかおりませんでした」
「ふむ……勇者がダンジョン内にとどまっていた可能性は?」
「ダンジョンの出入り口は検問が常に管理しております。それに先の戦闘の際は研究員と護衛の傭兵、数人の隊のみでした。あの騒動の中潜んでいるとは考えられませんが可能性としては残っております」
バレリアンはガレスの正直な報告に思案を広げる。現状は、瀬戸が勇者と結びつく決定的な証拠は出ていない。しかしガレスは続ける。
「三つ目、一緒に戦ってみてわかりました。防具や武器は違うが、動きの流派……あの洗練された剣技は、我々の知るそれとは一線を画していました」
「確かにのう……王国や近隣諸国であのような流派は見たことがない」
「はい。そして……」
ガレスは一度言葉を切ると、最後に最も決定的な事実を告げた。
「……そして……『セト』という名です。実は親衛隊第3部隊隊長、バルト様が謁見した際に名乗ったという勇者様の名前……それが『セト』だったと聞いております」
車内に重苦しい静寂が落ちる。バレリアンは押し黙り、メイアは口を開けたまま思考停止に陥っていた。数分が経過し、バレリアンがようやく口を開く。
「……このことは、しばらく伏せよ」
「ですがホーエン様! それは一大事です。すぐに王に報告を——」
メイアが即座に異を唱えるが、ガレスがそれを遮った。
「落ち着け、メイア。報告しないのが我々の総意だ」
「どうしてですか!」
バレリアンが窓の外を眺めながら、重々しく言った。
「先の化け物どもの異常行動、黒ずくめの集団の暗躍だけでも手一杯だ。それに加えて、王都では第一皇子と第二皇子の王位継承争いが激化している。もし今『勇者』などという報告を持ち帰れば、両派閥の駆け引きは破滅的な火種になる。勇者を自分たちの勢力に取り込もうとする輩が、あの男を政治の渦に引きずり込むだろう。その結果どうなるか予想もつかん…」
メイアは唇を噛みしめ、拳を握りしめた。彼女の正義感はすぐに報告すべきだと叫んでいるが、王国を取り巻く現状の危うさも理解している。
「……分かりました。秘密を厳守します」
馬車は揺れながら荒野を進んでいく。しばらくして、ガレスが思い出したように問いかけた。
「そう言えばホーエン様、先ほどセト様に何を伝えていたんですか?」
「今回のダンジョンの発掘物についてだ。きゃつらに持ち去られた遺跡物について聞かられたのだ。それと……同じような物が北東の森にある別のダンジョンでも目撃されたことがあると伝えた」
「遺跡物とダンジョンですか……」
バレリアンは暗い表情で、窓の外に広がる広大な荒野を見つめた。
「彼は、何をなそうとしているのか。……ただの放浪者か、それとも……」
その答えを知る者は、まだ誰もいない。ただ、彼らの運命の歯車は、確実に勇者の軌跡をなぞる方向へと回転し始めていた。馬車の行く先には、まだ見ぬ戦火の兆しが渦巻いている。だが、その夜、鉄錆の町で瀬戸が見せた、守るべきものへの眼差しだけは、疑いようのない事実として三人の胸に刻まれていた。




