深淵の対話
光の届かぬ場所がある。あるいは、光そのものが存在を許されない場所と言い換えるべきか。
そこは、世界が形作られるよりも以前から、そして世界が滅び去った後もなお残り続けるであろう深淵の底。澱んだ空気は重く、永遠の停滞を告げている。
その暗闇の中で、一対の瞳がゆっくりと開かれた。
まぶたの裏に張り付いていた永い眠りの残滓を払い落とすように、その瞳は暗闇を射抜く。それは、星の死よりも冷たく、そして深淵の底よりも濃い光を湛えていた。
「貴様か……珍しいことがあるものだ。して、何用か?」
低い声が、静寂を切り裂く。ここに訪れるものはまずいない。来るとすればそれは同種か、あるいは同じ理を持つものか、それとも、命の価値さえ理解せぬ無謀な愚か者くらいなものだ。
闇の中から、影が浮かび上がる。いや、影というにはあまりにも輪郭が不安定だった。少女のような声、女性のような甘ったるい声、あるいは幼子のような澄んだ声。それらが混ざり合い、一つの喉から響き渡る。
「あなたはずっと眠っているようね。」
「おかげで探す手間が省けるんだけどね。」
「お寝坊さんだね。」
おとずれたのは一人だが、声はころころと変幻自在に変わる。その奇妙な響きに、主は小さく溜息をついた。
「……相変わらずうるさい奴だ。」
目を開ける気も失せたのか、重い頭を、再び腕の重みの中へと沈めた。再び訪れる深い眠りの誘惑。しかし、目の前の客人はそれを許そうとしない。
「あなたに教えてあげようと思って。」
「飛び切りの報告を持ってきたのに。」
「せっかく教えてあげようとしたのに。帰っちゃう?」
客人は言葉と裏腹に、家主がこういう人物であることを百も承知しており、わざとこのように振る舞っている節もある。家主もそれをわかっており、真面目に相手をしないだけなのである。
「用がないなら去れ。」
家主はまた眠りにつこうとする。だが客人は、本来の目的を告げることにした。
「系譜者が現れたわ。」
「……何?」
客人の言葉に、家主は片目を開ける。
「貴様にしては面白い冗談だな。我が怒る前に帰るが好かろう。」
家主は静かな怒りを瞳に宿し、客人を見やる。
「嘘ではないわ。」
「本当に見たもん。」
「僕たちのテリトリーに来たもん。」
客人も今回はおふざけでないと伝える。家主はしばしの沈黙のあと、重々しく問いかける。
「……本当なのだろうな……」
嘘なら許さない、という威圧的な瞳で客人を見据える。客人はその眼光を流すように交わし、涼しそうに語る。
「ええ、現れたと思ったら気持ちのいいくらい暴れているわ。」
「ゴフェルも倒してたよ。」
「ゴフェルを封じてたよ。」
客人は自分が見たことを伝えるが、家主はその行動に驚きを隠せないでいる。
「ゴフェルだと? 系譜者がゴフェルを倒し、封じただと? なぜそのようなことをする。」
客人の言に、にわかに信じられない様子の家主。眠気が覚めるような出来事に、思考を加速させる。
「さあ、彼らの考えは私たちにはわからないわ。」
「系譜者が裏切ったのかも。」
「鳩が暴走したかも。」
彼らにもこの状況はイレギュラーなようだ。どうやらただ傍観することもできなくなる状況に、家主は溜息を吐きだしそうになる。そんな家主をよそに、客人は系譜者を思い出しながら答える。
「ただ、私たちに匹敵する力を得てきたようよ。」
「光ってた。」
「速くて、強かった。」
客人の言にますます困惑の様子の家主。だが、ここまで言うのであれば本当に系譜者が現れたということなのだろう。
「…なるほどな、それほどの力があり、われらよりの行動をとるか…我らが考えているより状況は良い方向に進むのか?」
家主が観測的希望に期待を寄せる中、客人はすぐさま言葉を遮る。
「多分だけど、状況がわかっていないんじゃないかしら。」
「力はあれど心は未熟。」
「カラスを助けてた。まだ子供?」
客人が系譜者の弱点を告げる。その事実に家主もまた深い思慮に入る。
「……そうか……すべてを知った後、系譜者はどの道を選ぶのか……」
家主はさらに思案し始める。自分たちの敵か、味方か、あるいは傍観者か…それはいずれわかることだろう。家主は目を開け客人を再度見やる。
「して貴様はどうするつもりだ? ただ知らせに来ただけではあるまい。」
客人に向け、家主が今度は問う。
「そうね。しばらくは見守もってみるわ。」
「虹の契約。」
「ゴフェルの木を切り倒すまで。」
客人は今後の目的を伝える。どちらにせよ系譜者は放置できない。敵になるのならなおさらだ。
「そうか。いずれにせよ奴らに気づかれぬように進めねばならない。」
家主は客人に告げる。我らが目的の成就の為、行動を起こすことにする。
「わかっているわ。」
「鳩をなくすため。」
「神酒をささげるため。」
客人はうなずいている。
「いずれわしも系譜者を見定めねばならぬな。」
家主はいつかの系譜者を思い出す。「あれから成長しておればよいがのう……」
「大丈夫でしょ。」
「系譜者は強くなる。」
「セトは強くなる。」
客人はそう言い残し、闇の中へと消えていった。残された家主は、再び静寂の中、深淵の眠りへと意識を沈めていく。すべてが動き出した世界の中で、ただ唯一、系譜者の行く末を見つめながら。




