脆弱な福音
「ディアーナ、展望窓を開放しろ」
ゼノ・ヴァルカス艦長が短く命じると、空間に響く電子音とともに、壁面を覆っていた重厚な装甲が音もなく左右へスライドした。
[ディアーナ: 了解しました。メイン・ビューポートを開放します。……瀬戸さん、これが私たちの故郷です。]
シールドが剥がれ落ち、瀬戸の眼前に「それ」が現れた。 かつての青い地球の面影はなく、禍々しいほどの深緑と、異常進化を遂げた有機的な巨大な雲に覆われた、全くの異形の星が浮かんでいる。
瀬戸は息を呑んだ。美しさよりも先に、底知れぬ恐怖が脊髄を駆け上がる。
「……あれは、地球?」
ゼノは、展望窓から目を離さずに呟いた。
「そうだ。だが……2000年だ。君が知っているはずの故郷からは、気が遠くなるほどの時間が流れてしまった」
「2000年……?」
瀬戸の喉から、掠れた声が漏れた。
「ここは『宇宙ステーション・ラビット』。我々が最後に残した、人類の希望の籠だ」
ゼノは瀬戸に背を向けたまま、静かに続けた。
「ディアーナ、記録映像を投影しろ。彼に、この2000年で何が起きたのかを理解させる必要がある」
[ディアーナ: 了解しました。歴史アーカイブ、シークエンス001を再生します。]
瀬戸の周囲に、青白い光が収束する。そこに映し出されたのは、2000年前の鮮明な映像だった。 トルコ、アララト山から発見された巨大な方舟。当時ニュースになっていたため瀬戸も覚えていた。しかしその深部には、時間軸が止まったままの、過去より齎された異星物が安置されていた。
「人類はその解析を急いだ。世界中の大学や研究施設へ異星物が運ばれ、解析が始まった。しかし、それが運命の分かれ道だった」
映像の中で、ある大学の研究所が映し出される。封印されていた異星物が微かな亀裂を露わにし、そこから未知のウイルスが漏れ出したのだ。 研究室内の研究員たちは、悲鳴を上げる間もなく、異形へと変貌していった。
「パンデミックは、そこから瞬く間に世界中へと広がった。そのウイルスは、宿主の遺伝子を強引に書き換え、強制的な進化を促した。地球の生態系そのものが、あのウイルスに汚染され、異形へと変貌していったのだ」
映像は、炎上する都市と、逃げ惑う人々、そして宇宙へ飛び立つ無数の避難船へと切り替わる。
「人類は地表を放棄し、宇宙へ逃げるしかなかった。それから約1900年の間、我々は限られた資源で宇宙ステーションという籠の中で命を繋いできた。だが、50年前、運命の時が訪れた」
映像が切り替わり、荒廃した月面基地や、枯渇した小惑星採掘場の記録が映し出される。
「月面や宇宙空間からの資源供給が、完全に枯渇したんだ。我々は限界を迎えた。人類は、生き残るために最後の選択を迫られた」
ゼノの瞳には、かつての指導者たちが抱えた絶望が宿っていた。
「選択肢は3つだった。未知なる深淵へ挑む外宇宙への旅立ち。赤い荒野に賭ける火星への移住。そして、このラビットのように、必要最低限の人材を残し、希望を未来へ託すコールドスリープ。……だが、どれも正解ではなかった」
ゼノは重苦しく言葉を継いだ。
「外宇宙へ旅立った船団は、通信が途絶えた。火星へ向かった植民地からも、半年で応答がなくなった。唯一、このコールドスリープだけが……かろうじて今もこうして機能している」
瀬戸は、冷え切った船内の空気に耐えきれず、問いかけた。
「……あと、どれくらい持つんだ? このステーションは」
ゼノは頷き、メインコンソールへ視線を向けた。
「ディアーナ、現在の艦の状況は?」
[ディアーナ: 了解しました。状況を報告します。48年前にステーション『ジェミニ』、ステーション『ドルフィン』と統合。収容人数は3,580,289名。内、現在活動中のクルーは瀬戸紬を合わせ4名です。残りは全員、コールドスリープ中です。]
ディアーナの淡々とした電子音が、無情にもステーションの限界を告げる。
[ディアーナ: 今後の艦の活動予定としましては、50年で機能停止となります。]
50年。それが人類という種の、最後に残された時間だった。
ゼノは、沈黙する瀬戸を見つめた。その表情には、同胞に対する強烈な恥辱と悲哀が浮かんでいた。
「かつて、このステーションの他に6つのステーションがあった。だが資源の枯渇に伴い、多くのステーションが崩壊した。そんな中『キャンサー』という名のステーションが、地球降下作戦を強行したんだ」
ゼノの声は震えていた。
「彼らはウイルスを制御できると過信していた。免疫を持たないクルーを無理やり降下させ、次々と未知のウイルスによる感染で隊員たちは死んでいった。……それだけではない。彼らは、コールドスリープ中の者たちを無断で降下させ、あろうことか『瀬戸紬』君の遺伝子データを解析し、大量のクローンを作り出しては地球へ投棄し続けた」
瀬戸は、言葉を失った。自分の複製が、幾度となく使い捨てられていたという事実。
「彼らはさらに、捕らえた変異体を実験体にし、人ではない何かへと作り変えた。ウイルスによる強制的な遺伝子書き換えという、非人道的な実験の数々……。その果てに、何が起きたと思う?」
「……何が起きたんだ」
「クーデターだ。実験の狂気に耐えきれなくなったクルーたちが蜂起し、キャンサーは内部から崩壊した。宇宙の塵となったんだ。……我々は、あの惨劇を二度と繰り返してはならない」
ゼノは瀬戸の肩を強く掴んだ。
「君の血液には、あのウイルスに対する唯一の自然な抗体がある。君の身体を通せば、君はあの地獄の環境に適応するためのデータを、安全に獲得できるはずだ。……君はクローンじゃない。オリジナルだ。君の体内で生成されるその免疫情報さえあれば、眠れる同胞たちを救うことができる」
「つまり俺に、実験台になれと言っているのか?……地球に降りて、ワクチンでも作ればいいんじゃないのか? 俺に抗体があるなら、そのウイルスを中和して……」
瀬戸の言葉に、ゼノは重苦しく首を振った。
「環境の回復か? いや、目的はそこではない。この2000年、我々は宇宙の無菌状態で生きすぎた。……瀬戸紬、我々の免疫機能はもう、完全に壊死している」
ゼノは寂しげに微笑んだ。
「今の我々が地球の空気を吸えば、それだけで即死する。ウイルスどころか、ただの塵や雑菌一つで、我々は内側から崩壊するガラスのような存在だ。地球を変えるのではない。我々が、地球の過酷な環境に適応しなければならないのだ」
「適応……?」
「そうだ。君は唯一、あの異星物のウイルスに対して耐性を持つ。君の身体を介して、我々は地球の『真実』を学ぶ必要がある」
ゼノは、ステーションの中央に再びホログラムを投影した。そこに映し出されたのは、複雑な数式と人体構造の図だった。
「君が地球へ降下し、あの災厄の源である『オリジン』を見つけ出す。そして、そこで独自の進化を遂げた生物たちの情報、抗体のデータを君自身の身体で吸収し、持ち帰るのだ」
ゼノは切実に訴えた。
「そのデータを我々に移植し、万単位の同胞たちへアップデートとして流し込む。それが、我々が生き残るための唯一の道だ。我々は、この荒れ狂う地球で生き抜くための『免疫』を、あの地から盗み出さねばならない」
瀬戸は呆然とした。救世主などではない。自分は、かつての残酷な文明が生き延びるために、地球の生態系から「強さ」を盗み出すための「運び屋」に過ぎないのだ。
「……だが、前回降下したステーションは失敗しただろう? なぜうまくいくと思っているんだ」
ゼノの顔に、深い影が差した。
「……前回の部隊は、人倫を捨てた。彼らは地球の生物を捕らえ、実験体として切り刻み、情報を強奪しようとした。その非道な行いが、地球の怒りを買ったのか、あるいはウイルスがそれを『拒絶』したのか……」
ゼノの拳が震えている。人情味のある彼にとって、過去の同胞の蛮行は、拭い去れない汚点だった。
「君にお願いしたいのは、そんなことではない。君の抗体があれば、強引な採取などせずとも、その環境に溶け込み、自然と情報を観測できる可能性がある。……だが、それは君自身を、あの地獄の真っ只中に放り出すということだ」
瀬戸は、窓の外の地球を見つめた。 そこに眠る数多の変異体。かつての降下部隊が犯した罪。そして、ステーションで眠る万単位の人々。
「俺は……その抗体を持っているというだけで、誰かの代わりに地獄に行けと?」
「そうだ。……酷なことだと分かっている。君を2000年も眠らせておいて、今更こんな運命を押し付けるなんて」
エルが、瀬戸の震える肩にそっと手を置いた。彼女の慈愛に満ちた瞳は、瀬戸の苦悩を誰よりも深く理解していた。
「瀬戸さん、私たちがあなたを起こしたのは、あなたを使い捨てにするためじゃない。……あと50年、誰かが外に出て、希望を持ち帰らなければ、私たちは滅びるしかない。それは、私たちだけじゃなく、眠っているみんなの未来でもある。私たちは実験なんてしない。……あなたを守るためなら、命だって懸けるわ」
瀬戸は、展望窓に映る自分の顔を見つめた。 ただのサラリーマンだった自分が、人類の生存データという「情報の運び屋」に仕立て上げられようとしている。
かつてステーションが犯した罪、そして今もこのステーションの奥底で眠る無数の人々の命。その重圧が、瀬戸の胸を押しつぶしそうだった。
「……少し、考えさせてくれ」
瀬戸は、ゼノ艦長とエルの視線から逃げるようにデッキを去った。
廊下を歩くたび、ステーションのあちこちから聞こえる装置の低い唸りが、まるで人類の余命を刻む時計の音のように聞こえてならなかった。 自分の遺伝子が、自分以外の誰かによって弄ばれ、殺されていたかもしれないという事実は、あまりにも受け入れがたかった。
彼は自室の扉を閉め、冷たい床に座り込んだ。 このステーションは、本当に「希望」なのか。それとも、かつてのキャンサーと同じように、人類の尊厳を捨てて生き延びようとする「墓場」なのか。
右腕の喪失感が、ズキズキと彼を責め立てる。 50年という猶予の中で、彼は答えを出さなければならない。自分自身のために、そして人類という種のために。




