戦場の女神と、白銀の「残業」
硝煙と血の匂いが混ざり合い、戦場は地獄の煮凝りと化していた。
エイセフォール王国の最前線。
泥濘と化した平原で、第一王女レイア・フォン・エイセフォールは、既に限界に達していた。彼女の銀の甲冑は血と煤に汚れ、右肩の装甲はゴブリンの錆びた斧によって半ば削り取られ、剥き出しになった肩からは鮮血が滲んでいる。
「怯むな! エイセフォール王国の誇りにかけて、民一人たりとも、この地で死なせはせぬ!」
レイアは血濡れの剣を高く掲げ、掠れた声で叫んだ。傍らに控える近衛騎士隊長バルトが、ひび割れた盾を構え直しながら、押し寄せるゴブリンの群れを強引に突き飛ばす。その盾には、既に数本の槍が突き刺さったままだ。
「殿下! 前線が崩れかけています! 魔導師部隊の魔力が尽きれば、我らもただでは済みません! ここは引くべきです!」
「承知している! バルト、あと少し持ちこたえれば避難民が森を抜ける! 誰一人として死なせるわけにはいかないのだ!」
戦場にはゴブリンたちの卑劣な笑い声と、兵士たちの断末魔が交錯している。レイアの傍らには、侍女兼専属魔導師として常に付き従うセシルが、杖を握りしめ、青ざめた顔で呪文を詠唱していた。
「火炎の渦よ、悪しき者を焼き尽くせ――『フレア・ストーム』!」
セシルが放った紅蓮の魔法が戦場を支配した。爆風とともに広がる炎の渦が前線のゴブリンを飲み込み、皮膚が焼ける悪臭と肉が焦げる臭いが立ち込める。魔法の熱風で視界が歪む中、炎をすり抜けてくる個体をレイアが自身の剣で一閃し、汚泥の飛沫を浴びる。セシルは杖で魔法を放ち続ける傍ら、隙を見てレイアの傷口に応急処置を施そうと駆け寄った。
「殿下、お怪我を! お願いです、せめて防衛線の後ろまでお下がりください。……魔力も底を尽きているではありませんか?」
「いいえ、私が退けばこの防衛線は終わるのよ、セシル! 魔法が使えなくても一人でも多くを森の奥へ送り届けるまで、私はここを動かない!」
レイアの瞳に宿る不屈の意志が、疲弊しきった兵士たちの心を再び繋ぎ止め、彼らは盾と槍の壁を作り直した。しかし、戦況は残酷を極めていた。セシルの魔力は限界に近く、炎の光が減衰するたびに、闇の中から増え続けるゴブリンが王国軍の陣形を確実に削り取っていく。
バルトの騎士たちが一人、また一人と地泥に沈むたび、レイアの胸には激痛が走る。防衛ラインの維持は、もはや綱渡りですらなかった。
(……あと少し。ここで少しでも食い止めれば、民たちを逃がせる!)
レイアがその言葉を自分自身に言い聞かせていた、その時だった。
「――ッ! 王女殿下! 南側の森より、異常な反応を確認! ゴブリン、そしてナルムクツェの大群が押し寄せてきます!」
斥候の悲痛な叫びが、兵士たちの最後の希望を断ち切った。森から現れたのは、単なる獣ではない。彼らは統率され、有機的な戦術を以て包囲網を敷こうとしている。明らかに異常だ。
「総員、一時撤退! 避難民を先頭に、平民兵は次へ! 正規兵が殿を務めよ!」
レイアの指示に、バルトが血の混じった唾を吐き捨てるように食い下がる。
「殿下、それがしが殿を受け持ちます! 殿下はご退避を!」
その決意を嘲笑うかのように、地響きとともにナルムクツェに騎乗したゴブリンの精鋭部隊が、王国軍の薄氷のような陣形を楔のように切り裂いた。
「殿下! 下がってください!」
セシルが杖を捨て、王女を庇うように盾を掲げるが、巨大なナルムクツェの爪が容赦なく襲いかかる。死を覚悟し、レイアが目を閉じた瞬間――世界が、白銀に染まった。
ドォォォォォン!!
耳をつんざく衝撃音と、閃光。
レイアを襲おうとした怪物は、超高密度のプラズマによって一瞬で焼き払われていた。
砂埃が舞う中、そこに立っていたのは、見たこともない白銀の甲冑を纏った騎士だった。
彼は戦場の汚泥とは無縁の神聖な面持ちで、疲れ切った様子で天を仰いだ。
「ブラック企業も真っ青な仕事量だな。……ったく、こちとら2000年寝てたんだぞ」
騎士は不穏な言葉を吐き、ビームサーベルを静かに構え直す。次の瞬間、彼が踏み込んだ大地がひび割れた。音速を超える一閃が、ゴブリンの群れをなぎ払う。
「さあ、業務開始だ」
騎士の動きは流麗だった。サーベルが光の軌跡を描くたび、ゴブリンの首は宙を舞い、ナルムクツェの巨体は真っ二つに裂かれる。群れをなして押し寄せるゴブリンたちに対し、彼は退くどころか、あえて中央へと突撃していく。放たれるプラズマ弾は確実に敵の心臓を射抜き、次々と大軍を蹂躙していく。
「……さてと。この分なら、残業代はきっちり弾んでもらうからな」
その言葉の意味はレイアには理解できない。しかし、神々しい背中と、人間臭いぼやきのギャップに、絶望に支配されていたレイアの心は衝撃を受けた。
彼は、美しい。
「……あなたは、一体……?」
レイアの問いかけに、白銀の騎士は振り返りもせず、迫り来る群れへと歩き出した。その背中は、どんな英雄譚の勇者よりも頼もしく、美しく見えた。




