第9話 「鍛冶屋の跡で」
東区画は静かだった。
大通りから外れると、石畳が途切れて土の道になる。建物の間隔が広くなり、人の姿が減る。朝の早い時間帯だからか、それともこの区画自体に人が少ないのか。おそらく両方だ。
古い鍛冶屋の跡は、すぐにわかった。
他の建物よりすすけている。壁の石が黒ずんでいて、長年の熱を吸い込んだ跡が残っている。扉は木製で、蝶番が錆びていた。だが鍵はかかっていなかった。
俺が扉を押すと、軋んだ音がした。
中は広かった。鍛冶場の名残で、中央に大きな炉がある。とっくに火は消えていて、炉の中には灰が積もっていた。窓から朝の光が差し込んで、埃が舞っているのが見える。
カルロはすでにいた。
炉の前に置かれた木箱に座り、目を閉じていた。俺たちが入ってきた音で目を開けた。
「来たか」
「約束でしたから」
カルロは立ち上がり、炉の周りをゆっくり歩いた。何かを確かめるように、壁を一度だけ手で触れた。
「ここは十年前まで現役だった。鍛冶師が死んで、跡継ぎがいなかった。今は誰も使っていない」
「なぜここを?」
「人に聞かれたくない話をするのに、適した場所だからだ」
エリナが俺の隣で腕を組んだ。警戒しているというより、集中している姿勢だ。
カルロが俺を見た。
「座りなさい」
炉の縁に腰を下ろした。エリナも隣に座る。カルロは立ったまま、俺を見下ろした。
「魔法の話をする前に、お前自身の話をしろ」
予想していなかった言葉だった。
「俺自身の話、ですか」
「この世界に来てから今日までのことを、順番に話せ。何を見て、何を考えて、何をしたか。できるだけ詳しく」
俺はカルロの意図を考えた。
備考欄を読める、と言った。俺に何かを教えると言った。そのための準備として、俺自身のことを把握したいのか。それとも、話の内容から何かを測ろうとしているのか。
どちらにしても、隠す必要はない。
「わかりました」
俺は話した。
森で目覚めたこと。何も持っていなかったこと。スライムウルフに追われたこと。エリナに助けられたこと。ギルドに登録して、最初の依頼をこなしたこと。罠を使ってスライムウルフを倒したこと。ギルラットを石と足で仕留めたこと。坑道でダークバットと戦ったこと。
話しながら、自分でも整理になった。この世界に来てまだ四日しか経っていない。それだけの時間で、これだけのことがあった。
カルロは黙って聞いていた。一度も口を挟まなかった。
話し終えると、老魔法師はしばらく沈黙した。
「一つ聞く」
カルロが言った。
「戦うとき、何を考えている」
「どうすれば勝てるか、です」
「それだけか」
「負けたらどうなるかも考えます。逃げる必要があるかどうかの判断のために」
「恐怖は?」
「あります」
俺は答えた。
「毎回、怖い」
「それでも動ける理由は」
俺は少し考えた。
「怖いまま動くしかないからだと思います。怖くなくなるまで待っていたら、何もできない」
カルロが小さく息を吐いた。それが肯定なのか否定なのか、判断できなかった。
老魔法師は炉の前に立ち、灰の積もった炉の中を見た。
「魔法とは何か、知っているか」
「詳しくは知りません。魔力を使って何かを起こす、程度の理解しかない」
「正確ではないが、間違ってもいない」
カルロは杖を持ち直した。
「魔法は術者の魔力と、世界に満ちているマナを結びつけることで発動する。術者が内側に持つ力と、外側に存在する力を繋ぐ作業だ」
「繋ぐ、というのは?」
「イメージだ」
カルロは杖の先を炉に向けた。
「自分の中の魔力を感じて、それを外に向かって伸ばすイメージを持つ。最初はそれだけでいい」
杖の先から、昨日と同じ淡い光が生まれた。炉の中の灰が、光に照らされてぼんやりと浮かび上がる。
「見ていなさい」
カルロが目を閉じた。光が変化した。点だったものが、糸のように細く伸びる。糸が二本になり、三本になり、やがて網のように広がった。炉の中の空間を、光の網が満たしていく。
そして、灰が動いた。
積もっていた灰が、光の網に沿って持ち上がり、形を作り始めた。鳥の形だ。翼を広げた、小さな鳥。灰でできているから色はないが、輪郭はくっきりしていた。
三秒ほどで、光が消えた。灰の鳥も崩れて、炉の底に落ちた。
エリナが息を飲んだ。
「すごい」
「魔法の初歩だ」
カルロはこともなげに言った。
「だが、今君たちに教えたいのはこれではない」
老魔法師は俺を見た。
「ゼロ、君の魔力値はいくつだったか」
「1です」
「人族の平均が10。君は最低値に近い」
カルロは続けた。
「通常、魔力値が1の人間に魔法は扱えない。燃料がなさすぎる。火をおこそうとしているのに、薪が一本しかない状態だ」
「つまり、俺には魔法が使えない」
「通常であれば、そうだ」
俺はカルロを見た。
通常であれば、という言い方をした。
「俺は通常ではないと?」
「備考欄に何が書かれているか、まだ教えない」
カルロは静かに言った。
「だが、一つだけ言える。君の魔力値が1なのは、器が小さいからではない」
「どういう意味ですか」
「器の蓋が閉まっているからだ」
沈黙。
エリナが俺を見た。俺はカルロから目を離さなかった。
「蓋を開ける方法がある、ということですか」
「ある」
カルロは頷いた。
「だが、私が開けることはできない。君自身が開けるしかない」
「どうやって」
「それを今日、教える」
カルロは炉の前に戻り、俺に向かって手を伸ばした。
「立ちなさい。炉の前に来い」
俺は立ち上がり、カルロの前に立った。炉の冷たい空気が顔に当たる。
「目を閉じろ」
閉じた。
「自分の体の中心に意識を向けろ。胸の奥でも、腹の底でもいい。どこかに、何か小さなものがあるはずだ。火の種のような、光の欠片のような。それを探せ」
俺は意識を内側に向けた。
最初は何もわからなかった。体の感覚だけがある。心臓の音。肺が膨らむ感覚。腕の傷がまだ少し痛む。
もっと深く。
意識を沈めていくと、何かに触れた気がした。
小さかった。本当に小さい。針の先ほどの、かすかな温もり。あるかないかわからないくらいの、微弱な何か。
「……ある」
「それが君の魔力だ」
カルロの声が続いた。
「今はそれに触れるだけでいい。掴もうとするな。動かそうとするな。ただ、そこにあると確認するだけでいい」
俺はその温もりに意識を向け続けた。
消えそうで、消えない。針の先ほどの光が、かすかに脈打っていた。
「感じているか」
「感じています」
「それで十分だ」
カルロが言った。
「目を開けろ」
目を開けると、カルロが俺を見ていた。その目に、昨日までとは少し違うものがあった。
「今日はここまでだ」
「これだけですか」
「これだけだ」
カルロはきっぱりと言った。
「焦るな。蓋を開けるには、まず蓋の存在を知らなければならない。今日、君はそれをした」
エリナが口を開いた。
「私も同じことをすればいいの?」
カルロはエリナを見た。
「君は別だ」
「別?」
「君の魔力値はいくつだ」
「……6です」
「平均より低いが、扱えない数値ではない」
カルロは少し考えてから言った。
「君には別の形で教えることがある。だが、それは今日ではない」
エリナは何か言いたそうだったが、黙った。
カルロが出口に向かった。
「明日も来なさい。同じ時間に」
「何をするんですか」
俺は聞いた。
「今日感じたものを、もう一度感じる練習だ。毎日繰り返す。それだけだ」
「毎日、それだけを?」
「基礎とはそういうものだ」
カルロは扉を開けながら言った。
「派手な魔法を教える前に、土台を作る。土台のない建物は、少し揺れれば崩れる」
老魔法師は出て行った。
俺とエリナは鍛冶屋の跡に残された。
エリナが大きく息を吐いた。
「なんか、すごい朝だったね」
「そうだな」
「魔力の蓋、感じられた?」
「感じた」
俺は手のひらを見た。
「針の先ほどの、小さいものだった」
「開けられそう?」
「わからない」
俺は手を下ろした。
「でも、あることはわかった」
炉の中に、カルロが動かした灰の跡が残っていた。鳥の形は崩れているが、わずかに輪郭の名残がある。
俺はそれを見てから、外に出た。
朝の光が二重の影を作っている。
針の先ほどの温もりが、まだ胸の奥にある気がした。消えていない。確かにそこにある。
それだけで、今日は十分だった。
次回・第10話「十日目の変化」
毎朝カルロのもとに通い始めて一週間。ゼロのステータスに、初めて小さな変化が現れる。数値ではない。もっと別の何かが。




