第41話 「遺跡の内側」
入り口を一歩踏み込んだ瞬間、空気が変わった。
外の山の冷たさとは違う。もっと古い、閉じ込められた空気だ。石の匂いと、何か別の匂いが混ざっている。かすかに甘い、花に似た匂い。だが、花ではない。
カルロが杖の先に光を灯した。廃坑道の時と同じ、淡い青白い光だ。今回はより明るく、通路全体を照らした。
通路は狭かった。二人並んでぎりぎりの幅が、奥まで続いている。天井が低く、アルクは少し頭を下げて歩いた。壁は石造りで、表面が滑らかに加工されている。百年以上前のものだとは思えない精度だ。
俺は胸の温もりを確認した。
脈打っている。入り口に近づいてから感じ始めた引き寄せられる感覚が、中に入るとさらに強くなった。
だが、今は集中すべきことがある。
索敵をした。
通路の奥に、気配がある。人間だ。一つ、二つ。動いていない。静止している。
「奥に二体、人の気配があります」
俺は小声で言った。
「動いていない」
「距離は」
アルクが聞いた。
「五十メートルほど。通路の先に広い空間があると思います」
セルマが短剣に手をかけた。エリナが石を一つ握った。
「慌てるな」
カルロが静かに言った。
「中で魔力を大きく使うと、封印に影響する。近づいてから判断する」
五人で通路を進んだ。足音を立てないように、一歩ずつ慎重に進んだ。
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三十メートルほど進むと、通路が広がった。
広間だ。
天井が高い。カルロの光だけでは全体が見渡せないほど広い。壁が、全面にわたって何かで覆われていた。
文字だ。
壁一面に、細かい文字と記号が刻まれている。床から天井まで、隙間なく。一部は時間で摩耗しているが、大部分はまだはっきりと残っていた。
これが、始祖の時代の術式だ。
俺はそれを見た瞬間、胸の温もりが大きく脈打った。
今まで感じたことのない強さで。心臓の鼓動と、温もりの脈動が、一瞬だけ重なった。
「感じているか」
カルロが小声で言った。
「はい」
俺は答えた。
「強く、引き寄せられる感覚があります」
「無理に近づくな。今は周囲の確認を優先しろ」
俺は温もりを意識しながら、広間を観察した。
壁の術式は、中央に向かって収束するような構造になっている。全部が一つに繋がっている。単独の術式ではなく、全体で一つの大きな術式を形成しているらしい。
そして、広間の中央に、二人の人物がいた。
片方は地面に座って、壁の術式を書き写している。紙に何かを書き込んでいる。もう片方は立って、周囲を警戒していた。
二人とも黒い服を着ている。
立っている方が、こちらに気づいた。
「来たか」
その声で、俺は止まった。
聞いたことのある声だ。
男が振り返った。
レイだった。
レイは表情を変えなかった。計算し続けているような、冷たい目のままだった。
座って書き写していた人物が立ち上がった。こちらは若い。二十代前半くらいの、短髪の男だ。レイと同じ黒い服を着ている。
「レイ」ア
ルクが低く言った。
「どういうことだ」
「見ての通りです」
レイは答えた。
「術式を写し取っています」
「セインの指示か」
「違います」
レイは続けた。
「私自身の判断です」
カルロが前に出た。老魔法師の目が、レイを見ていた。
「セインは知っているか」
「知りません」
レイは静かに言った。
「師匠の意図と、私の判断は、ここでは異なります」
「どういう意味だ」
カルロが言った。
「師匠はゼロさんとの対面を経て、研究の方向を変えようとしています」
レイは続けた。
「ですが私は、それが正しいとは思っていない」
俺はレイを見た。
嘘をつかない人間だと、カルロが言っていた。今も、嘘をついているようには見えない。
「セインの意向に反して、術式を写し取っている。それが、あなた自身の判断だということですか」
「そうです」
「なぜ」
レイは少し間を置いた。
「師匠の研究は、まだ完成していない。師匠がやめても、研究は誰かが続けなければならない」
レイは続けた。
「人間の限界を超える研究は、無意味ではない。途中で止めるべきではない」
「それが、あなたの信念ですか」
「そうです」
俺はレイを観察した。
声に、感情がない。だが、言葉の意味は本物だ。レイはセインを師匠として慕いながら、セインの転換を受け入れられない。それが、この行動に繋がっている。
「術式を写し取るのを、やめてもらえますか」
俺は言った。
「できません」
レイは答えた。
「これは、私が必要だと判断したことです」
「封印が不安定になっている。このまま続けると、街の人間が危険にさらされます」
「わかっています」
レイは続けた。
「ただ、作業はあと少しで終わります。終わり次第、封印の安定化に協力します」
俺はカルロを見た。
カルロが静かに言った。
「封印の安定化に、お前が協力できるのか」
「できます」
レイは答えた。
「私も魔法師です。封印の構造は把握しています」
「術式を渡すつもりはないか」
カルロが続けた。
「渡しません。写し取ったものは、私が持ちます」
アルクが俺の隣に来た。小声で言った。
「どうする。止めるか」
俺は考えた。
レイを今止めることはできる。アルクとセルマがいれば、戦闘になっても対処できるかもしれない。だが、戦闘になれば、封印がさらに不安定になる。
レイが嘘をつかない人間なら、「あと少しで終わる」「封印の安定化に協力する」という言葉も本当だろう。
ただ、術式がレイの手に渡ることを、そのまま認めていいのか。
「一つだけ確認させてください」
俺はレイに言った。
「何ですか」
「写し取った術式を、無冠の誰かに渡すつもりはありますか」
レイは少し間を置いた。
「ありません」
レイは答えた。
「これは、私個人が保管します。無冠の組織には渡しません」
「セインにも?」
「渡しません。師匠が研究をやめると決めたなら、それはそれで構わない。私は私の道を進みます」
俺は胸の温もりを感じながら、レイを見た。
嘘ではない。
だが、信用していいのかどうかは、また別の話だ。
「カルロさん」
俺は言った。
「判断をお願いできますか」
カルロはしばらく黙った。
壁の術式を見た。広間全体を見回した。それから、レイを見た。
「作業を終えろ」
カルロは言った。
「その後、封印の安定化を手伝え。それが終わったら、お前と話がある」
レイは少し目を細めた。
「わかりました」
レイが若い男に合図した。男が再び座って、書き写しを続けた。
俺たちは広間の端に下がった。
エリナが俺の隣に来た。
「よかったの? 術式を渡しちゃって」
エリナが小声で言った。
「渡してはいない。写し取られた、という方が正確だ」
「それでも、向こうが持っていくじゃない」
「今止めようとすれば、戦闘になる」
俺は続けた。
「戦闘になれば封印が崩れる可能性がある。シェルナの街が危険になる。それより、レイの言葉を信じて封印を安定させることを優先した」
「信じていいの? レイのこと」
「カルロさんが嘘をつかない人間だと言っていた。今日の話し方も、その通りだと思った」
エリナはしばらく考えた。
「ゼロがそう判断するなら、私も信じる」
俺はエリナを見た。
「ありがとう」
「お礼は戻ってからにして」
エリナは壁の術式に目を向けた。
「あれ、近くで見ていい?」
「カルロさんに確認してから」
カルロに聞くと、老魔法師は頷いた。
「触るな。見るだけなら構わない」
俺とエリナは壁に近づいた。
術式が、間近で見ると圧倒的だった。
一つ一つの文字は小さいが、組み合わさって巨大な構造を作っている。意味はわからない。だが、胸の温もりが反応していた。
何か、知っているような気がした。
正確には、知っていたような気がした。
俺の中の記憶ではない何かが、これを見て反応している。
「どう感じる?」
エリナが聞いた。
「懐かしい」
俺は静かに言った。
「意味はわからない。ただ、懐かしい」
エリナが俺を見た。
「始祖の器だから?」
「そうかもしれない」
壁の術式が、カルロの光に照らされて、静かに輝いていた。
**次回・第42話「封印の安定」**
> レイが約束通り、封印の安定化に協力した。作業が終わったとき、カルロがレイに言った。「お前に、一つ話がある」そしてレイは、初めて表情を変えた。
遺跡の内側でレイと再会。敵として戦うのではなく、判断を保留して共存する選択をしたゼロ。「懐かしい」という感覚、始祖の器ならではの伏線です。レイというキャラクターがここから動き始めます。
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