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誠の名を持たぬ剣士  作者: Futahiro Tada


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追いつく影

追いつく影


 村の朝は、静かだった。

 水桶に映る空は薄く、

 鶏の鳴き声が、遠くから聞こえる。

 名を持たぬ者は、

 井戸端で手を洗いながら、

 ふと、背後を振り返った。

 気配は、ない。

 だが、

 消えない感覚だけが残る。

 ——見られている。

 それは、長年、

 追う側として生きてきた者だけが知る感覚だった。

「……来ています」

 小屋に戻ると、

 彼女は、あの隊士に言った。

 彼は、

 即座に理解する。

「新撰組か」

「分かりません」

「でも」

 一拍。

「誰かが、

 私たちを探している」

 二人は、

 すぐに村を離れる準備をした。

 長く留まる場所ではないと、

 最初から分かっていた。

 だが、

 それでも。

 名を持たぬ者は、

 畑で世話になった老夫婦に、

 何も言えず、頭を下げた。

 いなくなることは、

 これまで何度もしてきた。

 だが、

 誰かに世話になってから去るのは、

 初めてだった。

 山道に入ると、

 風が冷たくなる。

 名を持たぬ者は、

 歩きながら、ふと口にした。

「……追われるのは、

 慣れているはずなのに」

「今は、

 少しだけ、怖いです」

 あの隊士は、

 彼女を見る。

「理由は」

「……戻りたくないからです」

 その言葉は、

 弱さではない。

 帰る場所を失った者の、

 最初の願いだった。

 山を越えた先で、

 二人は小さな宿に泊まった。

 客は少ない。

 だが、

 旅人の目は、鋭い。

 名を持たぬ者は、

 その視線に、過去を見た。

 ——同じ目だ。

 斬る側の目。

 夜。

 外で、

 かすかな足音がした。

 あの隊士は、

 そっと立ち上がる。

 名を持たぬ者は、

 彼の袖を掴んだ。

「……剣は」

 彼は、

 小さく首を振る。

「まだだ」

 障子の向こうで、

 誰かが立ち止まる。

 沈黙。

 やがて、

 足音は去った。

 名を持たぬ者は、

 大きく息を吐いた。

「……もし」

「今、剣を抜いていたら」

 あの隊士は、

 静かに答える。

「俺たちは、

 また戻っていた」

 彼女は、

 ゆっくり頷く。

 剣を抜くことは、

 最も簡単な解決だ。

 だが、

 それは、

 生き直すことではない。

 翌朝。

 二人は、宿を出た。

 道の分かれ目で、

 名を持たぬ者は、立ち止まる。

「……私」

「これまで、

 名前を持たないまま、

 生きてきました」

「でも」

 彼女は、

 小さく息を吸う。

「もし、

 このまま生きるなら」

「自分の名前を、

 決めたいです」

 あの隊士は、

 驚いた顔をした。

 だが、

 すぐに、微笑む。

「それは」

「生き直すってことだ」

 名を持たぬ者は、

 しばらく考えた。

 剣士としての名。

 組織の符号。

 偽りの呼び名。

 どれも、

 もう要らない。

「……まだ、決められません」

「でも」

「持ちたいと思えました」

 その言葉で、

 彼女の中の何かが、

 確かに変わった。

 遠くで、

 雷鳴が聞こえる。

 過去は、

 追ってくる。

 だが、

 剣を抜かずに、

 歩き続ける道も、

 確かにある。

 二人は、

 その道を、

 選び続けている。

 ここで、

 「逃げる物語」から、

 「生き続ける物語」へと、

 静かに移行した。

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