それでも、ここにいる
最終章 名のない誠
それでも、ここにいる
夜明けの霧は、音を吸い込んでいた。
川沿いの道を、二つの影が歩く。
名を持たぬ者と、あの隊士。
もう、新撰組の羽織はない。
腰の刀も、包みにくるまれている。
彼らは、死んだことになった人間だった。
詰所から出るとき、
誰も追わなかった。
誰も振り返らなかった。
それは、解放ではなく、
切り捨てだった。
だが、
その切り捨てが、
初めての自由でもあった。
朝靄の向こうに、
小さな村が見える。
畑。
水車。
煙。
人が、普通に生きている場所。
名を持たぬ者は、
その景色を、長く見つめた。
「……こんな朝が、
ずっと続いていたんですね」
あの隊士は、
小さく頷く。
「俺たちは、
その外側にいただけだ」
二人は、村外れの小屋に身を寄せた。
人の目につかない。
だが、完全に隠れているわけでもない。
生きていることを、
否定しない場所。
名を持たぬ者は、
初めて、刀を壁に立てかけた。
抜かない。
捨てない。
ただ、そこにあるだけ。
それだけで、
胸が、少し軽くなった。
昼。
二人は、畑仕事を手伝った。
鍬を持ち、
土に触れる。
名を持たぬ者の手は、
剣を握るための手だった。
だが、土を掘る感触は、
不思議と懐かしい。
「……剣を振るより、
疲れますね」
彼女は、少し笑った。
あの隊士は、
久しぶりに、
本当に笑った。
夜。
小屋の外で、
虫の声を聞く。
名を持たぬ者は、
ぽつりと言った。
「……私」
「名前がないと、
思っていました」
「でも」
一拍。
「今は、
誰かに呼ばれないことが、
怖くない」
あの隊士は、
焚き火を見つめながら答える。
「名がなくても、
ここにいる」
「それで、十分だ」
彼女は、
夜空を見上げた。
星は、
新撰組の庭で見た星と同じ。
だが、
意味は、まるで違う。
(……私は)
(まだ、生きている)
それだけで、
剣を持ち続けた意味が、
ようやく、静かにほどけていく。
遠くで、
風が吹く。
戦の匂いは、もうしない。
だが、
世界は、まだ不安定だ。
それでも。
二人は、
ここにいる。
名がなくても。
誠の旗がなくても。
それでも、ここにいる。
ここから、
生き直す物語として始まった。




