剣を葬る夜
剣を葬る夜
雨は、静かに降っていた。
山間の古い祠の軒下で、
二人は雨宿りをしていた。
夜。
焚き火の小さな灯りだけが、
周囲を照らしている。
名を持たぬ者は、
濡れた髪を結い直しながら、
自分の剣を見つめていた。
包みにくるまれた刀。
重みだけが、まだ残っている。
「……これが、私の人生でした」
ぽつりと、そう言った。
あの隊士は、
何も言わず、火を見ている。
彼女は、
ゆっくりと包みを解いた。
刃が、焚き火の光を映す。
幾度となく、
人を斬った刃。
幾度となく、
自分を守った刃。
「この剣で、
私は女を捨てました」
「名も、
過去も、
すべて」
雨音が、強くなる。
「でも」
一拍。
「この剣のせいで、
私は生き残った」
矛盾した想いが、
胸に満ちる。
あの隊士は、
ようやく口を開いた。
「お前は、
剣に生かされた」
「だが、
剣で生きてきたわけじゃない」
彼女は、
その言葉に、目を閉じる。
「……私は」
「剣を捨てたら、
何者になりますか」
彼は、
静かに答える。
「生きている者だ」
その一言で、
涙が、静かに落ちた。
名を持たぬ者は、
立ち上がり、
祠の裏へ回った。
雨に濡れた土を、
素手で掘る。
浅い穴。
そこに、
剣を置く。
「……ありがとう」
誰にともなく、そう言った。
土を被せ、
踏み固める。
それは、
剣士としての自分への、
葬送だった。
戻ると、
あの隊士が立っていた。
「……終わったか」
彼女は、頷く。
「これで、
私は斬る者ではありません」
彼は、
ゆっくりと彼女の前に立つ。
「俺もだ」
そう言って、
自分の刀を外した。
彼も、
同じように、
土の中へ置いた。
二人は、
黙って雨に打たれる。
剣のない夜。
それでも、
心は、軽かった。
夜明け。
雨が上がり、
霧が流れる。
名を持たぬ者は、
祠の前で、
小さく手を合わせた。
「……私は」
「生き直します」
あの隊士は、
隣に立つ。
「一緒にだ」
二人は、
新しい道へ歩き出した。
剣を葬り、
名を探す旅へ。
ここで、
剣士の物語を、
静かに終わらせた。
土を被せたあとも、名を持たぬ者は、しばらくその場を動けなかった。
掌に残る、冷たい感触。
鉄の重み。
雨に濡れた土の匂い。
それらが混ざり合い、胸の奥に沈んでいく。
この剣で斬った顔が、ひとつひとつ浮かんでは消える。
憎しみを向けてきた者。
恐怖で歪んだ者。
名も知らぬまま倒れた影。
それらすべてが、
自分の中に残り続けていた。
(……私は、奪ってきた)
(生きるために、
他の生を、切り落としてきた)
それを否定しない。
だが、もう続けない。
この選択は、
贖罪でも、逃避でもない。
終わらせるという意思だ。
背後で、あの隊士が息を吐く音が聞こえる。
彼もまた、同じ重さを抱えているのだと分かる。
剣を置いたあと、
自分の身体が、ひどく軽く感じた。
だが同時に、
胸の奥が、ひどく不安定でもあった。
(……これから、
私は何に守られるのだろう)
剣は、盾でもあった。
恐怖を遠ざけるための壁だった。
それを失った今、
自分は、世界に裸で立っている。
だが、不思議と、
その裸が、怖くなかった。
あの隊士が、
何も言わず、傍に立っているからだ。
言葉はない。
だが、距離がある。
触れない。
縛らない。
それでも、離れない。
その関係こそが、
今の自分を支えている。
雨上がりの空を見上げると、
雲の切れ間から、わずかな星が覗いていた。
新撰組の庭で見た星と、同じ光。
だが、
意味は、もう違う。
(……私は、
過去から逃げたわけじゃない)
(連れてきたまま、
歩いていくのだ)
剣を土に還したことで、
過去が消えたわけではない。
だが、
過去に支配されない未来を、
初めて想像できた。
名を持たぬ者は、
そっと祠に額をつけた。
祈りではない。
誓いでもない。
ただ、
ここで終えたという印だった。




