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誠の名を持たぬ剣士  作者: Futahiro Tada


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生かされている理由

第4章 誠の外側


生かされている理由


 詰所の空気が、完全に変わった。

 昨日までと同じ畳。

 同じ廊下。

 同じ庭の松。

 だが、

 名を持たぬ者の目には、

 すべてが「配置」に見えていた。

 視線の位置。

 人の立ち方。

 沈黙の方向。

 ——囲まれている。

 誰も剣を抜かない。

 誰も命令を出さない。

 だが、

 彼女の動線には、必ず誰かが立っている。

 偶然を装った監視。

 善意を装った同伴。

 命令ではなく、空気による拘束。

 副長の言葉が、

 はっきりと現実になっていた。

 ——「実験対象」。

 それは、

 斬られない代わりに、

 逃げられない立場だった。

 あの隊士も、同じだった。

 彼の任務は、すべて「補助」に変えられていた。

 主導権を持たない位置。

 単独行動は許されない。

 二人は、意図的に引き離され、

 同時に、常に見える距離に置かれていた。

 離されているのに、

 逃がされていない。

 それが、最も苦しい配置だった。

 夜。

 名を持たぬ者は、裏庭の隅で剣を振っていた。

 音を立てない素振り。

 呼吸だけが、静かに響く。

 だが、

 剣の切っ先が、どうしても鈍る。

 ——集中できない。

 視線を感じるからではない。

 疲れているからでもない。

 理由は、もっと単純だった。

(……私は、

 この剣で、

 誰を斬るつもりなのだろう)

 これまでは、

 答えが明確だった。

 命令の対象。

 組の敵。

 排除すべき存在。

 だが今は。

 剣を振るえば、

 組に近づく。

 剣を捨てれば、

 組に殺される。

 ——どちらも、死だ。

 剣の意味が、完全に崩れていた。

 影の向こうで、

 足音が止まった。

 あの隊士だった。

 彼も、同じ時間に、同じ場所へ誘導されている。

 だが、二人の間には、

 意図的に距離があった。

 五歩。

 それ以上、近づくと不自然になる。

 言葉を交わすことも、

 許されていない。

 それでも、

 視線だけは交わした。

 短く。

 深く。

 その一瞬で、

 二人は同じことを理解した。

(……副長は、

 本気で殺す準備をしている)

 翌日。

 二人は、別々に呼び出された。

 だが、向かった先は、同じ部屋だった。

 詰所の最奥。

 前回と同じ場所。

 違うのは、

 副長の背後に、

 さらに二人の幹部が立っていたこと。

 ——本格的だ。

 これは、尋問ではない。

 処理会議だ。

 副長は、開口一番こう言った。

「お前たちを、

 斬らない理由を、説明してやる」

 名を持たぬ者は、

 視線を上げた。

 副長は、淡々と続ける。

「お前たちは、

 裏切ったわけではない」

「命令を破ったが、

 敵に寝返ったわけでもない」

「つまり」

 一拍。

「不完全な異物だ」

 あの隊士の指が、

 わずかに動く。

 副長は、それを見逃さない。

「完全な裏切り者なら、

 すでに斬っている」

「だが、お前たちは違う」

「組に属しながら、

 組の論理で動かない」

 それは、

 組織にとって、最も厄介な存在だった。

 内部にいながら、

 命令で動かない者。

 恐怖でも、忠誠でもない。

 関係で動く者。

「だから」

 副長の声が、低くなる。

「お前たちは、

 斬る価値すら、まだ確定していない」

 それは、猶予ではない。

 判断保留という名の、

 緩慢な死だった。

「これから、お前たちには」

「より深い任務を与える」

「斬れない場面。

 選べない状況。

 互いを切り捨てれば生き残れる配置」

「そこで」

 副長は、はっきりと言った。

「どちらが、

 先に折れるかを見る」

 部屋の空気が、

 一段、重くなる。

 副長は、名を持たぬ者を見る。

「お前は、剣士だ」

「ならば、最後まで剣を持て」

 次に、あの隊士を見る。

「お前は、人間だ」

「ならば、最後まで人間でいろ」

 それは、命令ではなかった。

 呪いだった。

 部屋を出たとき、

 二人の足取りは、驚くほど軽かった。

 恐怖は、もう底を打っている。

 これ以上、悪くなりようがないと、

 本能が理解していた。

 庭に出ると、

 風が強かった。

 木の葉が、音を立てて揺れる。

 名を持たぬ者は、

 初めて、自分から口を開いた。

「……副長は」

「私たちを、殺す気ですね」

 あの隊士は、

 少し間を置いて答えた。

「正確には」

「殺す理由を、

 こちらに作らせたい」

 名を持たぬ者は、

 小さく息を吐く。

「つまり」

「私たちが、

 自分で終わりを選ぶまで、

 使い続ける」

 それは、

 逃げるよりも、

 斬られるよりも、

 ずっと残酷な未来だった。

 沈黙の中で、

 名を持たぬ者は、

 初めてはっきりと思った。

(……私は)

(この組織に、

 もう居場所はない)

 それは、

 絶望ではなかった。

 むしろ、

 奇妙なほど静かな確信だった。

 剣を取った理由。

 隠れ続けた理由。

 ここまで生き延びた理由。

 すべてが、

 この瞬間のためだったのかもしれない。

「……もし」

 名を持たぬ者は、

 ゆっくりと言った。

「この組織から、

 本当に抜けるとしたら」

 あの隊士は、

 即座に答えなかった。

 それだけで、

 彼も同じことを考えていると分かる。

「……抜ける、というより」

 彼は、静かに言う。

「追い出されるだろうな」

 名を持たぬ者は、

 夜空を見る。

 雲が流れ、

 月が、わずかに顔を出す。

「それでも」

「私は」

 一拍。

「剣を捨てるより、

 組を捨てる方が、

 まだ楽です」

 あの隊士は、

 その言葉に、はっきり頷いた。

「……俺もだ」

 それは、

 二人が初めて、

 未来の選択を共有した瞬間だった。

 守るための嘘でもない。

 共犯の覚悟でもない。

 この場所を離れる可能性を、

 現実の選択肢として認識した瞬間。

 だが、同時に、

 二人は理解している。

 副長は、

 それすらも、

 想定の内側だ。

 逃げようとすれば、

 必ず試される。

 裏切れば、

 必ず見せしめにされる。

 つまり。

 ここから先は、

 「逃げる物語」ではない。

 組織から、

 どんな形で切り離されるかの物語だ。

 名を持たぬ者は、

 剣を、そっと鞘に収めた。

 この剣は、

 もう「所属の証」ではない。

 これからは、

 境界線を斬るための刃になる。

 副長の視線の向こうで、

 新しい任務が、

 確実に準備されている。

 それは、

 これまでで最も深い潜入。

 最も逃げ場のない配置。

 そして、

 最も選ばされる任務になる。

 二人は、

 まだそれを知らない。

 だが、確信している。

 次の命令は、

 剣ではなく、

 生き方そのものを斬らせに来ると。


 ここから本当の意味で、

 「誠の外側」へ踏み出した。

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