↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誠の名を持たぬ剣士  作者: Futahiro Tada


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/25

戻れない場所

戻れない場所


 死体の処理は、早かった。

 商家の二階。

 三人の浪士の亡骸は、夜明け前に運び出され、

 密告者の男は、別の場所へ移送された。

 公式記録には、こう残る。

 ——「市中警護中、尊攘派と交戦。三名斬殺」

 名を持たぬ者の名は、そこにはない。

 あの隊士の名も、ない。

 だが、それは 記録上の話 だった。

 現実は、まったく違う。

 詰所に戻った瞬間から、

 二人の周囲の空気は、明確に変わっていた。

 誰も話しかけない。

 誰も視線を合わせない。

 だが、

 全員が見ている。

 ——副長の命令を破った二人。

 名を持たぬ者は、廊下を歩きながら理解していた。

(……もう、隠蔽では済まない)

 副長は、知っている。

 あの商家に、

 偶然二人が揃うことはあり得ない。

 あの隊士が、

 市中警護を放棄して現れたことも。

 すべて、意図的だと。

 呼び出しは、夕刻だった。

 詰所の最奥。

 昼間の会合より、さらに奥。

 灯りは一つ。

 人の気配は、副長だけ。

 二人同時に、呼ばれた。

 それ自体が、

 「裁きの場」であることを意味していた。

 部屋に入ると、

 副長は机の前に立っていた。

 座っていない。

 つまり、これは 会議 ではない。

「……来たか」

 低い声。

 怒気は、ない。

 だが、感情もない。

 名を持たぬ者と、あの隊士は、

 並んで正座した。

 距離は、

 いつもより近い。

 それだけで、

 副長には十分だった。

「命令を破ったな」

 即断だった。

 言い訳を許さない。

 あの隊士が、口を開く。

「はい」

 名を持たぬ者が、止める前に。

「私の判断です」

 副長は、彼だけを見た。

「……理由は」

「彼女の任務は、

 斬れない状況だった」

 名を持たぬ者の胸が、揺れる。

 だが、彼は続けた。

「斬れば、密告者は死ぬ。

 斬らなければ、彼女が壊れる」

 副長は、目を細めた。

「だから?」

「私は、

 命令よりも、彼女を選びました」

 場が、完全に静まる。

 その一言で、

 すべてが確定した。

 副長は、しばらく黙っていた。

 長い。

 息が詰まるほど、長い沈黙。

 やがて、副長は言った。

「……なるほど」

 それだけ。

「つまり」

 間を置く。

「お前は、

 組より女を優先したというわけだ」

 あの隊士は、否定しなかった。

「はい」

 名を持たぬ者は、

 思わず顔を上げた。

 彼の横顔は、

 驚くほど静かだった。

 副長は、視線を名を持たぬ者に移す。

「お前は、どうだ」

 問いは、鋭い。

「こいつに助けられたこと、

 どう思う」

 逃げ道は、ない。

 ここで彼を切り捨てれば、

 自分は生き残れる。

 副長は、それを知っている。

 名を持たぬ者は、

 ゆっくりと息を吸った。

「……私は」

 一拍。

「剣では守れない場面で、

 初めて守られました」

 副長の眉が、わずかに動く。

「だから」

 名を持たぬ者は、

 真っ直ぐに言った。

「この人を切り捨てるなら、

 私も切り捨ててください」

 沈黙。

 完全な沈黙。

 副長は、

 二人を交互に見た。

 そして、

 はっきりと理解した。

 ——もう、戻らない。

 この二人は、

 どちらか一方を残す構造ではない。

 二人で一つの異物になっている。

 副長は、ゆっくりと立ち上がった。

「……なるほど」

 それは、三度目の言葉だった。

「つまり、お前たちは」

 声が、低くなる。

「組にとって、

 最も危険な存在になった」

 剣が強いからではない。

 裏切ったからでもない。

 感情で動くからだ。

「斬れ」

 その一言が、

 二人の背後にあるかのように、

 名を持たぬ者は感じた。

 だが、

 実際に斬る気配は、なかった。

 副長は、静かに続ける。

「今すぐ処分するのは、簡単だ」

「だが」

 一歩、近づく。

「お前たちは、

 まだ使える」

 それは、最も残酷な宣告だった。

「お前たちは、もう監視対象ではない」

「……何だと」

 あの隊士が、低く問う。

「実験対象だ」

 副長は、はっきり言った。

「どこまで忠義を捨てるか。

 どこで完全に裏切るか」

 副長の視線は、

 二人を貫いていた。

「それを、最後まで見せろ」

 それは、処刑ではない。

 赦免でもない。

 延命という名の公開処刑だった。

 名を持たぬ者は、

 ゆっくりと立ち上がった。

 副長に、視線を合わせる。

「……承知しました」

 副長の口角が、わずかに上がる。

「そう来ると思っていた」

 部屋を出るとき、

 二人の足取りは、重かった。

 だが、

 恐怖よりも、

 奇妙な静けさがあった。

 庭に出ると、夜風が冷たい。

 名を持たぬ者は、

 初めて、深く息を吐いた。

「……これで」

 彼女は、低く言う。

「私たちは、

 正式に敵ですね」

 あの隊士は、苦く笑った。

「敵かどうかは分からない」

「ただ」

 一拍。

「もう、戻る場所がない」

 名を持たぬ者は、

 夜空を見上げた。

 星は、相変わらず瞬いている。

「……でも」

 彼女は、静かに言った。

「私は、後悔していません」

 あの隊士は、彼女を見る。

「あなたが、命令を破った瞬間」

 名を持たぬ者の声は、

 驚くほど穏やかだった。

「私は、

 初めて剣で生きていないと感じました」

 剣ではなく、

 人として守られた。

 それは、

 剣士としては、敗北だ。

 だが。

 人としては、

 初めての勝利だった。

「……だから」

 名を持たぬ者は、

 ゆっくりと彼を見る。

「ここから先は、

 私が剣を振るう理由が、変わります」

「誰のためだ」

 彼が問う。

 彼女は、迷わず答えた。

「……私たちのためです」

 忠義でもない。

 正義でもない。

 復讐でもない。

 二人が、

 自分で選んだ場所に立つための剣。

 あの隊士は、

 小さく頷いた。

「……なら」

「俺も、最後まで斬る」

 夜の詰所で、

 二人は並んで立つ。

 もはや、

 組の中の剣ではない。

 だが、

 まだ剣を捨てない存在。

 副長の視線の向こうで、

 新しい戦いが、

 確実に準備されている。

 それは、

 歴史に残らない戦いだ。

 だが二人にとっては、

 最初から最後まで、

 自分たちで選び続ける戦いになる。

 

 もう、この物語は、

 「新撰組の中の一人の剣士」ではない。

 新撰組という組織そのものと、

 二人が対峙する物語へ変わったのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。