斬れない夜
斬れない夜
命令は、二通に分かれて下った。
一通は、名を持たぬ者へ。
一通は、あの隊士へ。
それぞれ別の使いが持ってきた。
同じ場所にいながら、
同時に受け取ることは許されなかった。
それだけで、意図は明白だった。
副長は、
最初から二人を分断するつもりで、
この命令を書いた。
名を持たぬ者に与えられた任務は、
京外れの商家の内偵だった。
尊攘派ではない。
武器の取引でもない。
——密告者の保護。
副長の書付には、短くこうある。
「この者が消えれば、
今後の内通は途絶える。
必ず生かせ」
斬るな、殺すな。
逃がすな、黙らせろ。
つまり、
剣を使うなという命令だった。
一方、あの隊士の任務は。
市中警護。
浪士の不穏分子の監視。
斬り込みの可能性あり。
完全な別行動。
しかも、
時間帯は同じ。
夜半。
——偶然ではない。
詰所を出る前、
二人は廊下ですれ違った。
ほんの一瞬。
言葉を交わす余裕はなかった。
副長の視線が、すでに廊下の奥にある。
だが、視線は交わった。
それだけで、
二人は理解した。
(……分けられた)
(……意図的に)
名を持たぬ者は、
そのまま背を向けた。
振り返れば、
それだけで「証拠」になる。
商家は、古い木造の二階建てだった。
周囲に人通りは少なく、
灯りも落とされている。
裏口から入ると、
中は静かすぎるほど静かだった。
名を持たぬ者は、
足音を殺しながら進む。
部屋の奥に、
一人の男がいた。
年は三十ほど。
怯えた目。
手には、書付の束。
——密告者だ。
男は、名を持たぬ者を見ると、
即座に膝をついた。
「……助けてくれ」
その声は、
剣を向けられたときより、
ずっと弱かった。
「俺は、何も知らない。
ただ、金を……」
名を持たぬ者は、刀を抜かなかった。
命令通りだ。
「黙っていれば、助かる」
それだけ言った。
男は、必死に頷く。
「分かった、分かった……
もう誰にも言わない……」
だが、そのとき。
階下で、音がした。
複数の足音。
荒い呼吸。
刃が、鞘に当たる音。
——来た。
尊攘派の残党か、
あるいは、別の浪士。
どちらにせよ、
この男を狙っている。
名を持たぬ者は、
反射的に男の前に立った。
だが、すぐに気づく。
斬れない。
斬れば、男は死ぬ。
斬れば、情報は消える。
斬れば、任務は失敗だ。
剣は、ここでは無力だった。
階段を上がる足音が近づく。
男は、震えながら彼女を見上げる。
「……助けてくれ」
その言葉は、
剣士に向けられたものではない。
人に向けられた言葉だ。
名を持たぬ者の胸が、
強く締め付けられる。
(……この場に、あの人がいれば)
剣で斬り、
命令を破り、
それでも守れたかもしれない。
だが今は、
一人だ。
剣では守れない。
言葉でも、間に合わない。
階段の影から、
三人の男が現れた。
顔を隠し、
刃を抜いている。
「そこをどけ」
低い声。
名を持たぬ者は、
刀に手をかけた。
だが、抜かない。
抜けば、終わる。
「……この男は、私が預かる」
「関係ない」
男の一人が、笑った。
「生きている方が、面倒だ」
名を持たぬ者は、
初めて理解した。
この場は、
勝てない戦場だ。
斬れば、任務に負ける。
斬らなければ、人が死ぬ。
——どちらも、失敗だ。
その瞬間。
市中の別の場所で。
あの隊士は、
違和感を覚えていた。
自分の任務区域は、静かすぎる。
不穏分子は現れない。
斬り込みの気配もない。
——誘導だ。
副長は、
最初からこちらを外した。
彼の胸に、
冷たい予感が走る。
(……彼女の方が、本命だ)
命令書を、握り潰す。
副長の声が、脳裏に響く。
「持ち場を離れるな」
だが。
その命令は、
すでに意味を失っていた。
彼は、走った。
市中警護を放棄し、
命令を破り、
ただ一つの場所へ向かう。
商家の裏口。
階段の上では、
名を持たぬ者が、
刃を抜かずに立っていた。
三人の男。
一人の密告者。
逃げ場はない。
そのとき。
背後から、
鋭い足音。
次の瞬間、
一人が倒れた。
喉から血が噴き、
声を上げる暇もなく崩れる。
あの隊士だった。
彼は、迷いなく、
残り二人へ斬りかかった。
剣は、一直線だった。
躊躇も、確認もない。
ただ、
「守るための斬撃」。
数息の後、
床には三人の死体が転がっていた。
名を持たぬ者は、
呆然と彼を見ていた。
「……来たんですね」
それだけ言えた。
彼は、息を整えながら答える。
「命令を破った」
それは、
言い訳でも、謝罪でもない。
宣言だった。
「副長の命令を、
明確に破った」
名を持たぬ者の胸が、
大きく揺れた。
「……それで」
彼女は、声を落とす。
「あなたは、
もう戻れません」
彼は、静かに頷いた。
「最初から、戻る気はなかった」
その言葉で、
すべてが終わった。
この瞬間、
二人の関係は、
組織に対して敵になった。
剣では守れない場面で、
彼は、剣で守った。
それは、
最も分かりやすい裏切りだった。
名を持たぬ者は、
ゆっくりと目を閉じる。
副長の視線が、
すでにこちらへ向いていることを、
確信していた。
——次は、処分だ。
逃げ場はない。
言い訳もない。
だが。
それでも。
彼女は、
この瞬間を、後悔していなかった。
剣で守れないものを、
剣で守ろうとした彼を、
否定できなかった。
それが、
恋なのか、
共犯意識なのかは、
もう関係なかった。
二人は、
完全に同じ場所に立った。
命令の外側で。
組織の外側で。
——そして、
ここで決定的に、
「戻れない物語」へと変わった。




