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誠の名を持たぬ剣士  作者: Futahiro Tada


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逃げ道という名の檻

逃げ道という名の檻


 新しい命令は、紙切れ一枚だった。

 副長の印。

 内容は、驚くほど簡単だ。

 ――「三日間、配置を解く」

 名を持たぬ者は、その文字を何度も読み返した。

 解く。

 つまり、監視を外す。

 それは、初めて与えられた「自由」だった。

 だが、その自由は、あまりに不自然だった。

「……罠ですね」

 名を持たぬ者は、あの隊士に言った。

 二人は詰所の裏庭に立っている。

 珍しく、周囲に人影がない。

 あの隊士は、紙を指で折りながら答える。

「罠だな」

「副長が、

 こんな形で自由を与える理由は一つしかない」

「逃げるかどうか、見たい」

 名を持たぬ者は、静かに息を吐いた。

「つまり」

「逃げれば、裏切り確定」

「逃げなければ、従属確定」

「……どちらも、詰みですね」

 あの隊士は、苦く笑った。

「副長は、

 逃げ道を作って殺すのが、

 一番上手い人間だ」

 その日の夕方、二人は本当に自由になった。

 詰所からの命令は来ない。

 監視の気配もない。

 誰も動線を塞がない。

 京都の町が、

 久しぶりに「普通の街」に見えた。

 人の声。

 店の匂い。

 行き交う着物の裾。

 それらすべてが、

 名を持たぬ者には、

 異様に遠い世界だった。

「……こんな風に」

 彼女は、立ち止まって言う。

「普通に歩ける場所が、

 ずっと、存在していたんですね」

 あの隊士は、黙って頷いた。

 だが、二人とも理解している。

 この自由は、

 「三日間限定」だ。

 副長は、

 あらゆる抜け道を想定している。

 街道の封鎖。

 港の見張り。

 宿場の情報網。

 逃げるなら、

 今しかない。

 だが。

「……もし、今逃げたら」

 名を持たぬ者は、低く言う。

「副長は、

 私たちを追うでしょう」

「追うだけじゃない」

 あの隊士は答える。

「俺たちを例にする」

「裏切り者の末路として」

 つまり。

 二人が逃げれば、

 それは二人だけの問題では終わらない。

 同じように疑われている者。

 同じように苦しんでいる者。

 すべてが、巻き添えになる。

 名を持たぬ者は、

 初めて、はっきりと理解した。

(……副長は)

(私たちを使って、

 恐怖の再定義をしようとしている)

 逃げれば、恐怖の象徴になる。

 残れば、忠誠の実験体になる。

 どちらも、

 「個人の選択」ではない。

 夜。

 二人は、町外れの小さな宿にいた。

 副長の許可で泊まれる、

 唯一の非公式な場所。

 畳に並んで座り、

 灯りを落とす。

 会話は、ほとんどなかった。

 沈黙の中で、

 名を持たぬ者は、ぽつりと呟いた。

「……もし」

「私が、剣を捨てたら」

 あの隊士は、彼女を見る。

「ここから、

 普通の女として生きられますか」

 彼は、すぐに答えられなかった。

 しばらく考えてから、

 正直に言った。

「……分からない」

「多分、

 普通は無理だ」

「でも」

 一拍。

「誰にも追われないなら、

 生きられる」

 名を持たぬ者は、目を閉じた。

「……それは」

「剣を捨てても、

 戦いが終わらないということですね」

 あの隊士は、

 小さく笑った。

「お前が剣を持たなくても、

 世界は勝手に斬りかかってくる」

 名を持たぬ者は、

 しばらく黙っていた。

 やがて、

 静かに言う。

「……私」

「剣以外の生き方を、

 一度も考えたことがありませんでした」

「女として生きることも」

「逃げることも」

「守られることも」

「全部、

 剣士には不要なものだと、

 思っていた」

 あの隊士は、

 彼女の言葉を遮らなかった。

「でも」

 名を持たぬ者は、

 彼をまっすぐ見る。

「今は」

「剣を捨てる未来を、

 初めて、怖くないと感じます」

 その言葉は、

 彼の胸を、強く打った。

 それは、弱さではない。

 逃避でもない。

 生き方を選び直そうとする声だった。

 だが同時に、

 二人とも理解している。

 副長は、

 この会話すら、想定している。

 逃げたいと思わせる。

 未来を想像させる。

 そして、その直前で、

 全てを奪う。

 翌朝。

 副長から、使いが来た。

 内容は、短い。

 ――「戻れ」

 たった二文字。

 だが、その意味は、重い。

 戻る=実験継続。

 逃げない=忠義未確定。

 名を持たぬ者は、

 その紙を見て、

 小さく笑った。

「……やはり」

「逃げ道は、

 最初から檻でしたね」

 あの隊士は、

 静かに剣を腰に戻す。

「戻ろう」

 名を持たぬ者は、

 一瞬だけ、町の方を振り返った。

 市場のざわめき。

 子供の笑い声。

 普通の生活。

 それは、

 手を伸ばせば届く距離にある。

 だが、彼女は、

 その世界へ歩き出さなかった。

 剣を取る。

 それは、

 戦うためではない。

 戻るための覚悟だった。

「……副長は」

 名を持たぬ者は言う。

「私たちが逃げると思っていた」

「でも、逃げなかった」

 あの隊士は頷く。

「だから次は」

「逃げられない状況を、

 本気で作ってくる」

 二人は、

 同時に理解した。

 第4章は、

 もう「心理戦」では終わらない。

 次の命令は、

 確実に誰かの命を、

 直接選ばせるものになる。

 名を持たぬ者は、

 剣の柄に触れながら、

 静かに思った。

(……私は)

(剣を捨てるために、

 剣を持ち続けるのだ)

 それは、

 この章で初めて生まれた、

 矛盾した、だが確かな意志だった。

 逃げるために、立つ。

 生きるために、斬る。

 副長の檻の中で、

 二人は、

 ようやく自分たちの戦い方を

 見つけ始めていた。

 ここで静かに、

 「逃げられない未来」を確定させる。

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