第8話:嘘と焦りと、意地悪な夜
大宮の喧騒とノイズの中で、彼女だけが静かな緩衝地帯だった。
休日の彼女に試した、ほんの小さな意地悪。
「フライングで行く」という嘘に、画面越しから零れ落ちた不器用な焦りと本当の感情。
平熱だった私の世界は、静かに、けれど確実に熱を帯び始めていく。
大宮の夜には、無数の「記号」が溢れている。
赤く彩られた長い爪、計算された高い声、スマートフォンの画面にひっきりなしに届く「会いたい」という中身のないテンプレのネオンたち。
前の店で私を上の空であしらった礼亜も、街ですれ違う有象無象の女たちも、すべては夜の街のシステムに組み込まれた、うるさいノイズに過ぎなかった。
だが、あの日新しく登録された『唯月』という記号だけは、私の世界の中で他とは全く違う静かなバッファ(緩衝地帯)として機能し始めていた。
5月4日、ゴールデンウィークの生温かい夕方。
テキーラの重い残像が頭の芯を小突くなか、ベッドの中でスマートフォンを開くと、午前4時の義務的なルーティンから一転して、少しだけ温度の宿った彼女からのメッセージが届いていた。
『昨日はありがとうっ!二日酔い大丈夫?記憶ある?(笑)』
昨日、お店の扉の前で「ありがとうございました」と私を見送った、あの等身大の24歳の笑顔が不意に脳裏をよぎる。私は、いつものポーカーフェイスを少しだけ崩して、画面に文字を打ち込んだ。
「二日酔いでーす!でも大丈夫」
すると、すかさず返信がくる。
『大丈夫かい!!今日も飲み会だっけ??』
『わたしはおやすみだから友達と出かけてくる!!』
彼女は休日を楽しんでいるようだった。いつもの私なら、「楽しんできて」と一言返して終わるはずの、なんてことのないラリー。だけど、その夜も大宮で別の会合を控えていた私の中に、ほんの小さな悪戯心が浮かんでくるのを感じた。
明日、彼女に会いに行く約束はある。けれど、今日が彼女の休みだと知りながら「あえて本人のいない店にフライングで行く」と嘘をついたら、どんな顔をするだろう。
「これから大宮ー そしてAmbivalence行ってくるー笑」
普通なら営業スマイルで流されるか、「えー浮気だ!」と大袈裟に返されるだけの、薄い糸の上の駆け引き。
しかし、すぐに返ってきた彼女の言葉は、私の予想を少しだけ裏切るものだった。
『本当にAmbivalence行くの??だ』
語尾の崩れた、少しだけ焦ったようなスピード感。
いつもなら客がどこの店に行こうがどうでもいいはずなのに、一瞬、取り繕うのを忘れたかのような、その不器用な文字の並び。スマートフォンの液晶画面越しに、彼女の微かな心のざわめきが、ダイレクトに私の指先に伝わってきたような気がした。
「フライングしてみよ」
「ウソだよ行かないよー」
慌てて冗談だとネタばらしをする私に、画面の向こうの彼女は、今度はっきりと安堵の息を漏らしたようだった。
『飲みは行ってらっしゃい!』
『ありがとうそうして!』
『明日会えるの楽しみにしてるっ!』
ホッとしたようなメッセージの連続。私はちょっと意地悪く、遅れてその返信をする。
「終わったらまっすぐ帰る」
すると、待っていましたとばかりに唯月が送ってきた。
『まっすぐね!!お約束』
その必死さに、私がふざけて続ける。
「はいはい約束すればいんでしょ」
唯月が少し遅れて、悔しそうに文字を叩く。
『テキトーにあしらわないで!(笑)(笑)』
クロミちゃんのスタンプの影に隠れて、軽口を交わしながら、私の胸の奥には、今まで感じたことのない奇妙な心地よさが広がっていた。
ただの夜の営業LINEのつもりだったはずの薄い糸。だけど、その糸の向こうで、彼女は確実に私の言葉に一喜一憂し、システムのノイズではない、本当の感情をポツリポツリとこぼし始めている。
大宮の喧騒に向かう車中、私は液晶の明かりを消し、静かに目を閉じた。
平熱の日常を生きる私の世界に、彼女という「高熱の予感」が、少しずつ、けれど確実に浸食を始めていた。




