第6話 : 場内指名という、逃避行
【第6話 あらすじ】
忙しなく動き回る黒服から声がかかり、待機席へ戻るよう告げられた唯月。時間の止まったような冷たい待機席に戻ることに強い拒絶を覚えた彼女は、目の前に座る蓮の「大人の余裕」をただの避難場所として利用することを決める。
冷めた頭のまま、仕掛けた一言。
「唯月、いてもいい?」
蓮の短い頷きひとつで叶えられた場内指名。ただの都合のいい逃避として吐いたその小さな「嘘」が、彼女の運命を少しずつ、けれど決定的に狂わせ始めていく――。
「唯月さん、唯月さんお願いします」
忙しなく動き回る黒服にそう声をかけられた瞬間、私の心の中に、小さな、けれど明確な拒絶が生まれた。
いつもなら「ご馳走さまでした」って諦めて、笑顔を作ってすぐに席を立つのに。その夜は、どうしても立ち上がりたくなかった。
あの時間の止まったような薄暗い待機席に、また戻りたくない。時間が経つのだって驚くほど遅いし、何より、忙しい店内で置いてけぼりになった気がするから、今の私には耐えられそうになかった。
それに、この席は普段よりはまだ居心地がいいように思えた。
隣に座る蓮さんは、私のペースを崩すことなく、どこまでもスマートに接してくれていた。夜の男の人にありがちな、品定めの目線も、強引な距離の詰め方もしてこない。その静かで優しい大人の余裕が、私のすり減った心を少しずつ、確実に満たしてくれていた。
もう少し、ここにいてもいいかな。
この人と、もう少しだけ話していたいな。
気づけば私は、いつもの自分なら絶対にできないような行動に出ていた。
蓮さんの顔をじっと覗き込んで、胸の奥で小さく弾けた本音を、そのまま口にしていた。
「……唯月、いてもいい?」
少しだけ声を潜めたのは、それが私の精一杯の我が儘だったから。
蓮さんが静かに、けれど迷わずに頷いてくれた瞬間、視界のなかのモノクロだった世界が一気に明るくなったような気がした。隣をパッと見ると、静華さんも「いい?」って恭平さんに微笑みかけている。
嬉しくて、ホッとして、私はすぐに離れかけた黒服を呼び戻した。
そして、両手のひらを下に向けて、パタパタと小さく振ってみせる。
「場内指名、いただきました」
言葉にしなくても、ジェスチャーだけで黒服にはすべて伝わった。この4人のまま、最後まで過ごせる。あの冷たい待機席に戻らなくていいんだ。そう思っただけで、胸の奥の重苦しいつかえが、すうっと消えていくのが分かった。
「よろしくね」
差し出されたスマートフォンに、自分のLINEを登録する。画面に並んだ蓮さんのアカウントを見つめながら、私はまだ気づいていなかった。
ただの「待機席からの逃避」だったはずのこの選択が、私のこれからの人生を、どれほど深く、鮮やかに変えていくことになるのかを。




