第17話:39.7℃の麻酔と松葉杖のシグナル
唯月と決別し傷心のまま『MIRAGE』の礼亜のもとへ通う私。しかし、それは夜の街が提示する束の間の麻酔に過ぎなかった。数日後、39.7℃の凶悪な高熱に倒れた私へ、礼亜から届いたのは自身のバースデーイベントの花に関する一方的な相談と、「キャバ嬢ってバースデー前に病むんだよね」という無神経な冷徹さだった。絶望と孤独の底で再び届いたのは、あの日以来途絶えていた唯月からの通知。送られてきたのは痛々しいギプス姿と松葉杖の写真、そして不器用な明るさ。冷酷なシステムの中で、彼女が差し出した温かな誠意に引き寄せられ、止まっていた時間が再び回り始める。
大宮の夜は、いつだって驚くほど平熱だ。
きらびやかなネオンも、行き交う人々の喧噪も、その本質はどこまでも冷徹なシステムによって維持されている。お金と時間、そして疑似的な恋愛。それらを等価交換するだけの場所――あの日、6月6日に私が背を向けたのは、その冷たい街の縮図そのものだった。
傷心のまま、私は別の店の扉を開けていた。
『MIRAGE』。そこでかつて関わりのあったキャスト、礼亜と再会した。
彼女と過ごす時間は、あの夜に負った私の深い傷を一時的に麻痺させてくれる気がした。けれど、それはやはり、夜の街が提供するただの麻酔に過ぎなかったのだと、私は最悪な形で思い知らされることになる。
数日後。私の身体を、突如として激しい悪寒が襲った。
ベッドに倒れ込み、意識が朦朧とするなかで手にした体温計の液晶には、39.7℃という凶悪な数字が浮かび上がっていた。視界が歪み、呼吸をするだけでも胸が苦しい。世界から切り離されたような圧倒的な孤独感のなか、スマートフォンの画面が淡く光った。
通知の主は、礼亜だった。
熱で震える指先で、縋るようにトーク画面を開く。しかし、そこに並んでいたのは、私の体調を気遣う言葉ではなかった。彼女から届いたのは、7月に控えた自身のバースデーイベントで出す、スタンド花のデザインに関する一方的な相談だけだった。
39.7℃の体温計の画像を送り、息も絶え絶えに体調の悪さを伝えても、彼女の態度が変わることはなかった。画面の向こうの彼女は、私の命の危機を、夜の街のありふれた日常へと強引に当てはめてみせた。
『キャバ嬢って、バースデー前になると病むんだよね』
私の高熱を、イベント前の自身の情緒不安定と同列に扱い、ただそれだけで片付けようとする言葉。
その瞬間、私の頭の芯が、高熱とは違う理由でシンと冷えていくのを感じた。これが、この街の「現実」なのだ。相手がどれだけ苦しんでいようが、生死の境にいようが、システムはただ自分のイベントと数字のことだけを求めて稼働し続ける。
それ以来、彼女とのLINEが二度と動くことはなかった。私は、その氷のような現実の前に、ただ呆然と横たわるしかなかった。
闇のなかに沈み込んでいくような絶望のなか、再びスマートフォンが震えた。
画面に表示されたのは――あの日以来、頑なに途絶えていた唯月の名前だった。
『蓮さん元気に生きてますか??
私は誕生日に骨折したけど、毎日仕事して元気に生きてます! 』
送られてきたのは、痛々しいギプス姿と松葉杖の画像。
そして、不器用なほどに明るく振る舞う、彼女の自撮り動画だった。
あの日、自分のせいで彼女の誕生日を、その後の夜を、どれほどボロボロにしてしまったか。その罪悪感と、彼女が今なお抱えているはずの痛みが、朦朧とする私の意識を激しく覚醒させた。
礼亜の冷徹な言葉とはあまりにも違う、歪で、けれどどこまでも温かい彼女なりの「誠意」が、そこに確かにあった。
私は、何も考えられないまま、もう一度39.7℃の体温計の画像をトーク画面に貼り付け、指を動かした。
『久しぶり。今は高熱出てる』
それが、乾ききった夜の底で、私たちの止まっていた時間が再び命がけで回り出す、最初のシグナルだった。




