3話 テユイ様の神社
結局、ぼくたちはその運転席の女性、小泊真知さんのご好意で荷物ごと大徳屋まで運んで貰えることになった。
「いやあ、すいませんねえ、色々」
助手席の池崎さんが愛想良く言っている。
真知さんは気さくに手を振った。
「気にしないでください。大徳屋さんのことは私も気になるし、なにより美津亜と母をその子、流時くんだっけ? に、助けて頂いたみたいで」
バックミラー越しにこちらを見る目が笑っていた。三列目に座ったお父さんが手を伸ばしてきてぼくの肩を叩く。
「いやあ、人助けはしておくもんだな、流時」
ぼくはちらっと冷たい目で振り返る。
(あの時はなんの役にも立たなかったくせに!)
そしてぼくはぼくと同じ二列目のシートに座っている女の子に視線を向けた。
この子は小泊美津亜という名前で、真知さんの姪に当たるらしい。昨晩、船に一緒にいたのはやっぱりというか小泊さんのおばあさんで、真知さんの母親なのだそうだ。
小泊さんも真知さんもきりっとした顔だちと凜とした雰囲気がとてもよく似ていた。
そしてその小泊さんはというと、先ほどからちらっとぼくを見るとすぐに視線を動かし、車の外を見て、またぼくを見て、外を見るということを何度も、何度も繰り返している。
びっくりするくらい可愛い子だけど。
(なんか変な子だ!)
ぼくは思っていた。
ミニバンは何度か道を曲がりくねって、あっという間に『大徳屋』という案内看板が建っている路地の前まで着いた。
真知さんは手慣れた感じでハンドルを切ると左右が生け垣に囲まれた路地の中へ車を乗り入れていく。やがてタイヤがざざっという音を立ててオレンジ色の屋根をした建物の前でミニバンは停まった。
砂利が敷かれた駐車スペースには他に軽トラックと青いミニバンが並んでいる。
「……おかしいな」
ふと真知さんが呟いた。ぼくもその時には気がついていた。
「玄関が開けっぱなしだ」
オレンジ色の屋根をした建物の正面玄関と思われる引き戸が全開で開いていた。
続いて真知さんは軽トラックと青いミニバンに目を走らせ、
「車は二台ともある。ということは、そう遠いところには行ってないみたいですね……ちょっと見てきます」
少し緊張感のある声でそう言ってシートベルトを外した。池崎さんもお父さんもそれに続く。
「そうですね」
「ここは大人だけで様子を見ておきましょうか――流時」
お父さんの声は珍しくほんのちょっとだけマジメだった。
ぼくはすぐ返事をした。
「うん。ぼくらは車で待ってるよ」
真知さんは微かに躊躇っていたけど、結局、お父さんたちの提案を受け入れ、三人で大徳屋の玄関へ向かうことになった。
車内からだと玄関の奥に続く暗がりがまるでぽっかりと開いた洞窟の入り口のように見える。
目が慣れてくると薄ぼんやりとスダレや棚のようなものがあるのが分かった。
「ごめんくださいー! 大徳屋さん! ダイビングショップ・サキの小泊ですー! 大徳屋さん!」
まず真知さんが入り口辺りでハキハキとした大声を出す。小泊さんもそうだけど、跳ねるような独特なリズムの喋り方だった。
この島の方言なんだろうか?
続いて、
「今晩、お世話になる池崎ですー! いらっしゃいますか!」
池崎さんも口元に手を当て中に呼びかけた。しかし、建物の中はしんと静まり返ったままだった。蝉の声だけがうるさかった。
お父さんが一度、こちらを振り返り、軽く肩をすくめてみせた。
それから大人三人はなにか小声で話しあうと靴を脱ぎ、家の中へと入っていった。
白状すると少しだけ怖かった。
ぼくは自然と二列目の席から身を乗り出し、廊下の暗がりの奥へ消えていったお父さんたちの背中を目で追った。
その時。
「心配だね」
いきなり真横で声がしてびくっとする。
小泊さんもまたぼくと同じような体勢になっていたので、小さな横顔がぼくの頬につきそうなくらい近づいていた。
「う、うん」
ぼくはドギマギしていることを悟れないように何気なく尋ねる。
「ここの大徳屋さんのこと知ってる? 何人くらいで経営しているの?」
小泊さんはぼくと顔を近づけていても全く気にしていないようだ。
澄んだ目でじっと前を見つめながら、
「そんなに広い島じゃないから」
それは大徳屋さんを知っているか、という質問に対する答えだった。続けて、
「おばちゃんが一人でやっていて、お手伝いの人がもう一人通いで来ている」
「へえ」
ぼくは〝よく知っているなあ〟と思った。小泊さんはぼくを振り返り、
「うちも同業だから」
それから急に出会ったばかりのぼくとすごく近い距離で話していることに気がついたかのようにかあっと顔を赤らめ、
「うん。だから、心配」
そしてふいっと身体を引き離し、外を向いてしまった。
ぼくも改めて恥ずかしくなってくる。
色々な意味で早くお父さんたち帰ってきてくれないだろうか……。
もどかしく、そして少し不安な気持ちで開きっぱなしの玄関を見ていると――。
がちゃん。
大きな音がして、ぼくは座席に座ったまま少し飛び上がった。小泊さんもびくっと顔を上げた。
だけど、すぐに原因が分かった。
「いってえ! 傘立てに足ぶつけてしもうた!」
お父さんのぼやく声が中から聞こえてきて、
「センパーイ。センパイの足は良いけど、大徳屋さんのモノは壊さないでくださいよ」
池崎さんが文句を言っているのも耳に届いた。やがて二人が玄関からまた靴を履いて出てくる。
なにが起こるはずもなかったのにぼくは妙にほっとして肩の力を抜いた。
「で、どうだったの?」
お父さんと池崎さんが車の方に戻ってくるのを待ちかねてぼくは車の窓を電動で開き、尋ねた。
「うーん、それがなあ」
「いちおー、なんか荒らされてるとか、人が倒れているとかの感じではなかったよ」
お父さんも池崎さんも妙に歯切れが悪かった。見るとお父さんたちから少し遅れて玄関に姿を現した真知さんが、
「ええ。はい、大徳屋さんです。私、おりますさね。はい、はい」
スマホで誰かと電話をしていた。
そして通話を終えると、ふうっと一息つき、こちらに向かって足早に歩いてきた。
「とりあえず駐在所には連絡しました。すぐに様子を見に来てくれるそうです」
警察?
ぼくは驚いている。小泊さんは形の良い眉をひそめていた。
宿の人は行方不明なのか――。
そんな子供二人を安心させるかのように真知さんは笑顔を浮かべ、
「大丈夫。大丈夫よ。でも、もしかして大徳屋さん、アシタバでも取りに行って、どっかで足をくじいて動けないとか、熱中症で倒れているかもしれないからね。念のためよ」
そして大人二人には真面目な顔つきで、
「という訳で、とりあえず吉田さん――派出所の警察官の方ですが、その人と私で後のことはやっておきますので石川さん、池崎さんたちはどうかお気になさらず」
「うーん」
「お気になさらず、と言われてもですねえ」
お父さんと池崎さんの困り顔に真知さんははっとしたように口元に手を当てた。
「そっか。今日からここに泊まる予定でしたものね」
「はい」
「こちらの民宿の方がいらっしゃらないと僕たち家なき子状態でして」
池崎さんは頭を掻く。
「実は大徳屋さんも何軒も断られて、ようやく予約ができた宿だったんです。夏のハイシーズンだから、今から僕たちが休む場所を探すのは難しそうで」
「……」
真知さんは数秒、考え込んだ。そしてきっぱりと言う。
「分かりました。では、大徳屋さんの様子が分かるまでうちに滞在してください」
お父さんも池崎さんもぼくも驚いていた。小泊さんが小さく笑いながら言い添えていた。
「うちも同業だから」
そうしてぼくらとダイビングショップ・サキのご縁ができた。
「ごめんなさいね。ちゃんとしたお部屋が全部、満室だからって、こんな家族用の客間にご案内しちゃって」
荷物を運び込む手伝いまでしてくれた真知さんが申し訳なさそうに言う。
池崎さんがぼくらを代表してお礼の言葉を述べた。
「いえいえ、とんでもない! 泊めて頂けるだけで本当に大感謝です」
「そうですね。じゅうぶんすぎるくらい良いお部屋です。なあ、流時?」
「うん」
ここは礼儀正しい子供でいようと思う。
「真知さん、ありがとうございます」
ぼくが頭を下げると真知さんは笑った。
「ごていねいに」
真知さんが案内してくれたのは十畳ほどの和室だった。
型の古いテレビ、手結島が上空から映されたカレンダー、カバーが掛けられたラック、床の間に大量に置かれたぬいぐるみ。
確かにお客さんを泊まらせる部屋というには生活感がありすぎた。
でも、よく清潔に掃き清められた畳の日焼け具合も、年月を経て艶のある飴色になった壁の木目も、微かに漂うお香のような匂いも、なんだかとてもほっとする。
近くに住む父方のおばあちゃんの家に寄った時のような安心感があった。
「じゃあ、私はいったん大徳屋さんに戻りますのでこれで。分からないことあったら美津亜かおばあちゃんその辺にいると思うので聞いてください。どうぞごゆっくり」
真知さんはそれだけ言い残して、きびきびと部屋を出ていった。
真知さんの姿が完全に見えなくなると、
「おまえ、小泊さんがダイビングショップ・サキの名前を出した時からこういう展開をちょっと期待していたろ?」
お父さんが池崎さんの肩を拳で軽く叩いた。
池崎さんは口元を綻ばせ、
「まあ、否定はしません。実はここ、けっこー、口コミ評価が高くて、真っ先に予約したんですけど満室で一度、断られてたんです」
「なるほど……まあ、どちらにしても大徳屋さんの安否次第だな」
「そうですね。何事もないといいんですけど」
池崎さんが真面目な顔に戻って頷く。
詳しいことが分かったらすぐに真知さんが知らせてくれる約束になっている。
ぼくはその間、窓から外を見ていた。
緩く下っていく傾斜の先に海と堤防が見えた。空は真っ青で白い雲が浮かんでいる。
室内はクーラーが効いて居心地が良いけど、一歩、外に出ればたちまち、また汗まみれになるだろう。
今、ぼくらがいる建物は真知さんや小泊さん、おばあさんが暮らす家族用の建物だった。このすぐ隣にダイビングショップ・サキが経営するペンションも建っている。
海でダイビングをする人も、そうでない人も泊まれる評判の良い宿らしい。真っ白な外壁のとてもオシャレな外観で、庭にはバーベキューができるスペースやハンモックもあった。
そしてダイビング用の施設はここから歩いて五分程度の浜辺にあるのだそうだ。
「さて、これからどうしましょうかね?」
池崎さんがお父さんに尋ねる。
お父さんはトランクからノートパソコン入りの保護ケースを取り出し、部屋の中央に置かれたちゃぶ台の上でジッパーを開いた。
「なにを言ってるのだね、池崎くん。俺がなにをしにこの島来たのか、君も知っているだろう?」
きりっとした顔でそう言って執筆のルーティンを次々と整えていく。
お父さんはノートパソコンがあればどこでも小説が書けるタイプだけど、その代わりにコーヒー、タイマー、パソコン専用のイヤホンが必須だった。
船内で買っておいたブラックの缶コーヒーをパソコンの横に置き、タイマーは家から持ってきた愛用(ブタの形をしている)のをセットし、パソコンに接続した専用のイヤホンを耳につけた。
「さっそく仕事だよ、仕事」
そう芝居がかって言う。
「脇目もふらず、寸暇を惜しんで仕事だ、仕事!」
お父さんのその茶番をよく理解しているのだろうけど、
「なら、僕もお付きあいしますか」
池崎さんも頷いた。持ってきたバッグからタブレットを取り出し、電源を入れる。
「この島にいる間に新人の企画書とネームに目を通そうと思っていたんですよ」
池崎さんは今、出版社のコミック部門で働いていた。お父さんの説明によると池崎さんは元々、漫画編集者志望で、小説の編集部で良い成績を上げたので、希望通りの配置換えになったらしい。
大人二人は仕事モードになっている。
さて、ぼくはその間どうしようか、と考えていると、マナーモードにしていたスマホがポケットの中で震えた。
ぼくは相手を確認してから、
「お父さん、ぼく、ちょっと辺りを散歩してくるね」
さりげなくそう言って動き出した。
池崎さんがちょっとだけ不思議そうにこちらを見たけど、パソコンの画面に意識を集中し始めたお父さんはもうろくに話を聞いてない。
「はいはい。気をつけて」
雑に手を振ってくる。ぼくは足早に室内を出て、廊下を渡り、階段を降り、玄関で靴を突っかけてから外に飛び出た。
一気に夏の熱がぼくを包み込み、少しだけ息が苦しくなる。
もう着信は切れていたけど、歩きながら相手に向かってかけ直す。
離島だからなのか電波状態がかなり悪く、なかなかつながらない。見るとアンテナが一本しか立っていなかった。そこでぼくはアンテナの数が増えるような場所に移動してもう一度、発信する。
今度は上手くいった。
『はいはい。流時?』
お母さんがすぐに出てくれた。ぼくは小泊さん宅からどんどんと離れていきながら返事をした。
「あー、うん」
『どー? 元気してる? ちゃんとご飯は食べてる?』
相変わらずのんびりとフワフワした喋り方でお母さんは聞いてきた。
周囲に時々、誤解されるけどお父さんとお母さんは別に離婚している訳ではない。むしろ二人はぼくの友だち周りと比べてもかなり仲の良い夫婦に思えた。
だけど、互いの仕事やちょっとしたぼくに関係する問題で普段は別居という形を取っている。
で、ぼくは基本的にお父さんと、妹のようこはお母さんと住んでいた。お母さんはけらけら笑いながら言った。
『東京に出てきたのなら一度うちに顔を出せば良かったのに。ようこも会いたがっていたわよ』
「あ、うん。帰りにお土産持ってゆっくりしてくってお父さん、言っていた」
『でも、手結島かあ。お父さん、そこ好きねえ。今まで一番、売れた作品、そこで書いたからゲンを担いでるんだろうね』
「お母さんも行ったことあるの?」
ぼくが尋ねるとお母さんは爆笑した。
『行ったも行った! あんたが生まれる前は何度もつきあわされて大変だったわよ! 貴重な休みを使わされてさあ』
文句を言っているようでいて、その口調はからっと明るかった。
お母さんはゲーム会社や音楽レーベルを何社も渡り歩いて、営業や広告の仕事(細かい内容はよく分からないんだけど)をしている。お父さんが言うには転職する度に年収が上がっていっているウルトラスーパー人間なのだそうだ。
お父さんが〝へんな〟人だとすれば、お母さんは〝できる〟人だった。
自分の両親だけど、ずいぶんと変わった組み合わせだとは思う。
『ま、一夏の冒険を楽しむには手結島は最適じゃない。気をつけて楽しんでおいで』
お母さんの声を聞いているといつもなんだかほっとする。その流れのままにお母さんは言った。
『そしてこの間、伝えたことをよく考えてね』
ぼくはどきっとした。お母さんは優しく言い添える。
『あなたももう大きくなったし、昔のような問題はきっと起こらないでしょ? 自分で考えて決断して。お父さんも私もあなたやようこのことが一番、大事なんだから』
ぼくはぽつりと答えた。
「……うん」
『じゃ』
「うん」
いつの間にかお母さんとの通話は切れていた。
ぼくはぼんやりと考える。
(今年の夏中……もしかしたらこの島にいる間にはもう結論を出さないといけないのかもしれないなあ)
ぼくはここ最近、お母さんからのある提案にずっと迷っていた。そしてお父さんに対してはその〝迷っている〟こと自体をどこかやましく思っている。お母さんとの電話を聞かれるわけもないのに、こうして距離を取ったことはぼくの心のやましさの現れだった。
そこでぼくはあることに気がついた。
「あれ?」
考えごとに夢中になっていて、いつの間にかぼくは自分がどこにいるか分からなくなっていた。
最初はたかをくくっていた。
いくら知らない島とはいえ、ちょっと宿から離れたくらいでまさか道に迷うようなことはないだろうと思っていた。
でも。
「あれ?」
角を曲がり。
「あれ?」
道を引き返し。
「あれれ?」
さらに先に進んでも全く見覚えのある場所に戻れなかった。古い民家が建ち並ぶこの辺りの景色はどこもすごく似通っていた。
がっしりと組まれた石塀。狭く細く入り組んだ道。こじんまりとした家々。ブーゲンビリアやハイビスカスのような赤やピンク色の南国の花々があちらこちらに咲いている。
いざとなったら誰か人に道を聞こう。
ダイビングショップ・サキはどこですか、と聞こう。
そう自分に言い聞かせ、不安になってきた気持ちを抑えながら歩き、いつしかぼくは誰とも出会わないまま、集落の外れまでたどり着いていた。
見たことがないくらい鮮やかな羽をした大きな蝶が緩やかに、穏やかに舞いながら道を横切るのを目で追って気がついた。
「あ」
住宅地の切れ目。右手の斜面に暗い木々の中に続いていく石段があった。
そしてその入り口には。
真っ赤な鳥居が立っていた。
蝉の鳴き声がひときわ大きくなった。
この島は海の上に小山がぽっかりと浮かんだような形になっている。なので海岸線の周りを除くと島のほとんどの部分が傾斜地になっていた。
それは島に来る前から地図で予習をしていたし、実際に自分で歩いてみても納得できた。
この鳥居から続く石段は島のさらに奥、より山の深いところへと続いているようだった。
近寄って確認してみる。
参道の両側に薄暗く木々が生い茂っていた。見覚えがある樹木(どんぐりをつけるシイの木だけ分かった)の他に、ヤシのような普段見かけない植物(あとでビロウというのだと知った)も生えていた。そして木陰に入り込み、下草の匂いを嗅ぎ取れるくらい近づいてみて初めて分かった。
(なんだこれ? 狛犬?)
鳥居の左右の柱の下に台座が設置されていて、そこに苔むした狛犬が大きく口を開けて座っていたのだ。
(でも、これって)
見ていると少し不安な気持ちになってくる。
この狛犬は――。
少し普通じゃない。
その時。
「あっれえ! 流時くん?」
石畳の階段の上から驚いたような声が降ってきた。ぼくは狛犬に向けていた意識をそちらに向けた。
木漏れ日が差し込んで逆光になっているので姿形がよく見えない。
でも、多分、そうだ。
「小泊さん?」
ぼくは問い返す。影になっていた女の子はとんとんとんとリズミカルに階段を駆け下りてきながら大きな声で答える。
「うん。わたし! 小泊美津亜!」
あ、危ない、と思った。
小泊さんの勢いはとどまることを知らない。加速していくばかりだ。
そしてそのまま、ずるっと足を滑らせ、最後の数段、尻餅をついたまま、スライドして降りてきた。
ぼくは呆気に取られていた。
「……」
「……」
ぼくも小泊さんも無言でお互いを見つめあう。
やがて小泊さんは座り込んだ姿勢のままで聞いてきた。
「こんなところでなにしてるの?」
「こっちの台詞だよ、それは!」
思わずぼくは突っ込んでしまった。
それから心配になって手を差し伸べた。
「だいじょうぶ? 痛くない? 怪我は?」
小泊さんは顔を赤らめ、ぼくの手助けなしでさっと立ち上がった。
「もんだいない」
着ていた白いワンピースの裾を直し、お尻をはたきながら、
「わたしはテユイさまにおねがいをしにきていたの」
「え?」
「テユイさまは人と人の縁をつなぐ神社だから。大徳屋さんがすぐに見つかりますようにって」
やはり小泊さんの喋り方は独特で少し分かりにくかったけど、要するに行方不明になった大徳屋さんを心配して願掛け(神様へのお願い)に来ていたらしい。
(良い子なんだろうね、きっと……少し変だけど)
ぼくは今、気になっていることをそんな小泊さんに向かって尋ねた。
「ここはそういう神社なんだね……テユイさま、か。えっと、それで、この狛犬なんだけど」
ぼくは少し落ち着かない気持ちで狛犬を示した。
「なんというか、普通の狛犬と少し違うよね?」
小泊さんの首が左に傾ぐ。
「狛犬って普通、神社の外側を向いているよね。でも、ここのは真逆だ。内側を向いている。それが――とても気になるんだ」
そうなのだ。
迫力のある顔つきの狛犬は二体ともなぜか鳥居の外側でなく、内側を睨みつけている。
両方とも苔や白い結晶でまだらになっていて、台座の辺りをよく観察すると一度、大きく動かしたような形跡があった。
白い跡がそれなりに鮮明だったので多分、そんなに大昔じゃないはずだ。
「なんでかな? 理由を知ってる?」
ぼくはその辺りを覗き込みながら言った。
やがて小泊さんが言った。
「――狛犬ってみんなそうなんじゃないの?」
その答えにぼくはびっくりして振り返った。小泊さんは小首を反対側に傾げながら、
「この島にある四つの神社はみんなそうだけど?」
そう言い添えた。
ぼくが黙り込んでいると小泊さんは少し目を細めて冷たく言った。
「この田舎者め、とか思った?」
「え? いやいや、そんなこと思うわけないよ!」
「ほんと? 本土と全く違う非常識な島だとか思わなかった?」
小泊さんは続ける。
「うちの島は信号機が一つしかないんだけど、それでも思わない? 本当は必要ないけど、子供たちに信号を教えるためにわざわざ一つ建ててるんだけど」
「え?」
「ほら、びっくりしている!」
ぼくは必死で言った。
「いや、ぼくも全然、都会のニンゲンなんかじゃないってば!」
今、ぼくが住んでいるのは埼玉県の奥のさらに奥のアクセスの悪いところで都心からだと二時間近くかかる。さすがにこの島ほどじゃないけど相当、自然も豊かだった。
そんなことを説明していると、
「あれ?」
小泊さんが後ろ手に手を組んで、くすくす笑っていることに気がついた。
「えっと」
どうもただ、からかわれていただけみたいだった。肩の力が自然と抜ける。
(そんなこともするんだ……)
意外。
でも、イヤな気持ちはしない。
小泊さんは柔らかい表情で言った。
「わたしは分からないけど、おばあちゃんなら知ってるかも。資料館の昔の本とかにも書いてあるかも。気になるんだったら調べるの手伝うよ?」
「え? いいの」
思わず声が弾む。
小泊さんは頷いた。
「真知ちゃんから流時くんの相手をしてあげるように言われているから。あ、でも、今日はまず海に連れて行くつもりだった。うちの島はまず海。それが好きになってもらう近道だから」
小泊さんはこちらを覗き込むようにして確認してきた。
「――それとも、どうしてもすぐに資料館に行きたい?」
ぼくは首をぶんぶん横に振った。
「あ、いや、しばらく島にいるから全然、別の日でも構わないよ!」
小泊さんはにこっと笑った。
「なら、家に戻って準備しよう。海。今の時間が満潮だから一番キレイ」
ぼくはさっき横に振った首を今度は縦に何回も振った。
「ところで」
小泊さんは不思議そうに聞いてきた。
「流時くんは、ここで一体なにをしていたの?」
ぼくは少しばつの悪い思いをしながら道に迷っていたことを正直に話した。すると小泊さんは〝この島、ちょっと分かりにくいからね〟と笑ってくれた。
ぼくたちは楽しく話しながら小泊さんの家の方に戻っていった。
心が浮き立ちながらも同時に頭の片隅でこんなことを考えていた。
この島の神社の狛犬が全て普通と逆の位置に置かれているのだとしたら。
いったい、狛犬はなにからなにを護っているのだろう?




