第2話 船の上の朝
翌朝、お父さんと池崎さんのいびきがうるさすぎて、六時前には目が覚めてしまった。普段と比較すると全然寝足りないはずなのに、心がそわそわしてじっとしていられない。
ぼくは自分たちの船室から出て甲板に上がってみた。船外に出た瞬間に赤とオレンジ色の強烈な光に包み込まれる。
思わず何度も瞬きをした。目が慣れてくると昇りかけの太陽が海面を眩く照らしていることが分かった。
潮の香り。風の音。
少し肌寒いくらいだ。
ゆっくりと船首の方へ歩いていく。
鋭く甲高い鳴き声で顔を上げると、マストの近くを海鳥が数匹、船とたわむれるように舞っているのが見えた。
ぼくは普段、眼鏡をかけているけど、これは乱視を矯正するためのもので視力自体には自信があった。
(もしかして)
手をかざして船の進行方向を見るとそう遠くない海面にごつごつとした山のような影がいくつも突き出ていることが確認できた。
(やっぱり! もう島が近いんだ!)
ぼくは持ってきたスマホを望遠モードにして写真を夢中で撮っていた。
その時。
ぼくのスマホの画面の中に一人の女性が映り込んだ。船首付近で手すりを掴み、口元に笑みを浮かべて海の彼方を見つめている。
黒い髪が海風に踊っていた。
昨日の夜、あのサングラスの男の人と一緒にいた女の人だった。
一人で船の甲板に立っている。
「!」
そしてびっくりしたことにこちらを振り向き、糸のように目を細めて笑いかけてきた。
気がつかれるような距離じゃ絶対ないのに!
ぼくは慌てて会釈をして、早足で船内に戻った。
心臓が少しドキドキしていた。
(なんかやっぱりちょっと苦手な人だな)
その後、自室に戻り、歯を磨いたり、顔を洗ったりしているうちに気持ちもだいぶ、落ち着いてきた。
着替えも済ませ、夏休みの宿題を確認したりしているとそのうち池崎さんが起きてきたので一緒に船の食堂(もうこんな朝からやっていた!)に行くことにした。
ちなみにお父さんも誘ったけど、
「無理……ふつかよい。死ぬ」
そんな弱々しい声が毛布の下から聞こえてきただけだった。
それに対して池崎さんは少し眠そうで、顔もだいぶむくんでいたけど、それなりに元気そうだった。ぼくがそのことを指摘すると、
「へんしゅうしゃ、つよい。さっか、よわい」
なぜか片言で朗らかに笑った。
ぼくたちはそれぞれカツカレーと島海苔特製うどんを食べた。ぼくがカツカレーで池崎さんがうどんだ。お腹が減ったので朝からぱくぱくカレーを平らげるぼくを見て、
「――若いっていいなあ」
池崎さんはしみじみそう呟いて、うどんの汁を啜っていた。もしかすると見かけ以上にお酒が残っているのかもしれない。
朝食を食べ終え、池崎さんはシャワーを浴びると言って別れたので、ぼくはまた甲板に戻って海を眺めることにした。
途中、売店を覗いたら手結島サイダーとラベルのついたジュースが売られていたので、それを買ってみた。
日陰になったデッキのベンチに座り、海風に吹かれながらサイダーを飲むのはたまらなく気持ちが良かった。
船はぼくらの目的地である手結島の前に三つほど別の島に寄港した。
その度に船は桟橋に接岸し、渡し板が港とつながるとそれなりの数の人たちがぞろぞろと降りていった。
スティーブンや昨日の女の子がいないか注意して見ていたけど、いなかった。
あの人たちも最終の寄港地である手結島まで乗船するのかもしれない。
船が寄った島にはそれぞれ地形や雰囲気の違いがあり、出迎えの車や人なんかもいて見ていて飽きなかったけど、ぼくはぼくでそろそろ下船の準備をしなければならなかったので、一度、部屋に戻ることにした。
池崎さんは鼻歌を歌いながら髭を剃っていて、お父さんはまだベッドで転がりながら、
「俺はもう飲まん! 一生酒を飲まんぞ!」
そう呻いていたが、いつものことなのでぼくも池崎さんもスルーしていた。
多分、今日の夕方くらいには全てを忘れてビールで乾杯しているはずだ。
結局、お父さんが起き上がるのに苦労し、準備に手間取ったので、手結島に着いた時もぼくたちが最後の下船になってしまった。
船から下りるとすぐ隣に駐車場があって、たくさんの車が止まっていた。観光客っぽい人たちは宿の出迎えっぽいバンやワゴンに次々と乗っていった。
その中でひときわ目立つ存在、スティーブン・ウエイバードがいて、
「おー! リュウジ! リュウタロウ! シュンスケ! また島のどこかで会いましょう! シーユーアラウンド!」
白いワゴンの中から身を乗り出すようにして、こちらに手を振ってきた。
巨体を狭い車内に押し込めているのでかなり窮屈そうだったけど、その笑い方は今日の天気のように晴れ晴れとしていた。こっちも笑顔で手を振り返す。
スティーブンとまた会えるなら島での滞在も楽しくなりそうだった。
ちなみにあの女の子とおばあさんはいなかった。もしかしたらこの島の前でとっくに下船していたのかもしれないし、もう迎えの車に乗って港を去ったのかもしれない。
「ちなみに俺たちの迎えは? 大徳屋とかいう民宿だっけ? ちゃんと来るんだろう?」
トランクの上に座り込んでぐったりとしているお父さんが聞く。
「うーん、そのはずなんですけどね」
池崎さんは辺りを見回して首を傾げた。
「少し遅れてるみたいですねえ」
たくさん駐車していた車はほとんどいなくなって、港は閑散とし始めている。
最後に残っていたのは、ヘルメットを被り、作業着を着た男の人たちだった。その人たちも迎えのトラックが来たのでそれに乗り込んで去っていく。
そして、それから三十分待っても、一時間待っても迎えは来なかった。
朝九時を回って辺りの澄んだ空気がむっと熱を帯びてくる。明け方にキラキラと柔らかく光っていた海の表面はもう砕いたガラスをばらまいたようにギラギラと激しく自己主張して輝いている。
ぼくは自動販売機で買った麦茶を口に含んで冷たい液体を喉の奥に送った。
港の駐車場脇の待合スペースには一応屋根があるけど、風があまり吹いていないのでかなり暑さがこたえる。
ぼんやり黙っていると蝉の鳴き声と波の音が入り交じって聞こえる。
額に浮かんだ汗が首筋に流れていった。
「うーむ、良い感じで夏だなあ」
お父さんはだいぶ、二日酔いから回復していて、ベンチにふんぞり返りながらそう言った。手には普段から愛用している扇子を持っていて、忙しなく扇いで首元に風を送っている。ハンディタイプの扇風機は今ひとつ好きになれないそうだ。
「……」
ぼくはお父さんを無言で見てから少し離れたところにある船会社の営業所に視線を向けた。その陽炎で少し揺らいだ入り口から池崎さんが出てくるところだった。
予約したはずの民宿、大徳屋は出迎えの車を港によこさないだけではなく、何度、スマホで連絡しても誰も応答しなかったので、池崎さんは観光案内所を兼ねている船会社の営業所に事情を聞きにいったのだ。
池崎さんは日陰まで戻ってくるとまず頬の汗を手の甲で拭ってから大きな溜息をついた。
「いやあ、そこの固定電話を貸してもらって電話しても結局、誰も出ませんでしたわ。受付の人も首を捻っている感じです。確かに今日は営業日らしいんですけどね」
「駿介~、おまえが予約したの本当に大徳屋だったのかあ?」
お父さんが疑わしそうにそう言うけどぼくは池崎さんを信じた。
お父さんじゃないんだから。
「そうすると……」
ぼくは聞いてみた。
「これからどうなるの?」
少し……いや、かなり不安だ。お父さんと池崎さんは顔を見合わせる。それから池崎さんは自分のスマホでなにかを調べて、
「うん。位置情報で見ると大徳屋までここから歩いて三十分くらいだ。なんとかなる! なんとかなる!」
「うええ」
お父さんは未練がましく言う。
「タクシーは? タクシーはないのか、この島には?」
池崎さんは黙って首を横に振った。顔に無慈悲な笑みを浮かべている。
ぼくは覚悟を決めた。
どうやらこの暑い中、荷物を担いで直接、宿まで行かないといけないみたいだ。
事前に調べていたので、知っていたけどこの島の中心地――たとえば商店や町役場がある地域や宿がたくさん並んでいるエリアは港から少し離れた場所にあるのだ。
大型客船が接岸できる地形が島の中でここしかないため、港の機能だけが独立してこの入り江に存在している。
熱中症対策に麦茶を追加で買い込み、池崎さんが用意していた塩タブレットを舐め、ぼくたちは港を後にした。
早速、緩い登り道がぼくらを出迎えて、ぼくたちは呻いたり、嘆いたりを繰り返した。
お父さんは長期滞在できるようにトランク一つとリュック、ぼくはリュックとボストンバッグ、池崎さんは宿泊数がぼくらより少ないので私物はナップザック一つのみだったけど、大量のお酒やおつまみを入れたエコバッグを両手にぶら下げていた。この人が一番、おかしいと思う。
坂道は徐々に勾配をきつくしながらくねくねと折れ曲がり続いている。唯一の救いは頭の上で木の枝が生い茂っていて、ずっと日陰ができていることだ。
潮の香りが鼻をつかなくなり、波の音もだいぶ背後に遠ざかった頃にはぼくらの息はすっかりと上がっていた。
道が真っ直ぐに登っていくルートと左側にやや下っていく道路に分かれた分岐点でぼくたちは示し合わせたかのように、荷物を下ろし、しゃがみ込んだ。
お父さんがグビグビと喉を鳴らして麦茶を呷っていた。ぼくは額や首筋に浮かんだ汗をタオルで拭う。
「はあ、これは三十分では無理そうかな」
池崎さんがスマホを確かめながら呟く。水分補給を終えて一息ついたお父さんが左側に下っていく小道の少し先を指さした。
「あれ、なんかペンションぽくないか?」
見ると道路の脇の木立の合間に白い建物が建っている。池崎さんがスマホ上の地図を指先で広げて言った。
「あー、あれはペンション・プフワですね。港から一番、近いところにある宿です。俺たちの行く大徳屋はこっち」
真っ直ぐ続く坂道のさらに先を指さす。お父さんがうんざりした顔で溜息をついた。
「も~いいよ。あのペンションでいいからさ、押し入って居座ろうぜ」
言っていることが強盗のそれだ。
ぼくらが見ていたから、という訳でもないのだろうけど、白いペンションの入り口辺りで人影が動き、それはすうっと滑らかな動きでこちらに近づいてきた。
自転車――それも電動アシスト付きに乗っているのだとすぐに分かった。
けど、その乗っている人が意外だった。
「な!」
ぼくらのすぐそばで止まってその人は驚いていた。こちらも目を見張る。
「なんで、おまえらが!?」
それは昨日の船室でぼくらともめたサングラスのおじさんだった。
おじさんは今日もしっかりとサングラスをかけている。そして大荷物、汗まみれでぐったりしているぼくらの様子を確認したとたん、口元でにたりと得意げな笑みを浮かべた。
ぼくらの困っている姿が面白くて仕方ないみたいだ。
思いっきり、
「ばあーーーーか!」
子供のように悪態をついてぼくらが目指す予定だった坂道を電動自転車で登り始めた。
ぼくは怒るより呆気に取られたけど、大人二人は違っていた。顔を見合わせると即座に、
「駿介!」
「うす!」
気合いをかけあい、荷物をその場に放り出し、
「まああてえええええ!」
「その自転車、おいてけえええ!」
二人でサングラスのおじさんを追いかけ始めたのだ。
言ってることが今度は山賊のそれだった。
サングラスのおじさんは一度車上でこちらを振り返り、
「ひ」
おじさん二人が凄い形相で追いすがってくるのを見て、
「ひひゃああああああああ!」
必死でペダルを漕ぎ出した。まるで妖怪でも目にしたかのようだ。
しかし、さすがに電動自転車の加速はすごく、お父さんも池崎さんも二日酔いの上に体力的な問題もあって徐々に引き離されていく。
やがて自転車が完全に視界から消えたところで、お父さんと池崎さんが力尽きて道ばたに倒れ込んでいるのが見えた。
(お父さんと池崎さんって)
溜息が自然ともれる。
(やっぱり普通のオトナじゃないよなあ)
お父さんたちが置いていった荷物をどうしてくれようか、と思って振り返った時、ミニバンが一台、左側の道からゆっくりとこちらに上がってくるのが見えた。
バンはぼくの前で静かに停車すると、するするっと運転席の窓が開いて、
「君、大丈夫? どうかした?」
よく日焼けした女性がハンドルに手をかけた姿勢で声をかけてきた。
そしてぼくがなにか答えるよりも早く後部座席から、
「真知ちゃん! この子! この子!」
興奮したような声が聞こえてくる。聞き覚えがある声だった。そしてほとんど同時にミニバンの後部座席ががらりとスライドして、中から一人の女の子が飛び出てきた。
ぼくを指さしながら、
「この子だよ、真知ちゃん! この子が私とおばあちゃん、助けてくれたの!」
笑っているような、困っているような顔でそう言った。
あの船で会った女の子だった。昨日の夜とは違って真っ白なワンピースに野球帽とサンダルという姿になっていた。
ぼくは驚いて固まっていた。




