第1話 手結島へ
「もうお父さんはダメだ……」
お父さんはいつものように畳の上に寝っ転がりながらそう言った。
ヨレヨレの作務衣からポヨポヨの白いお腹がはだけている。
そして頭にはいつも巻いている白いタオル。汗っかきなのもあるけど、最近、少し薄くなってきた髪を隠す意味もあるんだと思う。
〝四十才はそんな年だ。おまえもいずれそうなるさ。うひひひ〟
お父さんは悪魔のように不吉な顔でそう言って笑ってくる。
その度に〝やだなあ〟と思う。
まだぼくは十一才だから仮に薄毛になるにしても当分、先の話だけど、そんな未来はできたら来ないでほしい。
お母さん似だね、とよく言われるので多分、大丈夫だとは思うんだけど……。
「なあ、流時」
「……」
ぼくが反応しないでいるとお父さんはもう一回、弱々しい声で呼びかけてきた。
ついでにぼくの着ているTシャツを引っ張ってもくる。
「お父さんはもうダメだ」
ぼくは溜息をついてスイッチ2でやっていたマイクラを中断した。
無視しているとずっとこのアピールは続く。ぼくはお父さんを振り返って聞いてみた。
「で、今回はなにがダメだったの?」
昨日は育てていた朝顔に水をやるのを忘れて枯らしてしまっていた。一昨日は髪にガムをつけたまま外出してコンビニで笑われたらしい。
その前はなんだっけ?
そうだ。また太ったんだ。二キロくらい。
「書いている小説の筆が止まってしまったんだ。インスピレーションが湧かなくなった。ミューズが降りてこなくなった」
ミューズっていうのは芸術の神様だ。
以前もお父さんが似たようなことを言っていたので覚えている。
「そんなこと言われてもミューズも困ると思うけどなあ」
ぼくがそう言うとお父さんは悪巧みするようににやりと笑った。
「いや、お父さんはもう一度、ミューズと仲良くなるために今年の夏、手結島に行くことにした」
「……」
ぼくはしばらく眉を寄せて考えてから聞いた。
「どこ? そこ?」
「東京から船で一晩。景色はサイコー、飯は美味い。その上、温泉が湧いているスペシャルなリゾート島だ」
「ふうん」
そう言われてもぴんとこない。
「まあ、行ってらっしゃい」
ぼくはとりあえず気の抜けた感じでそう答えた。ちなみにお父さんはプロのミステリー小説家だ。頭に〝売れていない〟という注意書きがつくけど。それで仕事のためにカンヅメ(小説家がしばらく普段と違う環境で集中的に仕事をすることをこう言うらしい)をするつもりなのだと判断した。
頭の中では、
(なら、その間、ぼくはお母さんのところで過ごすのかな? ようことも遊ぶ約束をしているし、ちょうどいいかな?)
そんなことを考えていたら、
「なにを言ってる? 流時もいくんだぞ?」
「え?」
と、ぼくはぽかんとした。お父さんはにっこにこで言った。
「楽しい夏休みになるといいなあ」
それからちょうど一週間後の夜、ぼくは竹浦桟橋から出発する連絡船アカツキ丸に乗っていた。
本当なら南の島に行くなんてあまり気が進まなかった。
色々と理由はあるけど、その中で一番、大きなのはたとえ行き先がどこであろうとお父さんと一緒に旅行するということ自体がめんどくさい、というものだった。
お父さんはモノを忘れたり、壊したりする名人だった。
それは日常生活でも、旅先でも全く変わらない。
家族で旅行に出かけると、その度に道に迷ったり、切符を落としたり、トランクの中身を道にぶちまけたりして、ようこに呆れられ、お母さんからは小言を言われていた。
だけど、この『お父さん頼りなさ過ぎ問題』はある人が同行を申し出てくれたので一気に解消された。
「流時くん。センパイの面倒は僕が責任持って見るから心配しなくていいよ。君は好きに過ごしていなさい」
優しくそう言ってきたのは、お父さんの大学の部活の後輩で、今は向学社で働く編集者でもある池崎駿介さんだった。今回の船や宿の手配は全部やってくれたのも池崎さんだった。
池崎さんは半年に一回くらいわざわざ電車を乗り継いでお父さんとお酒を飲みにウチへやって来る。
その時にお父さんから南の島でカンヅメする予定を聞いて、
〝なら、僕もいきますよ。手結島には温泉もあるそうだし、美味い魚も食いたいし、骨休めにぴったりだ〟
そう言ってくれたのだ。
「おい、駿介。早く吞もうぜ!」
今もまだ船が出航していないというのにすっかりでき上がっているお父さんが手招きしているのに対して、
「おっすおす、センパイ。池崎、ただいま参りまっせー!」
池崎さんは軽く調子をあわせ、ぼくの肩をポンポンと手で叩いてからそちらに向かった。
二人は船の上の展望デッキに設置されたベンチにビールやらおつまみを広げて宴会を始めている。船を待っている間、近くのファミレスで遅めの夕食を食べている間もビールやら日本酒を飲んでいるので、もうかれこれ三時間くらいぶっ続けで騒いでいた。
よくまあ、飽きないもんだ。
ぼくはスマホを取り出し、カメラを起動させた。
ぼくがこの旅に同行することを最終的に決意したのは、
〝手結島のことを夏休みの自由研究にすればいいじゃないか〟
と、そそのかされたからだ。ぼくは学校では歴史クラブに入っていて、来年は部長になるように先生から期待されていた。
〝手結島の資料館は確か島の規模の割にすごい充実していたし、色々と調べてみたら面白いんじゃないのか? なんか面白い伝説や伝承が見つかるかもしれないぞ?〟
やっぱりお父さんはぼくのことをよく分かっている。ぼくは将来、大学に行って妖怪やお化けの研究をしたいんだ。
そこでぼくは覚悟を決めた。
どうせなら島へ辿り着くための唯一の交通手段であるこの連絡船アカツキ丸のことも調べようとぼくは船のあちらこちらでスマホを撮影モードにして画面をタップした。
そしてぼくが鉄柵越しに暗い海面を覗き込んだちょうど、その時。
ぼおっと大きな音が辺りに響く。汽笛だ。その途端、展望デッキに上がってきているお客さんたちの間から自然と歓声が沸き起こっていた。
汽笛の音を生で聞いたのは初めてだった。
(すごい! なんか迫力が違う)
お父さんも池崎さんもビールを頭の上に掲げてもう一度、乾杯をしている。ぼくも思わず笑ってしまう。
船はのろりのろりと岸から離れ、やがて船首を沖合に向けて波を立て、真っ直ぐに前へ進み始める。
エンジンの揺れなのか、水の抵抗なのか、足下から微かに振動が伝わり、ほんのちょっとだけ不安な気持ちになる。
だけどそれも船が一定の速度で安定するとあまり気にならなくなってきた。
船は強く、おおらかに、ゆっくりと、確実に進んでいく。すると風も吹きつけ、夜になってもねっとりと籠もっていた夏の暑さも少し涼しくなる。
これで朝になればまだぼくの知らない南の島に船が着くんだ。
少しドキドキしてきた。
(今のうちにもっと写真とっとこう)
ぼくは一度、展望デッキから船内に降りた。レストランやシャワールーム、自動販売機コーナーなんかを順番に見て回る。
もうすぐ日付が変わるような時間だけど船が出港したばかりだからなのか、どこのスペースも明かりがついていて、たくさんの人が行き交っている。
そこでぼくはエントランスホールの壁に船の全体図が貼ってあったことを思い出して、足をそちらに向けた。
ところが。
「……」
着いてびっくりした。
目的の場所には小山のように大きな人が先に立っていて、腰をかがめるように船内マップを覗き込んでいたので視界が全部塞がれてしまっていたのだ。
ぼくはこんなに大きな人間を見たことがなかった。身長は二メートルくらい。
縦にも横にもでかくてまるで相撲とりみたいだった。ぼくの視線に気がついた訳じゃないんだろうけど、その人がゆっくりとこちらを振り返り、
「オウ! ごめんねー!」
ぼくを認めて、額に大きな手の平をぴしゃりと打ちつけて謝ってきた。白人の男性。赤いもじゃもじゃの髪。鼻も口も耳も全てのパーツが大きい。けど、あんまり威圧感も感じない。人懐っこい大きな犬のように全身から愛嬌が溢れている感じだった。
このおじさんが、
「ごめんね、すぐにどくね」
にこにこ笑いながらキレイな発音の日本語で言ってきた。
「あ、いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
ぼくが慌ててぺこりと頭を下げると、
「スティーブン・ウエイバード。スティーブンと呼んでね」
手を差し出してきた。ぼくは一瞬、ぽかんとしたけど、このおじさんがスティーブンと名乗って握手を求めてきているんだと気がついて慌ててその手を握り返した。
野球のグローブのように大きく肉厚で、そしてとても暖かみのある手だった。
「リュウジ。リュウジ・イシカワです」
「リュウジ。オッケー。またねえ」
スティーブンはウインクを一つしてから口笛を軽く吹いてトイレの方に歩いていった。頭が天井に着きそうになっている。すれ違った人がぎょっとしたように立ち止まっていた。
(あれくらい大きな人だとこの船は少し狭いんじゃないかな?)
スティーブンを見送ってそんなことを考えた。それからぼくは案内図で船の全体を確認してまだ行っていなかった客室も見て回ることにした。
もちろんそこを使うお客さんたちに迷惑にならないよう、外から各部屋を確認するつもりだった。ところが二等の和室スペースに来た時、大きな声が聞こえたので、思わず中を覗き込んでしまった。
「だからあ、ここもう俺のスペースつってるでしょ? なんでそれがワカンナイかな?」
そんなことを言っているのはひょろりと背の高いおじさんだった。カーゴパンツに白いだるだるのシャツを着ていて、夜の船内なのにサングラスをかけている。
その横には黒いタイツに透け感のある黒いカーディガンを着た女の人も立っていて、こちらは折り曲げた指を自分の方に向けて、真っ赤なネイルをただつまらなそうにじいっと見つめている。
この二人は立っていたけど、
「いや、でもねえ。ほら、チケットには私たちの席だって」
おじさんに睨みつけられているおばあさんはぺたりと座りこんでいた。優しそうな顔にオロオロとした表情を浮かべている。
そのおばあさんに対しておじさんは、
「だからあ、あんた、さっき俺の足踏んだでしょ? で、そのお詫びにそのスペースよこすって言ったじゃん」
凄みを利かせて、怒鳴りつける。おばあさんは困ったように頬に手を当てた。
「そんな……そんなこと言ったかねえ?」
でも、ぼくが気になったのはこのおばあさんよりもう一人の女の子の方だった。
「おばあちゃん、いいよ。この人、ウソ! ウソ言ってるだけだから!」
そう言っておじさんをにらみ返している。おばあさんを護ろうとおじさんの前に立ちはだかっていた。
白いショートパンツに黄色いTシャツ。ぼくと同じ年くらい。黒いつやつやした髪を肩の辺りで切り揃えていて、眉がくっきりと太かった。
とても凜とした雰囲気のある女の子だった。
「この」
おじさんは叫んだ。
「ウソはてめえらだろ!」
おじさんの大きな声を聞いて女の子は一瞬、びくっと身をすくませた。恐怖で顔が歪んでいる。やっぱり自分よりもずっと大きい相手が怒鳴ってくるのは怖いんだ。
ぼくは助けになってくれそうなオトナを探したが、和室の奥の方に中年の夫婦っぽい人たちがいるだけだった。この二人は自分たちにとばっちりが来ないようにずっと知らん顔をし続けている。
(勇気を出さなきゃ)
ぼくは咄嗟にスマホを操作して大きな声を出した。画面が相手に見えないよう、少し立て気味に構え、
「おじさん! ぼく、証拠撮ってましたよ!」
おじさん、女の子、おばあさん、奥にいる中年の夫婦が全員、驚いたようにこちらに首を巡らせた。黒ずくめの女の人だけはちらっとぼくに目を向けたが、すぐにまた自分の爪に視線を落とした。
ぼくはスマホを真っ直ぐに相手に向けたまま、
「この二等船室の和室ルームでおじさんが足を踏まれているところ、ぼく、ばっちり撮ってました!」
おじさんは戸惑った顔になった。ただ女の子だけはすぐに反応した。
足で畳を思いっきり蹴って、
「でたらめ!」
一言、悔しそうにそう叫ぶ。だけど、ぼくはその子のことは無視して言った。
「おじさんがこの二等船室の和室ルームでおばあさんに足を踏まれて、そのおばあさんが自分のスペースをお詫びに渡すって言ってるのもばっちり撮ってます!」
怒っている女の子とは違って、おばあさんはただただ哀しそうな顔でこちらを見ているだけだ。ぼくはずっとドキドキしていた。
「必要だったら映像を出しますけど、どうしますか、おじさん?」
おじさんは戸惑っていたけど、少し考えてから、
「分かった。じゃあ、見せてみろ!」
偉そうにそう命令してきた。
「あ、ちょっと待ってください。すぐに映像を出しますから」
ぼくはそれからスマホの操作をもたつくふりをしてたっぷり三十秒、時間をかけた。
それからこう答える。
「あ、ごめんなさい。やっぱりそんな映像はあるわけなかったですね。だって」
少し間を取って、
「――全部、おじさんの嘘なんでしょ?」
そう言い終わって自分の声が少し震えているのに気がついた。
和室にいる誰も皆、ぽかんとしていた。特に女の子は目をまん丸にしている。呆気に取られていたおじさんがようやくぼくの手の平返しに気がついて、顔を紅潮させた。
「てめ! このガキ!」
拳を振り上げて、こちらに近寄ってくる。正直なこと言えばずっと怖くてたまらなかったけど、これで役目は果たせた。
ぼくの目的。
それは時間を稼ぐこと。
ぼくの後ろから大人二人がひょっこり現れる。
「お、ここか、ここか」
「お待たせ、流時くん」
お父さんと池崎さんだった。ぼくはさっきからずっと携帯でビデオ通話を繋げていたんだ。今までの会話は全部、お父さんたちが聞いていた。
「大した機転だな。さすが俺の息子」
お父さんがぼくの髪をくしゃくしゃにしてくる。正直、止めてほしい。サングラスのおじさんは明らかに怯んでいた。
「な。なんだよ? てめえら」
「ひっく」
だいぶ、酔いが回っているっぽいお父さんが一度、しゃっくりをしてから、サングラスのおじさんをぎろりと睨んだ。
ぼくは知っている。お父さんは普段、あまり当てにならない人だけど、こういう修羅場ではとても頼りになるんだ。
そう思っていたんだけど……。
「う、急に走ったから気持ち悪くなってきた」
お父さんはそんなぼくの期待をあっさり裏切ってその場にうずくまってしまった。
どうやら本当に飲み過ぎてしまったようだ。
「しゅんすけえ~、あとはまかせたあ」
そんな情けないことを弱々しく言って腕の中に顔を埋めた。
「おとうさああん!」
ぼくは怒り半分、呆れ半分で叫んだ。
「ま、ま。だいじょうぶだよ。僕に全て任せておきな、流時くん」
一方、池崎さんはニヤニヤ笑いを浮かべたまま余裕たっぷりに腕を組んでいる。
ぼくは池崎さんに賭けることにした。
「池崎さんは大学の時、空手のチャンピオンだったんですよね!」
サングラスのおじさんにもよく聞こえるように言う。壁に身体を預けたお父さんも笑いながら言い添えた。
「駿介が空手をやってたのは高校の時だな。大学は俺と同じ杖術を主にした古武術の愛好会。ただ、お互い喧嘩の方が百倍、得意なタイプだったよなあ」
「ははは、昔の話、昔の話です」
アロハシャツにドレッドヘア姿の池崎さんの迫力にサングラスのおじさんは明らかにたじろいでさらに後退している。
その時だった。
「う」
今度は池崎さんに異変が起きた。急に顔色を変えると口元を手で覆って、いきなりその場から駆け出し、いなくなってしまったのだ。
しばらくしてお父さんがぽつりと言った。
「……あいつもだいぶ、飲んでいたからなあ」
トイレに吐きにいったのかもしれない。
(もー、コントじゃないんだから!)
ぼくは心の中で突っ込んでいた。結局、大人二人は酔っ払いで全然、頼りにならなかった。サングラスのおじさんはカサにかかった表情に戻って、こちらに詰め寄ってくる。
だけど、ぼくはまだ運に見放されていなかった。
「ああ、ここですねえ。ここ」
急に暗い影が差し込んだかと思って振り返るとそこに小山のように大きな男性が立っていた。
「おお、リュウジ! 君もこの部屋なのかな?」
スティーブン・ウエイバード。先ほど船内図の前で握手を交わした人だった。
「あ、いえ、ぼくは違うんですけど」
スティーブンは子供のようにがっかりとした顔になった。
「そ。君とはフレンドになったから残念ね」
それからサングラスのおじさんの方を向いて言う。
「で、この子は私のフレンドだけど――なにかこの子に問題がありましたか?」
にこにこしたまんまだけど、すごい迫力があった。スティーブンの巨体を見て、サングラスのおじさんは一気に戦意をなくしたようだ。
「ち!」
盛大に舌打ちをすると、
「おまえら、顔、覚えたからな!」
虚勢を張るかのように肩を怒らせ、ポケットに手を突っ込み、ことさら大股で部屋を出ていく。
「ひゅー」
スティーブンが一度、しれっとした顔で口笛を吹いた。
完全に置いてきぼりになった女の人は苦笑し、軽く肩をすくめ、男の人を追いかける。そして今までずっと一言も喋らなかったのに、ぼくのそばをすれ違う瞬間、
「ナイスガッツ」
薄ら笑いを浮かべて、ぼそっと耳元でそう囁いてきた。
なぜだかぞくりと寒気がした。
ぼくはその女の人の背中が遠ざかっていくのを見送ってから、部屋に目を向けた。
スティーブンはお父さんの目線までしゃがみ込んで、
「はーい、スティーブン・ウエイバードです」
また笑顔で握手を求めている。お父さんも気楽な調子で、
「リュウタロウ・イシカワね。そこのサンがリュウジのファーザーね」
片言の英語で挨拶を返していた。
部屋の奥にいた中年夫婦はぼくが視線を向けると慌てて顔を背けていた。やっぱり少し後ろめたかったのかもしれない。そして女の子が気まずそうに近づいてきた。
「あの」
ぼくはドキドキした。近くで見るととても可愛い子だった。
「な、なに?」
「助けてくれて」
「あ、いや、ぼくはなにも」
「おばあちゃん、足が悪いから」
「?」
女の子との視線が微妙に合わない。ずっと足元に視線をさまよわせている。その度につやつやした黒髪が揺れた。
「ありがとう」
お礼を言われたのかな?
女の子はすうっと息を吸ってから、ちらっとこちらを見た。
「代わりに飲み物を買ってくる」
「……」
不思議な喋り方だった。少し……いや、かなり意味が通じない。
ぼくはちょっと考えてから、
(〝助けてくれてありがとう〟と〝おばあちゃんは足が悪いから代わりに飲み物を買ってくる〟と二つのことを同時に伝えてきたのかな?)
そう解釈して、
「あ、どうぞどうぞ。気にせず」
手で促すポーズを取ると、
「ありがとう」
小さな声でそう呟いて、小走りに部屋から出ていった。
ぼくは一息ついて肩の力を抜いた。ちらっとおばあさんの方を見るとこちらはぼくに向かって深々と頭を下げていた。ぼくも慌ててお辞儀を返す。
その間に、
「いやあ、参った参った。なんとかトイレ間にあいました」
頼りにならない大人一号が帰ってきて、
「駿介~。この人、スティーブンさん。一緒に飲みたいんだって」
スティーブンに片手で引き起こされた頼りにならない大人二号がなにか言っている。
「お、それはナイスな提案ですね。ナイストゥミートユー、スティーブン。マイネームイズ、シュンスケ・イケザキ」
「こんにちは、シュンスケ。わたし、スティーブン・ウエイバードね!」
また熱い握手が交わされた。
スマホで時間を見るともう日付も変わりそうな時刻。船内見学はそろそろ切り上げて、自分のベッドに戻らないといけないかもしれない。
「お父さん! ぼく、もう部屋に戻ってるからね!」
お父さんにそう報告すると、
「わーかった。お父さん、駿介やスティーブンさんともう少し飲んでいく」
お父さんは手をひらひら振ってきた。ぼくは軽く溜息をつく。
「はいはい。飲み過ぎないでね」
あのサングラスのおじさんや黒い服の女の人とまた会ったらイヤだなあ、と思っていたけど、幸いすれ違うことはなかった。
トイレで用を足し、水を買い、自分の船室へ引き上げる。
ぼく、お父さん、池崎さんだけの特一等部屋に戻ってドアを閉め、ふうっと息をつく。
まだ船に乗ったばかりなのに色々なことが起こりすぎた。興奮しているので上手く寝つけるか分からなかったけど、明日はいよいよ島に上陸するのでなるべく睡眠をとっておかなきゃならない。
行きたいところはたくさんあった。お父さんが言っていた資料館は絶対。それと島の名物の海中温泉や展望台なんかも必ず。
もしかすると――。
(またあの女の子と会えたりするかな?)
服を脱ぎ、寝間着代わりの短パンとTシャツに着替え、備え付けの小さな洗面台で軽く歯磨きをする。自然と欠伸が漏れ出してきた。
眼鏡をケースにしまい、枕元に置く。最後に家族のグループLINEに今日撮った写真と今までの出来事を簡単に書いて送っておいた。もう電波が途切れ途切れだったので上手く発信できたかは分からない。
とりあえずベッドの中に潜り込み、スマホは枕元の充電ケーブルを差し込んでおいた。
船の揺れに身を委ねているうち、ごく自然に、いつの間にかぼくは眠りについていた。
だから、気がつかなかった。お母さんから、
〝明日、電話するねえ~〟
というメッセージが返ってきていたのだ。
大人たちは結局、夜の二時くらいまで甲板でお酒を飲んでいたらしい




