24話 神との対峙
足を踏み入れた瞬間にここが目的の場所だと直感で分かった。
冷たく、暗い、強烈な気配が辺りに充満している。肌が粟立ち、勝手に歯がカチカチと震え出す。その身体のセンサーに少し遅れて、視覚が情報を認識した。
ぼくの目の前に巨大な建造物がそびえていた。浅永が言っていた、この島の規模に似つかわしくない、まるで古代遺跡のような、という形容がとてもよく分かる。一応、木造だし、神社の形式は取っているけど、まるで石造りの、異国の神殿のような雰囲気が漂っていた。
(これが――オヤシロ)
複雑に組み合わさった建材はまるで岩のように苔むし、この建物が経てきた途方もない時間の流れを感じさせた。
(半分、崩れている)
台風で損壊した、と言っていたけど、まるで巨人の手で引き裂かれ、叩き潰されたかのように見事に片側だけが倒壊していた。
(異形の巨獣が、暗がりにうずくまっているような)
月明かりが届かない。
ずっと見ていたいような。
今にも目を逸らしたいような。
「流時くん!」
その時、美津亜ちゃんに思いっきり肩を揺すられて、ぼくははっと我に返った。
どうやら数秒、オヤシロに魅入られていたようだ。瞬きをし、首を巡らし、辺りの緊迫した状況を確認する。
「いよいよ正念場だな。スティーブン、センパイが稼いでくれた時間を生かさないと」
池崎さんが呻く。神殿の影から、木立の中から、小岩を乗り越え、次々と手つなぎ鬼たちが現れている。
ぼくたちは互いの背中を預けるように円になる。手つなぎ鬼たちは包囲の輪を徐々に、徐々に詰めてくる。
「おい。この神殿の裏にその洞穴があるんだよな?」
池崎さんが浅永に念を押す。その時、浅永がぼんやりと呟いた。
「参ったなあ。こんな時にお目覚めか」
「は?」
「いいか? 池崎と言ったな? おまえ、俺の頭をもう一度、強く、思いっきりぶん殴れ」
ぼくはぞっとした。その最悪な想像通り、突然、浅永の雰囲気が変わった。がくん、と首を垂れると、顔を上げ、
「え?」
さっきまでの不敵な感じとは全く異なる頼りない声を上げ、
「は?」
不安そうに辺りを見て、
「う! わ!」
身を震わせながら、悲鳴を上げ、
「うわああああああああああ!」
いきなり走って逃げ出したのだ。恐らく自分の意識を取り戻したら、いつの間にか手つなぎ鬼たちに取り囲まれていてパニックに陥ったのだろう。
「あんの、ばか!」
池崎さんが地面を蹴って浅永を追いかける。それと同時にゆっくりと距離を詰めていた手つなぎ鬼たちがこちらに向かって殺到してきた。
池崎さんは信じられない行動を取った。さすまたをやり投げのように放り投げたのだ。それが浅永の足の間に見事に挟まり、浅永は情けない悲鳴を上げて前につっ転ぶ。
その間、池崎さんは浅永に追いつき、彼の背中に飛び乗った。
だけど、ぼくはそれ以上、なにが起こったか確認することが叶わなかった。
ぼくと美津亜ちゃんの元にも手つなぎ鬼たちが押し寄せてきたのだ。
「こっち!」
美津亜ちゃんの叫び。ぼくもすぐにその意図を理解した。得体の知れない忌避感があったけど、仕方ない。崩れ落ちたオヤシロの建材と建材の間に美津亜ちゃん、ぼくの順番で飛び込んだ。
狭く、細く、小さい。
ぼくたちでも中腰で、身体をよじりながらでないと入れない隙間。
ぼくと美津亜ちゃんはお互い息が詰まるほど身体を密着させる。少しでも安全な場所に進もうと必死でもがく。その時、わずかに空いた隙間から若い女性の虚ろな顔が覗いた。
続いて手が差し伸ばされてきた。
その白く、細い指。
薄くマニキュアの塗られた爪。それがピクピクと蠢きながら、ぼくらの目の前まで伸びてくる。恐怖で目を見開いたぼくと美津亜ちゃんの前で手と指と爪はそれぞれバラバラに、まるでタップダンスのようにリズミカルに揺れ動き、ぼくらを捕らえようと激しく虚空を掻く。
「ひ」
美津亜ちゃんが喉の奥で悲鳴を上げる。その時、ぼくは気がついた。
「美津亜ちゃん!」
足下の辺りに前へ進めそうな空間があった。ぼくはなんとか体勢を変えて、ほとんど腹ばいになりながらそこを進め始めた。
美津亜ちゃんもすぐ後から続いてくる気配があった。本当に狭くて、暗くて、細くて、まるで洞窟探検でもしているかのようだった。
ここなら手つなぎ鬼に追いかけられる心配はもう無いけど、閉塞感が強すぎて違う不安がこみ上げてくる。でも、やがて進行方向から月明かりが見えてきた。ぼくは匍匐前進を繰り返すと、そこを目指した。そして最後の力を振り絞ってひときわ狭くなっていた建材の下をくぐり抜けた。
外の空気を一気に肺へと吸い込む。
それと同時に立ち上がり、身構えながら辺りを見回す。木々や岩肌。
良かった。
手つなぎ鬼の気配は近くにない。
「美津亜ちゃん!」
ぼくは押し殺した声で呼びかけた。
「大丈夫。出ておいでよ!」
その時、予感がした。
「あ」
「ごめん。流時くん」
美津亜ちゃんは一切、姿を見せず、こちらに向かって声だけで話しかけてきた。
建材の下に潜ったまま、
「わたし、ここから出ない。聞こえ始めちゃったんだ……ヘンな歌。とぅらったたららら」
背筋がゾクゾクする。
「流時くんとは行かない。行けない。もうダメみたい……」
「美津亜ちゃん」
「最後、お願いね。つらったたったらら。って、聞こえる。わたし、イヤなんだ」
少し笑う。
「ずっと思っていた。手つなぎ鬼になったら、他の人たちと手をつなぐのはもう仕方ないとして、あんなヘンな顔しているところ、流時くんには見られたくない。だから、早く先に行って」
だんだんとロレツが回らなくなってきている。ぼくは溢れそうになる涙を懸命にこらえ、
「――分かった。全部、終わらせてくるよ。ここでちょっと待っていてくれるかな?」
返事がない。
ぼくは一瞬、立ち去りかけ、思い直し、振り返り、もう届いているかどうかさえ分からない言葉を投げかける。
「全部、終わったらさ」
それは希望だった。
「一緒にディズニーランド行こうね?」
その時、建材の隙間から美津亜ちゃんの小さな手が突き出てきた。
白い月光に照らされたその手は――。
はっきりとOKサインを作っていた。
ぼくは背を向け、走り出した。もうどこに向かえば良いかは身体が分かっていた。
風なのか。あるいは霊気というものなのか。吹きつけてくる大気の流れのようなものを辿ったぼくはやがて岩肌に空いた途方もなく大きな洞穴の下に辿り着いていた。
入り口を目指してゴツゴツとした岩をさらに登っていくと上の方から声がかかった。
小岩の上に片足をかけて浅永が立っていた。にやにやと笑いながら、
「池崎って言ってたか? 良い感じで俺の頭をぶん殴ってくれたおかげで元に戻れたよ。ただまあ、あいつは代わりに捕まっちまったが」
「……」
ぼくは足を止め、感情を押し殺して尋ねた。
「あなたは、ミゾロギさん、ですよね?」
浅永の周りには背の高い異形の存在が五体ほど立っていた。集落や車の回りで見たやつらだ。山高帽に黒く裾の長いコートを着ている。
「大したもんだ。やっぱり分かっていたか」
「ぼくにも一時的に取り憑き、今は浅永に憑依している」
浅永は面白そうにぼくを見下ろしているだけだった。ぼくは繰り返して質問した。
「……あなたはそもそもニンゲンなのですか?」
「定義によるかなあ。ニンゲンの」
浅永は頭をぽりぽり掻いた。ぼくの声が思わず大きく、高くなった。
「なら!」
すごく大事なことを聞かなければならなかった。
「せめて、ニンゲンの味方ではあるんですか?」
「そのつもりではいるんだけどなあ」
にたり、と笑う。
「伝わらない?」
ぼくは歯ぎしりをした。手をぎゅっと握り込む。浅永の話が正しい、とすればきっとミゾロギは浅永を犠牲にして時間稼ぎにでもしようとしていた。個の人間などまるでなんとも思っていないのは話っぷりからも分かる。
ミゾロギは小手をかざし、下を見て言った。
「おっと。くっちゃべっている間に兵隊たちが戻ってきちまったな。おい、おまえら」
顎を動かして合図を出すと、黒い存在たちはヌルヌルとまるで油の上でも滑るようにしてこちらに下ってきた。すれ違う時、ぼくの顔を覗き込んでくるヤツもいた。傍らを通り抜ける時、彼らが発するおぞましい気配に全身の毛が逆立つのを感じた。
浅永がまた喉の奥で笑った。
「まあ、そう嫌ってやるなよ。そいつらはちょっとした足止めや情報操作くらいしかできないんだから」
ふいに優しい顔つきになった。
「ニンゲンの方がよほど怖くて、強いさ。さ、行くぞ」
一瞬だけ振り返る。確かに手つなぎ鬼たちが下からこちらに迫ってきている。
ぼくは早足で浅永――ミゾロギの後を追いかけた。
「代行印、絶対に落とすなよ。もう助からん」
ミゾロギの声だけが聞こえる。
「おまえだけじゃない。島中のニンゲンが助からない。そうなると俺たちも記録と記憶の修正のためにこの島を吹っ飛ばすしかなくなる。火山活動とか大津波とかそんな風に銘打ってな」
恐怖と。
それ以上に激しい怒りとでぼくはなんとか意識を保った。洞窟の中に入ってからずっと朦朧とした状態が続いていた。
「苦しいよな? 常世の気。冥界の空気。根の国の霧。そんなもんが、この洞窟には充満しているからな。ここはもう半分、異界と言ってもいい。ふつーのニンゲンなら発狂しているかもな。大上のやつもそんな顔をしていたよ」
暗闇の中の笑い声。冷たさと優しさが入り交じった不思議な声。ぼくは一歩。また一歩とその声を頼りに進んだ。
「おまえが持っている代行印。神代の頃から伝わる遺物で作られている。六十年前に俺があいつに渡したもんだ。懐かしいな」
聞きたいこと。気になっていることが山のようにある。
けど、言葉をまとめることができない。
声が出ない。
頭の中でずっと歌が鳴り響いている。その歌に身を委ねたくなる誘惑と必死で戦っている。
代行印を強く握り込んだ時だけ、ほんの少し頭がはっきりとした。
「そう。それでいい。それが〝彷徨える神〟と相対する者が持つ証しだ。流時。おまえは大上に似ているな。ずっと小さいけど、おまえはあいつによく似ている。強く、賢く、正しかった、あいつに」
膝をつきそうになる。眠りそうになる。吐きそうになる。
なにもかも投げ出しそうになって――。
お父さん、池崎さん、美津亜ちゃん、スティーブン、島のみんなのことを順番に頭に思い浮かべ、ぼくは一歩。
また一歩、前へ進む。
歯を食いしばって前に進む。
「この国には恐ろしい神々があちらこちらに眠っていて、俺たち〝本朝〟はそれを露わにしないために千年以上、戦い続けている。流時。おまえはこちら側だ。この浅永でも、あの大きな学者先生でもダメだった。おまえが居合わせてくれて本当に良かったよ。ほら、見えるだろう?」
その瞬間、真っ暗だったはずの洞窟にぼんやりと緑色に輝く巨大な門が見えた。
それは本当に実在するのか、それとも目が見えなくなったぼくの心の中にだけ浮かび上がっているのか全く区別がつかなかった。
ただ、どちらにしても今のぼくにはもうほとんどそれは関係なかった。その半分開きかけた扉から聞こえてくる歌声がより激しく、粘度の高いモノになってぼくの心と身体を絡め取ろうとし始めていた。
代行印とミゾロギの声がなければとっくにぼくは〝終わって〟いただろう。
「俺だって一緒だ。おまえがいなければ、ここまで来られなかったさ」
ミゾロギの声がひび割れ始める。
「さあ、門を閉じろ」
それを最後にミゾロギの存在感がどんどんと希薄になっていく。
だけど、その時にはもう自分がなにを為すべきなのか理解していた。ぼくは代行印を掲げ、強く叫んだ。
激しく願った。
「大口喰神! お帰りください!」
強大な爆風のようなモノが吹きつけてくる。歌なのか笑いなのか怒りなのか哀しみなのか呪いなのか理解すらできないほどの膨大な感情が押し寄せてくる。
だけど、緑色の門がゆっくりと閉じていくのと同時にそれは少しずつ小さくなっていく。
同時にぼくの意識もどんどんと薄れていった。
(ありがとう、流時。これでこの事件が明るみに出ないよう〝処理〟できる)
最後に一度だけミゾロギの声が聞こえた。
(手伝ってくれた、ちょっとしたお礼をするよ)
ちょっとしたお礼?
なにそれ?
そんな疑問を抱いて――。
ぼくの心は一度、完全に深い闇に閉ざされた。




