エピローグ 一夜が明けて
眩い朝日が海を照らしている。初日にこの島を訪れた時には物珍しく、ワクワクしたその輝きが、今は不思議なくらい懐かしく、身近に感じる。
生まれて初めて徹夜というものを経験したけど、疲れた身体とは別に心がずっと活性化していて眠気を全く感じなかった。
「今日もまた暑くなりそうだ」
作業着姿の男の人たちがすれ違う時にそんなことを話していた。
今、島の大半の人たちが船の接岸する港に集まっていたので、辺りはかなり混雑していた。自分が探している人がどこにいるか分からないくらいに。
ぼくは人混みの中を縫うようにゆっくりと歩いて回っていた。
大きな屋根が広がった吹き抜けの待合所には特に沢山の人たちがいて、がやがやと談笑したり、配給された炊き出しの豚汁なんかを食べていた。
(よかった)
心の底から安堵がこみ上げる。
(みんな元気だ)
もちろん、全員が全員、無事というわけじゃない。それなりの人数が骨折や打撲を負って、診療所で治療を受けたりしている。
ただ、死んだ人や重傷者はいない。
あれだけの事態でそれは奇跡的なことだと思う。
ぼくが感慨に耽っていると、
「おーい、流時くん。豚汁食べてかないか? 豚汁」
少し離れたところから呼びかけられた。ぼくは声のした方へ近づいていく。
待合所の中央には長テーブルが置かれていて、そこに据えられた幾つかのコンロで豚汁が作られているのだけど、なぜかそこでは女の人たちに混じって池崎さんが腕を振るっていた。
腕まくりしてエプロンをつけ、お玉をかき回している。
本当にどこでも馴染めて、なんでもできてしまう人だ。
ぼくは自然と笑顔になった。
「あ、ありがとうございます。あとで頂きます」
この人には何回、助けてもらったか分からない。
「それでお父さんどこにいるか分かります?」
ぼくがそう尋ねると、
「センパイ? いやあ、なんか疲れたから海を見るってほら、あそこ!」
桟橋の方を指さした。見るとその端っこの方にタオルを頭に乗っけたおじさんがぼんやりと空を見上げていた。ぼくは池崎さんにお礼を言ってそちらへ向かった。
途中、忙しそうに、でも、笑顔で、清涼飲料水をお年寄りたちに配布して回っている土方さんやベンチに座って話し込んでいる山口さん親子も見かけた。
山口のお父さんの方が腕を三角巾で吊っていて、息子さんの方は頬に大きな絆創膏を貼っていたけど、二人ともとりあえず元気そうだった。
ちなみに、浅永もその近くにいて、ベンチの上で子供みたいに丸くなって眠りこけていた。
ぼくは少しためらいながらお父さんに近づいた。
(ああ)
複雑な気持ちになる。お父さんの隣で背が異様に高い、山高帽を被った奇妙な存在が立っていて、腰の辺りから折れ曲がるような姿勢で口元をお父さんの耳元に寄せている。
なにか囁いているようだ。
お父さんがぼんやりとした表情で幾度も頷いているのが分かった。この島で、今のところぼくにしか見えていない異形の存在。ミゾロギが残した“置き土産”は、決して悪いものではないのだと思う。
でも、良いものとは言い切れなかった。
ぼくはできるだけそちらに視線を向けないようにしてお父さんに向かって呼びかけた。
「お父さん!」
こちらを振り返るお父さんの目の焦点がすうっと合っていくのを見て、ちょっとほっとした。
丈の長い黒いコートを着た背の高い存在は、節くれ立った手で軽く山高帽を持ち上げて、こちらに挨拶すると上体をゆらゆら揺らしながらぼくとすれ違った。ぼくは絶対にそちらに目を向けなかった。
「だいじょうぶ?」
お父さんにそう尋ねる。
「ああ。いやあ、災難だったな。まさか地震で山の中腹からメタンガスが出るなんてな。しばらく島の生活にも差し障るみたいだし」
なるほど、と思った。
あの黒い存在によってそういうシナリオを吹き込まれ、みんなで共有させられていくのか。
ぼく以外は。
「……そうだね」
ずきん、と胸が痛んだ。きっと怪我をした人は避難の最中、事故に遭ったとか、そんな筋書きで記憶を上書きされていくのだろう。
〝彷徨える神〟が絡んだ案件はきっとこれまでもこうやって〝本朝〟によって〝処理〟されてきたんだ。
お父さんは海を見ながらしみじみと言う。
「まあ、災害の大きさに比べて被害者が少なかったのは不幸中の幸いだな。もーじき警察やら消防やらマスコミが乗った船が着くみたいだから大騒ぎになるぞ。お母さんに話す土産話が増えそうだな」
ただ少し哀しく、なんだか切ない。
あれだけ一緒に頑張ったお父さんや池崎さんと二度と共有できない感情や思い出があるなんて。さっき船の営業所にいたスティーブンと話したけど、スティーブンですら昨日の出来事をすっかりと忘れて、にこにこと、
〝いやあ、調査に来たらこんなことに巻き込まれるとは驚きだね。まあ、有毒ガスが出ている間はしばらく私もこの島から離れるよ〟
そんなことを言っていた。
「ん? どうした?」
振り返ったお父さんがぼくの様子を認めて不思議そうに聞いてきた。
「あのさ」
ぼくは、その時になって初めて、自分でも考えていなかったことを口にした。
「ぼく、近いうちにお母さんのところに行くよ。都内で進学の準備をする」
「……」
お父さんの目がふいに優しくなった。伝えてからドキドキしているぼくに、
「いい考えだと思うよ、息子。どうしたんだ、急に?」
「うん。さっきスティーブンに〝うちの大学で特等席を空けて待ってるよ〟って言われたんだ。だから、一生懸命、勉強しなきゃ」
強い気持ちがこみ上げてくる。ぼくは幾度も小刻みに頷いた。お父さんはゆっくり立ち上がり、ぼくの肩をぽんぽんと叩いた。
「よい決断だ、流時。基本的には大賛成。ただまあ、引っ越すのは新学期が始まってからでもいいとお父さんは思うけどな」
「え? ああ、うん。もちろん、そのつもりだよ」
「なにしろ、夏休みはまだもう少し続きそうだからなあ」
「え? ど、どういうこと?」
目をぱちくりさせているぼく。
お父さんはなぜか悪巧みの表情でぼくの背後を指さす。ぼくはどきりとした。待合所の辺りに松葉杖をついた真知さんと白いミニのワンピースを着た美津亜ちゃんがいて、美津亜ちゃんがぼくを認めて真っ直ぐにこちらへ向かって歩いてくるところだった。
「まあ、細かいことは美津亜ちゃんに聞け」
お父さんはそう言って〝ん~〟と伸びをするとこの場から去っていった。入れ違いに美津亜ちゃんがぴょんとぼくの前に現れる。最後の二、三歩は跳ねるような足取りだった。
けれど、その軽やかな動きとは裏腹に、表情は初めて会った時のように少し無表情だった。ぼくはちょっと戸惑いながら、
「真知さんとおばあさんの具合はどう?」
そう尋ねた。美津亜ちゃんは診療所で治療を受けている真知さんとおばあさんの様子を見に行っていたのだ。
「うん。真知ちゃんは首のむち打ちと足首の捻挫でしばらくお仕事はお休みみたい。おばあさんは指を何本か脱臼していたけど、命に別状は全くないって。元気にご飯を食べてたよ」
桟橋の付け根辺りでお父さんと談笑していた真知さんがこちらの視線に気がついて笑顔で手を振ってくれた。
ぼくは頭を軽く下げる。
「よかったあ。ほんとうに」
心底、ほっとした。
「……」
美津亜ちゃんはそんなぼくを黙ってじっと見ている。やっぱり雰囲気がちょっと変だった。ぼくは不安になってきた。
(もしかして昨日のことだけじゃなく、出会った頃からの記憶も書き換えられてしまったんだろうか?)
美津亜ちゃんは特にぼくに近い立ち位置で色々と見聞きしていた。
その可能性も決して低くはない。
ぼくは内心の動揺をなるべく抑えて、ごく何気ない口調で尋ねた。
「昨日は本当に大変だったね。なにがあったか覚えている?」
「……」
美津亜ちゃんがゆっくりと頷いた。
「もちろん。地震があって有毒ガスが地面から出て避難勧告されて」
「ああ、うん」
ぼくは哀しみで顔が歪むのを自覚した。
やっぱり美津亜ちゃんもお父さんみたいに、記憶を書き換えられているんだ。
(でも、これでいいんだ)
必死で自分にそう言い聞かせる。
(美津亜ちゃんだって怖い思い出がずっと残ってるよりはこれで)
落ち込んだ自分の表情を見られたくなくてつい俯く。
「その後、悪いロボットが出て、金色の宇宙人が出てきて、スーパーマンが助けてくれたね」
「え?」
ぼくは顔を上げる。呆然としていると美津亜ちゃんの無表情がみるみると崩れ、さもおかしそうにお腹を押さえて笑い出した。
朝の光にも負けないキラキラとしたとびっきり明るい笑い方だった。
「あ」
その時、ぼくはようやく思い出した。
美津亜ちゃんは訳の分からないやり方でぼくをからかうのが大好きなんだ。
ぽかんとしているぼくに対して美津亜ちゃんはひとしきり笑うと指の端で目尻の涙を拭い、悪戯っぽい上目遣いになった。
「――そっちこそ一緒にディズニーランドへ行ってくれる約束はちゃんと覚えている?」
少し照れくさそうにそう聞いてくる。ぼくはひたすら首をぶんぶんと縦に動かした。
そしてミゾロギさんの最後の言葉を思い出していた。
〝ちょっとしたお礼〟ってこのことだったのか。美津亜ちゃんの記憶だけは残してくれていたんだ!
「なら、わたしが流時くんの家にステイしている間、必ず行こうね?」
「え? え?」
ぼくは慌てる。ステイ?
「なんのこと?」
美津亜ちゃんはきょとんとした顔になって、
「あれ? お父さんから聞いてない? この島の安全が確保されるまでの間、ほとんどの人が島の外で避難生活を送ることになっていて、真知ちゃん、おばあちゃん、わたしはお父さんのご厚意で流時くんのおばあちゃんの家でお世話になる予定なんだけど」
「……」
呆然。
「迷惑?」
「そんな訳ない!」
つい大声になる。
「いつまでだって、いてくれていいよ――」
なんか嬉しくて、ほっとして、意外で、泣きそうにさえなってしまう。
「えへへ」
美津亜ちゃんはちょっと迷う表情を見せた。多分、見間違えじゃなく少し赤くなっている。
「なら」
恥ずかしいからか、顔は横を向けている。
「誓いの握手」
ただ手だけは真っ直ぐこちらに向かって差し伸べてきた。
ぼくは全身に電流が走ったように背筋を伸ばした。泣き笑いになって初めてその手を握り返す。
「うん」
柔らかく、優しかった。まるで美津亜ちゃんそのもののように。
「誓うよ」
声がつい震えてしまう。
そして――。
ぼくら二人は朝日の下、お互いの手を強くつなぎあった。




