18話 全てが崩壊していく
二人で短く打ち合わせをした後、美津亜ちゃんは準備のために一階に行き、ぼくは自分の部屋に残った。
頭の中ではずっと色々な迷いと考えが渦巻いている。
本当に西符神社を目指していいのか?
バリケードで護られたこの家を抜け出す?
冷静に考えるとそれは明らかな自殺行為だった。しかも危険を冒すに値する根拠は非常に薄い。スティーブンのところに行って一体どうなるのか自分でもあまりよく分かってなかった。
それになによりも美津亜ちゃんを危険にさらすリスクを避けるべきでは?
ただあんな宣言をした以上、美津亜ちゃんは〝絶対〟について来ることだけは分かっていた。
ぼくは軽いパニックを起こしかけていることを自覚していた。今の判断はまともじゃないのかもしれない。でも、なにがあってもいいよう、とりあえず準備だけはしておこう。
自分のスマホ、お父さんのタブレット、小さな水のペットボトル、バッテリー式のヘッドランプ、申し訳ないけど池崎さんのトランクも漁らせてもらい、色々な機能がついたサバイバルナイフときっとみんなでやろうとしていたのだろう花火一式も見つけた。
(こんなものを使う機会があるとは思えないけど)
念のためそれらをまとめて放り込んだナップザックを肩に背負っていると二階の奥の部屋に集まっている大人たちの声が一層、大きくなってきた。
「あんたらダメだ! 戻りなさい! 戻りなさい!」
「いいから、家の中に入れって! 入れって! あ、ああ」
それと外からだろう。鋭い悲鳴や甲高い叫び声も聞こえる。
身の毛がよだつような思いがした。
「掴まった! 掴まったぞ!」
「言わんこっちゃない! なにやってるんだ!」
落胆と恐怖と怒りの混じったどよめきがこの家にいる大人たちの間から沸き起こった。
どうしても気になって廊下に出てみる。ちょうど部屋から出てきた山口さんと鉢合わせた。顔面が蒼白になっている。
「……島の外から来ている若者たちが今、何人か人の鎖に掴まったよ」
ぼくがなにも言わないうちに山口さんが口元を手で覆いながら話してくれた。
「結構、高齢者が一人でやっている宿とかも多くて、きっとお客さんが外に出るのを制止しきれなかったのだろうね」
そうだ。今、この島には地元の人たちだけではなく、観光客も沢山いるんだ。馴染みのない土地でいきなり情報を遮断され、得体の知れない騒ぎに巻き込まれたとしたら、とりあえず自分たちの判断で行動してみようとするのも無理はないのかもしれない。
「そういえばこの家の隣もペンションですよね? お客さんたちは大丈夫なんですか?」
ぼくが尋ねると、
「真知ちゃんの教育がしっかりしているからね。若いスタッフさんたちが何人かいてがっちりと立て籠もっているみたいだよ」
山口さんはそう請け負ってくれた。そしてぼくの肩をぽんぽんと叩くと忙しなく階段を降りていった。
入れ違いに二階に上がってきたのが美津亜ちゃんだった。こちらは驚くほど強ばった顔をしている。
「え? どうしたの?」
最初は外の騒ぎを聞いて不安な気持ちになっているのかと思ったけど、どうもそんな感じではなかった。泣きそうな、今にも叫び出しそうな表情で、
「おばあちゃんの様子を確かめに行ったの。ここを出る前に」
「うん? で?」
美津亜ちゃんは突然、唇を噛んだ。それ以上、なにか一言でも口にするのが辛いようだ。
目の合図だけで〝ついてきて?〟と伝えて、階段を降りていく。ぼくは不安な気持ちで彼女の後を追いかけた。美津亜ちゃんがここまで動揺しているのは初めて見たからだ。
一階の渡り廊下を渡った離れのような部屋の前で美津亜ちゃんは立っていた。
「ここがおばあちゃんの部屋」
扉の上部にステンドグラスがはめられている。カラフルなガラスが組み合わさり、花と月と鳥が可愛らしい意匠で彩られている。
「おばあちゃんの趣味。おばあちゃんが自分で作って自分ではめ込んだの」
美津亜ちゃんが簡潔に教えてくれる。そして中に向かって呼びかけた。
「おばあちゃん。聞こえてる?」
「んーんー、たら、たら」
ぼくは扉に顔を近づけ、耳を澄ませた。どこか遠くで鼻歌のようなモノを歌っている声がする。
(いや)
不吉な予感がした。
(呻いている?)
まさか室内で体調でも崩しているのだろうか?
美津亜ちゃんは扉のノブを何度も回した。
「おばあちゃん、中から鍵をかけてる。で、声をかけたら最初は普通に話してくれたの。でも、だんだんと喋っていることが変になっていって」
彼女の目からみるみると涙が溢れ、それが頬を伝わっていった。
それでもドアノブを回し続ける。
がちゃ。
がちゃ。
「最後はずっと〝呼ばれている。呼ばれている。お山に呼ばれている〟ってげらげら笑いながら言っていて」
身体中にアラートが走った。今までで最大級。全身が痺れるくらいの悪寒を感じた。
今、ふと思ったのだ。
あの外を徘徊している手つなぎ鬼たち。
その起点となった一人は一体どのようにして発生したのだろう?
その最初の一人が存在しなければ人の鎖は生まれ出ないはずだ。
今までずっと手つなぎ鬼たちを外に遮断してバリケードを築いていれば中は安全だと信じ込んでいた。だけど、もしそうでないのだとしたら?
強固な砦の内側、身近な人たちからも手つなぎ鬼の最初の一人が発生するのだとしたら――。
その場合、セーフティーゾーンだったはずの家はもっとも恐ろしい閉鎖空間へと変わる!
「おばあちゃん! おばあちゃん!」
「ん~ん~たらたらった」
歌声が扉に近づいてくる。
「美津亜ちゃん! 美津亜ちゃん! ダメだ!」
ぼくは美津亜ちゃんの身体に手を回して必死で彼女をドアの前から引き剥がそうとした。それでも美津亜ちゃんはもがき、暴れ、ドアノブを回して部屋の中に入ろうとする。
もしかしたら自我を失って徘徊したあの大徳屋さんの失踪事件もこの恐ろしい現象の前触れだったのかもしれない。
そんな思いつきが頭をかすめたその時。
ばん!
ぼくと美津亜ちゃんが凍りついたように見守る中、ステンドグラスに大きく広げた手が叩きつけられた。
ばん。
ばん。
ばん。
乾いた異音と共に何度も、何度も手形がカラフルなガラスに浮かび上がる。それと同時にどこか遠くからくぐもった怒号や悲鳴。ドタドタと乱暴な足音やなにかがぶつかるような軋みが伝わってきた。
そして誰かの叫び声。
「逃げろ!」
そこだけは小さいけど、はっきりと聞こえた。
「逃げろおおおおお!」
それは自分たちに向けられた警告ではなかったかもしれない。だけど、固まっていたぼくをはっと我に返らすにはじゅうぶんな力を秘めていた。
恐らく二階かどこかでも手つなぎ鬼が発生しかけているんだ。全身に狂おしいほどの寒気が走る。
「逃げよう! 美津亜ちゃん!」
ぼくは懸命に訴えた。
「でも」
美津亜ちゃんは呆然としたまま背後を振り返った。手形はずっとステンドグラスに押しつけられている。まるでそのまま力尽くで押し破ろうとするかのように。
「おばあちゃん」
ぽろっとまた涙が美津亜ちゃんの頬を伝っていく。
「手がとっても痛そう」
ぼくは一瞬だけ全ての抵抗を止めて、このままずっと美津亜ちゃんに寄り添ってあげたくなった。それだけ美津亜ちゃんが可哀想だった。だけど、それはできない。
美津亜ちゃんのおばあさんもきっとそんなことは望んでいない!
「美津亜ちゃん!」
ぼくは彼女の肩を両手で掴んで揺さぶった。
「おねがい! 必ず! 必ずぼくがなんとかするから! ぼくを案内して! ぼくを神社まで連れてって! 美津亜ちゃんはぼくの専属ガイドなんでしょ!」
想いをぶつける。
「お願いだから一緒に走ってよ!」
ぼんやりとしていた美津亜ちゃんの焦点がすうっと合ってきた。
「うん」
美津亜ちゃんは指先で涙を拭く。何度も、何度も頷いた。
「うん」
そしてぼくを見た。はっきり力強く頷く。
「いこう」
ちらっと一瞬だけ後ろを見て、
「おばあちゃん、ごめんね。あとで必ず」
そう呟き、駆け出した。ぼくは慌てて彼女の後を追いかける。
「ちょ!」
どこに行くの?
そう問いかける前に美津亜ちゃんが叫んだ。
「台所! 子供しか通れないような小さな通気口がある!」
なるほど。美津亜ちゃんは最初からそれを織り込んでいたのか。ぼくらは廊下を曲がり、台所の前に立った。閉じていた引き戸を開く。
そこで――。
「!」
息を吞むような光景を目の当たりにした。立っていたのは美津亜ちゃんのおばあさんくらいの年代の女性とさっきも居間で会った赤ちゃんを抱っこした若いお母さん。
きっと親子なんだろう。
体格がとてもよく似ていた。
二人は揃ってこちらを見てきた。美津亜ちゃんが声にならない悲鳴を上げている。
ぼくの視界にも飛び込んできていた。
その二人の女性は指先を絡めるようにして手をつないでいるのだ。もう手つなぎ鬼と化しているのは一目で分かった。ただおぞましいのはそれだけではなかった。
若いお母さんはあろうことかもう片方の手で抱っこひもに収まった赤ちゃんの小さな手を握っていたのだ。さっきまですやすや眠っていたはずの赤ちゃんがキロっとこちらを見てくる。
自由になっている紅葉のように小さなピンク色の手をユラユラとこちらに伸ばして、
「きぃぃあああああああああああああ!」
甲高く鋭く叫んでいた。
同じタイミングで二人の女性が無表情にこちらにくねり寄ってきた。視線がそれぞれ明後日の方向を向いているのが心底、恐ろしい。
ただ赤ちゃんだけが目を冷え冷えと光らせてこちらを見ている。
その小さな手を差し伸ばしていた。
「うわああああああああ!」
ぼくは反射で動いていた。凝固している美津亜ちゃんの腰元に手を回すと自分ごとステップバック。台所から飛び退く。廊下に出ると同時に全力で引き戸をまた閉めた。自分でも驚くくらいの神がかった反応ができた。
「美津亜ちゃん! しっかりして!」
どん、と引き戸に衝撃が走った。女性たちがぶつかったのだ。どん、どん、と体当たりが繰り返されていく。さらに玄関の方から叫び声が聞こえた。
「こっちだ! 早く! こっちに来い!」
美津亜ちゃんはその声で我に返ってくれた。見ると山口さんの息子さんが玄関に積まれた家具やケースを懸命に脇へのけているところだった。
バリケードを解体し、外に出られるようにしているのだ。ぼくと美津亜ちゃんも駆け寄り、息子さんの加勢をする。
「ちくしょう。ちくしょう」
息子さんが何度も呻いていた。前を塞いでいた障害物をあらかたどかして、あとは大きなタンス一つになったそのタイミングで、
「ああ」
後ろを振り返った息子さんが絶望の声を漏らした。ぼくも美津亜ちゃんも見てしまった。階段から手つなぎ鬼のグループがゆっくりと降りてくるところだった。しかも今まで見たことないくらい気持ち悪い絡み方をしている。
恐らく大混乱のさなか、狭い空間の中で次々と手をつないでいってしまったことが原因なのだろう。
先頭から三番目以降の人が互い違いになったり、身体を反らせたり、足と手が交差したりして全体で球形のように膨らんでいるのだ。
無理な姿勢がたたって一部の手や足が痙攣したように動いている。
姿勢が上下逆の人さえいた。
歪な人間の積み重なり。それは胴体が異様に膨らんだ蛇を思わせた。
「おやじ」
息子さんが怒りと悔しさが交ざった表情で言っていた。
先頭に立っているのは山口さんだった。
ぼくらのために囮になってくれた勇気があり、優しかったおじさん。
そんな山口さんが見る影もなく虚ろな目になって立ち尽くしている。そしてこちらを認めてゆっくりと手を伸ばしてきた。
それと呼応するようにばん、とひときわ大きな音を立てて台所の引き戸が弾け、倒れ、中から女性二人がぬらあっと出てきた。
あかちゃんも手を伸ばしている。
二つの手つなぎ鬼は折り重なるようにしてこちらへ進んでくる。
「ちくしょう」
山口さんの息子さんが呟く。
ぼくは死に物狂いでタンスと引き戸の間に身体をねじ込もうとしていた。
だけど、きっと大人が数人がかりで運んだであろう桐のタンスは焦れったいほどゆっくりとしか動かない。もう絶対に間に合わない!
絶望で目の前が真っ暗になったその時、ぐいっとリュックの中になにかを突っ込まれた。
「頼んだぞ。代わりに助けを呼んできてくれ」
それは山口の息子さんだった。そのまま靴置きスペースを飛び上がると、
「おらああ! オヤジ! 正気に返れや!」
そう叫び、すごい勢いで廊下を駆け抜け、自らの父親に向かって身を投げ出すようにして突っ込んでいった。
その勢いは凄まじく二本の人の鎖は互いにもつれ合い、一つに絡み合い、何人かが倒れ込む。その人たちにもみくちゃにされ、呑み込まれながら息子さんが絶叫した。
「おまえたち! 早く逃げろおおお!」
ぼくは泣きながら踵に力を込め、背中でタンスを思いっきり押した。同時に美津亜ちゃんも体重をかけて横に引っぱる。
その瞬間、ぼくたちくらいならなんとか通り抜けられるくらいの隙間がわずかに生まれる。
まず美津亜ちゃんは機敏にそこに潜り込み、引き戸を開けて外に飛び出た。ぼくもそれに続こうとしてぎょっとした。
担いでいたリュックが引っかかって上手く通過できなかったのだ。背後からなにかがゆっくりと近づいてくる気配がする。ぼくがパニックになりかけたその時、美津亜ちゃんがぼくのリュックの肩紐を両手で掴むと思いっきり引っぱってくれた。
それでなんとか二人揃って玄関先に転がり出ることができた。
押しつぶされそうな恐怖と急激な運動のせいで息が苦しい。早く逃げなければならないのに立ち上がることさえままならなかった。
そして外には既に別の手つなぎ鬼が待ち構えているのではないかと内心で恐れていたけど、その懸念はもっと悪い形で現実になった。
雨がすっかりと上がったこの辺り一帯から悲鳴や叫び声が聞こえてくるのだ。
どうやらぼくらと同じように立て籠もっている家屋の内部から逃げ出した人たちが次々と手つなぎ鬼たちの餌食になっているらしい。
狙うべき獲物が多過ぎて、ぼくたちだけには構っていられないのだ。
「――この島はもう」
ぼくは咳き込みながら呟いていた。
その時、がたり、と音がしてぼくと美津亜ちゃんは身をすくめて背後を振り返った。見ると玄関の引き戸からものすごく無理やりな角度で逞しい二の腕だけが突き出ている。それがピクピクと指先をくねらせ、ぼくらを探すように蠢く。
手首のブレスレットから分かった。
それはさっきぼくたちを庇って自ら手つなぎ鬼の中へ飛び込んでいった山口の息子さんの手だった。きっと後ろがつっかえて全体が出てくることができないのだろう。
リュックサックを前に回してさっきその息子さんが渡してくれたモノを確認する。
それはトランシーバーだった。
きっとなにかの希望を託されたんだ。
「……行こう」
美津亜ちゃんが硬い声で言った。ぼくと同じようにずっと涙を流していた。
「うん。行こう」
身震いをしながらぼくはゆっくりと立ち上がった。見上げれば月が出ていた。
この島は。
手つなぎ鬼の島になった。




