16話 混迷
「だいじょうぶ?」
不安そうな声。
「ねえ? どうしたの?」
ぼくはゆっくりと意識を回復した。
「……ん」
まぶたを開く。目の前に美津亜ちゃんの顔がアップで映っていた。その長いまつげも目の奥の不安そうな輝きも間近で見えて、
「わ!」
思わず仰け反ったら後頭部を壁らしきものにひどく打ちつけた。
「いたああ」
涙が出るほど痛かった。頭を抱え、
「うー」
そう唸ったら、
「だいじょうぶ?」
美津亜ちゃんがすがりついてきて、
「だいじょうぶ?」
オロオロしたようにぼくの頭を膝の上辺りに抱きかかえ、ぶつけた後頭部を手の平で撫でてくれた。
ぼくは、
「だいじょうぶ。だいじょうぶ」
そう繰り返し、立ち上がった。触ってみると後頭部にはすでにたんこぶができている。目をパチパチさせる。ずれかけていた眼鏡の位置を直すと、視界がすうっとクリアになっていく。
「……」
脳が状況を理解できなくて、ぼくはフリーズしていた。
目の前にはぺたんと座り込んで不安げにぼくを見上げている美津亜ちゃん。そして畳敷きの床。型の古いテレビ。手結島が映ったカレンダー。床の間の大量のぬいぐるみ。
天井には明るいLEDの光。
ぼくはいつの間にか美津亜ちゃんの家の自分たちにあてがわれた部屋に戻っていた。
「え?」
声が出る。
「ゆめ?」
さっきまでの出来事は全部ぼくが見た悪夢?
「いや、ちがう」
そこでぼくは首をぶんぶん横に振った。
「そんな訳ない。夢なんかじゃない。ぼくは確かに車に乗っていて」
「ねえ」
美津亜ちゃんは心配を通り越して、少し怯えるような表情になっていた。
「ほんとうに……だいじょうぶ? どうしたの?」
その時、ようやくぼくは美津亜ちゃんの服が最後に記憶していた時と違っていることに気がついた。青いワンピースではなく白い短パンと黄色いTシャツ。それに濡れていたはずの髪もだいぶ乾いている。
どこからが夢?
どこまでが現実?
またぼくの中で考えが揺れ動く。
「ごめん」
だから、正直に言った。
「ちょっと記憶が混乱していて……えっとぼくたち、車に乗っていたよね。それで真知さんが急ハンドルを切って、木かなにかにぶつかって……そうだよね?」
美津亜ちゃんははっきりと頷いてくれた。もう一度、後頭部のたんこぶに手をやる。きっとこれはその時、どこかにぶつかったんだ。
(とりあえず変な夢を見ていた訳ではないみたいだけど)
そう確認できたけど、それと同時に虚ろな目で手をつなぎ合っている手つなぎ鬼やあの家に取り残してしまったお父さんたちのイメージが頭に思い浮かんで暗い気持ちにもなった。
「それで真知さんは? それと珠紀ちゃんは?」
「……」
美津亜ちゃんは不審げにまた首を傾げたけど最終的には答えてくれた。
「診療所に連れていった。土方さんが」
「え? 土方さんってあの、酒屋で神主の息子さん? スティーブンと一緒にいたあの人?」
びっくりすると同時に頭がひどく混乱した。
「――なんで?」
土方さんは一体いつ現れたんだ?
そのとたん、美津亜ちゃんはぼくの服の裾をぎゅっと握った。そして下方向へとぼくの身体を引っ張り下ろすと、よろめき、畳に膝をついたぼくの顔を黙って真剣な顔つきで覗き込んでくる。
きりっとした眉をひそめ、
「……」
ドキドキしているぼくをおかまいなくじっと観察した後、
「ふざけている訳じゃないのなら……やっぱりあの時、頭を打ったの? 今から車を出して診療所いく? 今なら連れてってくれる人いるから」
そこでぼくはようやく気がついた。
一階の方から人の話し声や物音が聞こえる。ただ美津亜ちゃんは全く気にしていないし、なにかが切迫している感じでもない。
なんとなくご近所の人たちが寄り合っているような雰囲気だ。
ぼくは美津亜ちゃんのキレイな眼差しに耐えきれず、少し横を向きながら訴えた。
「ごめん。一度、とにかくなにがあったか詳しく教えてくれる? 事故があった後。その方が記憶、早く戻ると思うんだ」
美津亜ちゃんは大きく一度、頷いてから語ってくれた。
それは小泊美津亜風の時系列や流れが分かりにくい喋り方だったけど、今ならある程度、頭の中で補完しながら聞くことができた。
まずあの時の事故で真知さんが運転席に叩きつけられ、気を失ってしまったのだそうだ。エアバックはちゃんと作動したもののそこに横顔を埋めたまま、ぐったりと目をつむっている。
一方、珠紀ちゃんは右肩の辺りを強く打ったらしく、そこを押さえながら火がついたように泣いていた。
美津亜ちゃん自身は軽い打ち身くらいで済んだものの恐怖と混乱でパニックに陥りそうになっていたのだそうだ。
そんな中、後部座席の足下へ転がり落ちてしまっていたぼくが突然、何事もなかったかのように起き上がってきた。
そして珠紀ちゃんや真知さんの様子を確かめるとテキパキと応急処置らしいことをして、驚いている美津亜ちゃんを尻目に、
〝もうじき助けが来ると思う。車道の方に行ってみる〟
そう告げて一人で車の外に出て本当に五分も経たないうちに偶然、車で通りかかった土方さんを呼び止め、連れてきたのだそうだ。
土方さんはぼくたちを発見して驚き、自分が運転してきた車(真知さんが運転していたミニバンはそこに置いてきた)に真知さんを含めみんなを収容してすぐに診療所に向かってくれた。
軽傷だったぼく(診察はなぜか拒否したのだそうだ)と美津亜ちゃん(おばあさんの安否が心配だった)はこの家の前で降ろしてもらった。
「真知さんは? それに珠紀ちゃんの具合はどうだったの?」
その問いに美津亜ちゃんは、
「真知ちゃんは土方さんが来たくらいのタイミングで意識を取り戻していた。受け答えもしっかりしていたけど、ただ首がすごく痛いって言っていたから多分、むち打ち症ってやつみたい。珠紀ちゃんは肩を打ったみたいだけど、そこまで大事じゃなさそう。一応、念のため先生に見てもらうって」
「そっか……よかった」
とりあえず二人の無事を聞けてほっとはしたけど、本当にその過程がなにひとつ思い出せない。目線を畳に落とす。
そんなぼくの様子を見て取ったのか、
「土方さんは二人に問題がないようだったら、すぐにこっちへ戻ってくるって。そして怪我した真知ちゃんに代わって流時くんのお父さんや池崎さんの救出に行ってくれるって」
ぼくは顔を上げる。美津亜ちゃんは頷きながら、
「あと一階に集まっているおじさんたちも人手が必要なら貸すよって」
「おじさん、たち?」
そこで美津亜ちゃんは現在の状況も教えてくれた。今、この地区ではすでに様々な情報が共有されていて、安全のため幾つかの家に分散して人が集まっているのだそうだ。
幸いまだ手つなぎ鬼たちは近くに現れていないけど、原因不明の通信障害がさらに酷くなっていて本土とは全く連絡が取れず、他の地区の様子もあまりよく分かっていないらしい。
とりあえず島のあちらこちらで人がおかしくなっている、というのが付近の住人たちで共有された認識みたいだ。
この家にもご近所の人たちが集まっていて、窓やドアにバリケードを作ったり、他の地区で孤立しているであろう人たちの救出計画を練ったりしている。
美津亜ちゃんのおばあさんはそんな状況下で、少しでもみんなの力になろうと夜食作りを張り切っているのだそうだ。
そんな前線基地みたいな場所がこの地区には幾つか点在していて災害用のトランシーバーを頼りに互いに連絡を取り合っている。
「そうか……」
とりあえず大人たちが早めに動いてくれているみたいでその点はほっとした。
「ねえ」
美津亜ちゃんはもう一度、心配げに尋ねてきた。
「やっぱり記憶は戻らない?」
ぼくは痛む後頭部を触りながら頷く。
「うん」
いまさらだけど自分も美津亜ちゃんと同じように服を着替えていたことに気がついた。
(記憶を失っている間に自分でやったのかな?)
心にモヤのようなものがかかっている。落ち着かないのは確かなんだけど、不思議なことにそこまで不安ではない。
ぼくはふと池崎さんの言葉を思い出していた。
あれは確か行方不明になった大徳屋さんを見つけた話をしていた時だった。
解離性遁走。
強烈なショックを受けて、記憶を失ったまま、自分が自分でないような動きをする症状。
それがぼくの身の上にも起きたんだろうか?
(あれ……)
ぼくははっとした。
(そういえば昔、同じようなことがあったような気がする。もっと小さかった頃)
池崎さんは話の終わりになぜかなんとも言えない表情でぼくのことを見ていた。もしかしてお父さんからなにか聞いていたのかな?
思い出せそうで思い出せない。もどかしい。その時、美津亜ちゃんが少し薄目になって言ってきた。
「なら、アレも忘れちゃったのかな? あの言葉」
「え? あの言葉ってなに?」
「〝大好きな美津亜ちゃんのことはぼくが必ず護るから、心配しないで。大丈夫だよ〟って流時くん優しく言ってくれたのに」
「え? え?」
思いっきり動揺するぼく。
そのとたん美津亜ちゃんがぷっと吹き出し、くすくすと笑い始めた。それでぼくは色々と察した。溜息と共に肩を落とす。
「それ、思いっきりウソでしょ?」
「うん。ものすごいウソ」
おかしそうに口元を押さえている美津亜ちゃん。それから肩を震わせ、悪戯っぽい調子は残しつつも少し真面目な口調で、
「なら、もう一人の流時くんには伝えたけど、改めてちゃんと言うね?」
少し照れくさそうな表情になって首をすくめながら視線を逸らす。
「助けに来てくれてありがとう。本当に嬉しかった」
きっとそんなストレートな言葉を投げかけるのが気恥ずかしくてふざけ半分にしたんだろう。
「い、いや。ぜんぜん、大したことじゃないよ」
ぼくは動揺しつつもう一人の自分(?)がそんなことを言っていなくて本当に良かった、としみじみ思っていた。
(万が一でもそんなかっこつけた言葉を言うのなら、ちゃんと自分が覚えている時にしたいからね……大好き、とまでは多分つけないと思うけど)
美津亜ちゃんがさらに重要なことを言う。
「なら、多分だけど、流時くん、わたしたちが二階に上がってきた理由も覚えてないのかな? 流時くん、なにかタブレットに届いているって言ってったよ」
「タブレット? なにが届いているの?」
美津亜ちゃんは〝さあ?〟というように大げさに肩をすくめてみせる。
「タブレットって……お父さんのだよね?」
昨夜、ぼくはそれを使ってこの島に関して色々と検索した。
心にざわっとしたものが走った。お父さんの旅行鞄からタブレットを取り出しながら落ち着かない気持ちで言った。
「ナニか届いているって……自分で見たわけでもないのにそんな予言めいたこと言ったの?」
「うん」
美津亜ちゃんが小さく頷いた。
「流時くん。それだけ言って二階に上がっていってこの部屋に入った途端、首を落としてぺたんと座り込んじゃったの」
その瞬間、意識が切り替わったんだ。今のぼくの主観では。
「流時くん。ずっとニコニコハキハキしてたけど。今から思うとなんかちょっと怖かった」
美津亜ちゃんが声を潜めた。
「うん。なんか怖くもあった」
「……」
ぼくは無言でタブレットを立ち上げ、中を覗いてみた。見覚えのあるアプリの中にいつの間にか全く見覚えのないフォルダが一つ混ざっている。
『鎮護:国家:大安:衰退:神事:管理』
そうタイトルにある。ぼくの真横からタブレットを覗き込んでいた美津亜ちゃんが、
「字が変になっていて読めないね」
そう呟いた。ぼくは〝美津亜ちゃん、なにを言っているんだろう?〟と訝しく思いながら、気になってそのフォルダを開いてみる。幾つかの画像。それにテキストファイルが中に入っている。その一番上に、
『厳重:必ず最初にお目通しください』
というタイトルのテキストファイルがあったので今度はそれを開く。
「これも思いっきり字がおかしいね」
その言葉にはぼくも頷いた。確かに一部の文字が文字化けしていて文章が読みづらい。ただ、なんともならないほどではなかった。
一部、読める部分を頭の中で補完しながら読んでいく。
『この管理ファイルを読む有資格者は1:二週間以内に人を殺していない。2:一神教の司祭、またはそれに準じる役職ではない。3:魔と厄と異の文字に特定のアレルギー反応を持たない』
なんだこれ?
『本朝は衰退し、減少した人口が……(読めないパートが続く)……ゆえに這い出た〝彷徨える神〟たちが……(また読めないパート)……鎮護鎮霊の協力を特務局エージェントに求められた場合』
読みづらすぎてだんだんと頭が痛くなってきた。ぼくは一度、テキストファイルを閉じ、画像ファイルを見ることにした。
一枚目。
夏らしい入道雲を遠景から撮っている写真。よく見るとその中央にぽっかりと穴が空いている。さらによく見るとその中に巨大な目玉と爪と細長い舌が見えている。
二枚目。
同じく写真。高層ビル。壁面を覆い尽くすほど白いツタが巻きついている。いや、ツタじゃない。全部、白い手や腕だった。無数の花のように見えるのは赤い顔。それぞれ苦悶の表情を浮かべている。
三枚目。
同じく写真。色々な場面。飲食店。廃墟。繁華街。そこを這う十メートルくらいはある巨大な黒い芋虫。多分、人の髪がよりあわさったモノ。表面に人間の目、鼻、口、小さな手がデタラメな大きさで生えている。
そこで限界が来た。
ぼくはうっと口元を押さえ、立ち上がり、部屋を飛び出した。
「どうしたの!」
背後で美津亜ちゃんが叫んでいるけど答えている余裕はなかった。ぼくは二階のトイレに飛び込み、げえげえ胃の中身を吐いた。間一髪で間に合った。えづき、肩を震わせ、残っているモノを全部、便器にぶちまける。
それと同時に、
(なんてものを見せるんだよ!)
誰とも知らない存在に対して激しい怒りを覚えていた。
あれは……。
きっと人があまり見ちゃいけないモノだ。
「だいじょうぶ? だいじょうぶ?」
いつの間にか美津亜ちゃんがトイレの中に現れてぼくの背中をさすってくれていた。
苦しくて仕方なかったけど、ぼくは内心で変な感心の仕方をしていた。
(ふつー、人が吐いている姿、特に男の子が吐いているのなんか見たくないよな)
本当に良い子だよな。
ぼくはとりあえず気恥ずかしくて一度、レバーを捻って水を流し、トイレットペーパーで口元を拭い、鼻をかみ、それもまた便器で流して大きく息をついた。
ようやく少し人心地がついてきた。それでも、まだ頭がガンガンと割れるように痛い。
「……」
美津亜ちゃんは黙ってこちらを見つめている。その目は心配そうでもあり、不安そうでもある。ぼくは最初にどうしても確認しなきゃならないことを口にする。
「美津亜ちゃん。大事なことなんだ。もしかして、あのファイルの中身、文章と画像、少しでも理解できたりした?」
美津亜ちゃんは首を横に振る。
「全くなにも。ぐちゃぐちゃの文字と真っ黒や真っ白な画像にしか見えなかった。わたしには」
「そっか……」
かなりほっとした。恐らくアレはなにかの適性がないとそもそも読むことも、見ることもできない仕様になっているのだろう。美津亜ちゃんは少し恐れるように言う。
「流時くんは……あのファイルになにか見えたの?」
ぼくは答えて良いのか迷った。大前提としてあのファイルの意味や意義を自分がどこまで理解できているかは心許ない。それでも感覚的になんとなく分かっていることが一つある。
「アレは」
ぼくは喉の奥から声を絞り出した。
「きっとアレは彷徨い出てきた古い神さまたちとその対処マニュアルみたいなものなんだと思う」
「神さま?……マニュアル?」
美津亜ちゃんは目を泳がせている。ぼくがあまりにも意味不明なことを言っているので、すごく当然の反応だとは思う。
美津亜ちゃんは怯えや戸惑いにほんの少しだけど憧れや好奇心が入り交じった眼差しでこちらを見つめてきた。
「……流時くんって超能力とか、霊能力の人だったの?」
「ちがう、と思う。いや、よく分からない」
なんとなく自信なく答える。
「でも、なんだか分からないけど、あのファイルだけは読んでいるうちに少し意味が分かったんだ」
それから自分たちが今、並んで座っている場所が急におかしく感じられてきた。
「美津亜ちゃん。とりあえずいったん出ようよ。変だよ。二人でトイレにいるの」
その事実に美津亜ちゃんもいまさら気がついたようだ。くすくす笑って、
「そうだね」
二人で個室から出た時、
「美津亜ちゃん! 石川くん! ちょっと下に降りてきてくれないか?」
一階から誰か大人が呼んでいる声が聞こえた。
「診療所にいる土方くんから連絡があった! 君たちと話したいって」
ぼくと美津亜ちゃんは顔を見合わせた。




