15話 脱出
美津亜ちゃんの居場所に一応の見当がついてぼくたちの間に活気が湧いてきた。気が抜けたように座り込んだ真知さんと入れ替わりで珠紀ちゃんが立ち上がり、おでこを窓ガラスにくっつけ、呟く。
「美津亜ちゃん……」
だけど、すぐに首を引っ込め、怯えたようにまた真知さんに抱きついた。ぼくはその理由にすぐに気がついた。
ぼくと同じように外の景色を眺めていた池崎さんが呻いた。
「うげえ。まじかよ……」
果樹園を横切るように、家の物陰から滲み出るように新たに人の鎖が二本、この集落に現れていた。それぞれ四人と五人が手をつないでいる。
ぼくは思わず強く目をつむってしまった。
その二本の人の鎖がうねりながら真っ直ぐこちらへ向かっているのを目の当たりにしたからだ。
情けない話だけど、意識のない操り人形みたいな人たちが手をつなぎ、くねくね近寄ってくるのを見続けるのは精神的に無理だった。
珠紀ちゃんみたいに他に人に抱きついたりしないのがギリギリだ。
「あいつら、こっちに向かって来ているのは俺たちを捕まえて仲間にするためなんですかね?」
池崎さんが引きつったような声で誰にともなく聞いている。後ろから、がたん、ごとん、と音が大きくなっていく。
「ゾンビ。いや、手つなぎ鬼だな……まるで」
お父さんがそう答えると、
「手つなぎ鬼?」
真知さんが救いを求めるように会話に参加した。
「それってどういう現象なんですか? なにかこの件でご存じなんですか?」
「現象? ああ、いやいや。そんな大仰なものではなく、単なる昔の遊びですよ。真知さんはお若いからご存じないのかな? 鬼ごっこの変形で、掴まった人が鬼と数珠つなぎになっていき、どんどんと鬼の仲間になっていくっていう子供の遊びです」
ぼくも知らなかった。
「そういえばむかーし、児童館とかで一度、やりましたね」
池崎さんが吐き捨てるように言った。
「子供だから楽しくキャッキャできたけど、大人がやると実に醜悪で気持ち悪いものですな」
「ああ」
お父さんが鋭く言った。
「……この家に入ってくるぞ」
ぼくはたまらず窓枠を握る手に力を込めた。
その時だ。
ぱっぱああああ。
ぱっぱああああああ。
大きなクラクションの音が辺りに鳴り響いた。ぼくは反射的に目を見開いた。
お父さんと池崎さんはすでに事態を把握していて、
「なんだ?」
「誰が乗っているんだ?」
驚いたような、興奮したような声を上げていた。ぼくも必死で外の景色に目をこらし、理解した。
「山口さん!」
ぼくの隣に立った真知さんが息を吞んでいた。
ついさっき人の鎖に掴まってしまったおじさんが運転してきたトラックに山口さんともう一人の髭の若い男の人が乗っていて、クラクションをメチャクチャに鳴らしているのだ。
「なんだ、なにをしている?」
「おい! あいつら向こうに寄っていくぞ!」
見ればこの家に近づいてきた二本の人の鎖と最初に姿を見せたグループが、まるで誘蛾灯に誘われる虫のようにそちらへヌルヌルと這い寄っていく。トラックはクラクションを鳴らしながらゆっくりと移動を開始した。
得体の知れないモノたちが接近し来ているのに決して急発進しない。
「――もしかして」
お父さんが呟くのをぼくが引き取った。
「囮になってくれているんだ!」
きっと山口さんたちはどこかに上手く隠れていたんだろう。そして隙を見て、無人になったトラックに乗り込んだ。だけど、単にここから逃げ出すだけじゃなく、ぼくたちの窮状を理解して、わざと大きな音を立てて手つなぎ鬼たちを引きつけてくれているんだ。
こんな異常な状況の中、普通、できることじゃない。
「あのおじさん、えらい男前じゃんか!」
池崎さんが手の平を拳に打ちつけ、感心したように叫んだ。
「山口さん……いい人だから」
真知さんは心配半分、嬉しさ半分の声で言った。ぼくらが見守る中で、トラックはのろのろと運転しながら公道を移動し、木々の中へとゆっくり消えていった。しばらく間を置いて三本の人の鎖もその後を追いかけていく。
お父さんが思案げに呟いた。
「これで残りは最初からトイレにいたやつら……いや、人たちだけだな」
そう丁寧な表現に訂正する。背後からは休むことなくずっと、どん、どん、と物音が鳴り続いている。他の手つなぎ鬼たちと異なり、どうやらクラクションの音に惹きつけられなかったようだ。
(獲物が……ぼくたちが間近にいるからだろうか?)
池崎さんが手を振るって主張した。
「あのおじさんたちの好意を無駄にはできないですよ。このタイミングで僕たちも脱出しないと!」
「でも、どうやって」
真知さんが口を挟んだ。
「二階から雨樋でもなんでも伝って降りましょう! 車にさえ乗っちゃえばこっちのもんです! 珠紀ちゃんは僕が背負って降ります!」
「でも」
真知さんはまだ迷っているようだ。なんとなく分かる。真知さんは自分のことじゃなく、珠紀ちゃんや他の人たちのことを心配しているんだ。
外の景色をずっと見続けていたぼくはそんな真知さんに知らせた。
「真知さん、あれ」
声が自然と上擦ってしまった。
真知さんは珠紀ちゃんを抱えながらぼくが指し示す方向を見つめた。
そこには――。
「美津亜」
真知さんの声も震え始めた。配電設備の影から青いワンピースを着た美津亜ちゃんが姿を現していたのだ。そこにいると確信はしていたけど、実際にその無事な様子を目にすると身震いするほどの嬉しさがこみ上げてくる。
美津亜ちゃんはこちらの方を向くと、左右の手でそれぞれOKサインを作り、それを頭上に高々と掲げてみせた。三秒程度、その姿勢を保った後、またぼくらから見えない位置に回り込んで身を隠す。
表情までは読み取れなかったけど、身のこなしはしっかりとしていた。
「今がチャンスだ、っていう美津亜ちゃんからのメッセージですよ。きっとずっと辺りの様子を伺っていたんだ」
池崎さんが静かに言葉を放つ。真知さんは深く頷いた。
「――分かりました。行きましょう」
今、真知さんの表情から完全に怯えが拭い去られていた。
「ただし、珠紀ちゃんは私が背負います」
池崎さんがなにか言いかけるのを真知さんは微笑んで制止する。
「大丈夫。私、こう見えて毎日、酸素の入った重たいタンクを担いでるんですよ? 珠紀ちゃん一人くらい軽いものです。大学時代はロッククライミングもしていましたし」
そう言いながら、真知さんは立てかけてあったベッドに近づき、手際よくシーツを剥ぎ取った。
それを縦に裂いて即席のロープのようにし、珠紀ちゃんをおんぶすると、自分の腰と珠紀ちゃんの身体をしっかり固定していく。
ぼくも一歩前に出て、その作業を手伝った。
ぎゅぎゅっと縛った。
珠紀ちゃんは涙ながらも何度も頷き、唇を噛むと、真知さんの首にきゅっと手を回した。小さな子がなけなしの勇気を必死に振り絞っている。それは見ていて息が苦しくなるような光景だった。
お父さんと池崎さんは一度、窓を開けて外の様子を確認しながらなにか手短に話し合っていた。そしてお父さんがぼくらを振り返り、言う。
「分かりました。では、真知さん、珠紀ちゃんを連れて二番手で出てください。流時」
お父さんは強く命令してきた。
「おまえが一番手だ。車のキーを真知さんから借りて、雨樋を伝うか最悪、飛び降りてでも一階に辿り着け。玄関の方に回り込んで車に近づけば」
そこで言葉を切って真知さんに確認する。
「さっき乗ってきた車は確か非接触タイプのキーでしたよね?」
真知さんが頷くとお父さんは続けた。
「だとしたら、勝手にロックが解ける。そして中に入ったら運転席辺りの鍵マークのボタンがあるからそれを押してロックをかけて絶対に出てくるな。鍵を開けていいのは次の人が来たときだけだ」
「石川さん……」
真知さんが困惑したように眉をひそめるが、お父さんは断固として首を横に振った。
「こいつが一番、身軽で、一番、物事が分かってます。な? そうだよな、流時?」
ぼくは頷いた。
「はい!」
お父さんや池崎さんがなにをしようとしているのか自然と理解できた。
「頼んだぞ、息子」
お父さんは少し笑って、ぼくの頭をくしゃっと撫でた。それから真知さんを促す。真知さんはまだためらっていたけど最終的にはポケットから車のキーを取り出してぼくに渡してくれた。
ぼくはダッシュして開け放たれた窓に駆け寄った。霧のような小雨を顔全体に感じる。事前に確認していた通り、窓際のでっぱりを右側へ少し移動すると雨樋まで辿り着ける。
(たかが二階。そんなに怖がるような高さじゃない)
平常心を失わなければ、なんてことはない。
ぼくは一度、大きく深呼吸をすると窓枠の上で立ち上がり、濡れた縁で滑らないようゆっくりと横へ移動した。その間、心配そうにこちらを見ている大人たちと目が合った。雨樋までは辿り着ける自信があったけど、問題はその強度だった。壁から外れやしないか。支えが壊れやしないか。
触ってみる。恐らくアルミかなにかでできているのかな?
屋根から地上まで伸びている本体は大丈夫そうだったけど、それを支える金具が少し心許なかった。壁に埋め込まれた根元の辺りが錆びてもいる。
きっと体重をかければあっさりと外れてしまうだろう。
「ダメです。ぼくでもギリギリで、たぶん、大人だと支えられません」
ぼくは窓脇から身を乗り出して心配そうにこちらを見ている真知さんに告げた。真知さんは黙って頷く。同時に部屋の中から大きな声が聞こえてきた。
「翔光大学、真善流杖術愛好会、元副主将。池崎駿介、演武します。せーい! せーい!」
お父さんは酔っ払うとよく歌っている昭和の歌を熱唱しだした。二人とも家具かなにかを叩いているのかすごい騒音となった。真知さんは目を丸くして振り返っていたけど、ぼくは予め予想していたので驚かなかった。
(さっきのおじさんと一緒だ。部屋の前から手つなぎ鬼たちが離れないよう注意を引きつけてくれているんだ。ぼくや真知さん、珠紀ちゃんが無事に車へ逃げ込むまでの間)
ぼくは覚悟を決めて、今度はしゃがみ込み、窓枠を両手で掴み、そこに体重をかけながら、慎重に足を下ろした。二階から地面まではざっと四メートル。ぼくの身長は一メートル五十センチ。差し引き、二メートル五十センチ。
今、ぼくの足は地面から二メートル五十センチの高さでぶらんと宙にぶら下がっている。
下は降り続く小雨でぬかるんだ土。
(大丈夫。怪我をするような高さじゃない!)
腕が痺れ切る前に自らの意志で手を離し、落下する。さすがにその時だけは少し怖かった。ぱしゃっと泥水が跳ねた瞬間、下から衝撃が来て、踵から膝の辺りまでじいんと痺れた。
「つ」
「だいじょうぶ?」
「は、はい!」
心配そうにこちらを見下ろしてくる真知さんに無理矢理、作った笑顔を見せ、外れかけた眼鏡を元に戻すと、
「じゃあ、先、行ってます!」
小さく手を振って地面を蹴った。真知さんはこれから珠紀ちゃんを背負った状態で同じことをしなければならない。できたら手助けしたいけど、そういう訳にはいかない。
先行して安全を確認するのがぼくの役割だった。正面玄関を回り、行きに乗ってきた真知さんの車を見つける。ぼくの持っていたキーに反応してピッピッとロックが解除される音がした。
ぼくは無我夢中で助手席のドアを開け、車内に乗り込み、お父さんに言われたとおり運転席で見つけた鍵マークのボタンを押して全ての扉にしっかりと鍵をかけた。
ほんの短い距離を走っただけなのに自分でもびっくりするくらい息が上がっていた。酸素不足のせいか、視界が元に戻るまで数秒かかった。
この位置からだと雨粒がしたたるフロントガラス越しに一階玄関が見える。しっかりと扉が閉じられているとは言え、今にも手つなぎ鬼たちがそこから飛び出してくるんじゃないかとヒヤヒヤする。
ぼくは祈るような気持ちでたった今、自分が走り抜けてきた方向に視線を転じる。
(おそい! 真知さんたちなんかあったのかな?)
思わずドアを開けて迎えに行きたくなったが、我慢をした。その数秒後、珠紀ちゃんが、続いて真知さんが建物の影から現れた。
珠紀ちゃんは顔をぐしゃぐしゃに涙で歪めながらこちらに向かって駆けてくる。ぼくはドアのロックを解除し、身を乗り出して後部座席を開けた。そこへ珠紀ちゃんが飛び込んでくる。そのまま物言うことなく、シートの上でぶるぶると震えて小さく丸まった。
一方、真知さんはどうやら着地の時に捻ったのか、少し左足を引きずっている。顔がいかにも苦しげだった。
走るスピードもなかなか上がらない。
「はやくはやく」
ぼくは手を組んで無意識にそう呟いていた。だけど、真知さんがぐらっとよろめいて膝をついたところでとうとう我慢できなくなった。
助手席を飛び出し、真知さんに駆け寄り、支えになる。真知さんは驚いたようだけど、ぼくの手助けを素直に受け入れてくれた。
真知さんに肩を貸す形でぼくたちは車に戻り、それぞれ運転席と助手席に収まった。あまりにも呼吸が乱れすぎて、しばらくは二人とも会話を交わすことが不可能だった。
「あ、ありがとう」
真知さんが濡れた前髪を掻き上げながら、こちらを振り返った。安堵の笑みを浮かべている。ぼくは軽く咳き込みながら首を振る。
「い、いえ」
その時、真知さんがはっとしたような表情になった。ぼくも気がついた。
さっきまで聞こえていたお父さんたちの大騒ぎが、かーん、かーん、となにか金属と金属でも叩いているような甲高い音に変わって辺りに鳴り響いていたのだ。
真知さんが唇を噛んだ。
丸く光るスタートボタンを押し、セルの回っている音に合わせて言う。
「流時くん。ごめん。一度、ここを離れる」
「え?」
ぼくが驚いていると、
「流時くんのお父さんから言われているの。二階の窓から監視して、もし、こちらに近づいてきている別の人たち……手つなぎ鬼を見つけたら、ああやってベッドを作っていたパイプとパイプを叩き合わせて警告するって。あれはその合図。こちらに近づいてきているグループがいる」
「で、でも」
「石川さんも池崎さんも言っていたの。自分たちはあそこに立て籠もればしばらくは問題ないって。それより美津亜や珠紀ちゃんを早く安全なところに届けてくれって。おねがい!」
真知さんは必死だった。
「お父さんたちを置いてかなきゃいけなくて辛いのは分かる。でも、美津亜たちをなんとかしたら必ずここに戻ってきて、私が二人を助けるから! おねがい! 今はここを車で離れましょう!」
「……」
ぼくは一秒だけ考えた。そして顔を上げ、真っ直ぐに真知さんを見て言う。
「一つだけ条件が」
「え?」
「ここに戻る時、必ずぼくも連れてってください。お父さんと池崎さんを助ける手伝いをぼくにもさせてください!」
真知さんはアクセルを踏み、車を発進させながら笑った。
「――あなたは凄い子ね、流時くん」
全然、凄くなんかない。お父さんたちの考えも真知さんの判断も正しい、と頭で思えてしまうから。
だから、ぼくは不安と恐怖を押し殺し、お父さんたちを一時的に見捨てる選択肢に同意した。本当は両手の拳をぎゅっと握っていないと叫びだしてしまいそうなくらいだった。
ヘッドライトが点灯し、靄がかった景色に黄色いラインができる。真知さんはハンドルを切りながら、素早く家の敷地から離れ、車をアスファルトで舗装された道へと出す。
ぼくは電柱と電柱の間にまたがるように設置された変電設備を見上げた。
あそこの真下まで車をつけないと乗り込む時、美津亜ちゃんが危ない。
まだパイプとパイプを打ち鳴らす音が聞こえ続けている。
心なしか打ちつける速度が速くなっている気がする。真知さんは足が痛むのか少し顔をしかめながらアクセルを踏み続ける。先ほどは高い位置から見ていたけど、今は視界が低い。この薄暗い景色のどこから手つなぎ鬼たちが飛び出してくるか分からない。
生け垣の向こう?
小さなビニールハウスの横?
電柱の影?
ぼくは運転に集中している真知さんに代わって周囲を見回し、警戒した。
そして目的の場所である変電設備をもう一度、見上げたその時。
「美津亜ちゃん!」
思わず声に出していた。
いつの間にかそこに美津亜ちゃんが立っていた。こちらを見下ろし、微かに頷くような仕草をすると設置されたはしごを迷いなく後ろ向きで降り始める。
「行ってください!」
ぼくは叫んだ。
「だいじょうぶ。美津亜ちゃんもちゃんと周囲を確認しているはずです! 降り始めたということは間に合うということ」
それがギリギリなのかもしれない。でも、美津亜ちゃんはいける、と判断した。それを信じるしかない。
真知さんは無言で頷き、ハンドルを切る。あとは直線で二十メートルくらい。ぼくは同時に身をよじって助手席から後部座席に移り、ドアを開けるスタンバイをする。
その瞬間、気づいてしまった。
リアウインドウ越しにこちらに向かって追いすがってきている手つなぎ鬼たちが見えた。
その虚ろな表情。先頭の人が恨みがましく伸ばした白い手まではっきりと見える。
車がスピードを落とし始めたので距離がちょっとづつ縮まりつつある。
くねるように動いているのに移動速度がかなり早い。
振り返ると真知さんの真剣な目つきがバックミラーに映っていた。
「このまま! 車を止めずに!」
真知さんの声を聞いて、ぼくは頷き、ドアを開け放った。その間、美津亜ちゃんは完全に電柱を降りきり、短い距離を一気に駆け抜け、後部座席に飛び込んで来た。
ぼくはその身体をなんとか両腕で受け止め、手を伸ばしてドアをまた閉める。車は急発進する。ちらっと後ろを見ると人の鎖がどんどんと遠ざかっていった。
「美津亜ちゃん!」
ぼくは美津亜ちゃんの肩に両手を置いて不安な気持ちで尋ねた。
「だいじょうぶ? 怪我していない?」
美津亜ちゃんはこっちを見上げてきた。少し顔が泥で汚れているけど、とりあえず見えている範囲で支障はない。
(たった一人。あそこにずっと隠れて。珠紀ちゃんを守るために一人でおとりになって)
孤立した後も的確に合図を出したり、恐れることなく安全な場所から降りてきたりしている。すごい判断力と自制心だと思う。
ぼくなら恐怖に負けてどうなっていたか分からない。
「流時くん」
美津亜ちゃんの顔がくしゃっと歪んだ。大粒の涙がぽろぽろと頬を伝わる。
「美津亜ちゃん」
きっとすごく怖かったんだろう。苦しかったんだろう。そう思って胸が詰まった。そうしたら美津亜ちゃんは意外なことを言った。
「りぼん」
「え?」
「お気に入りのりぼん。柵に結わえたの、忘れてきちゃった。雨でぐしゃぐしゃになっているかも」
泣き笑いみたいな顔でそう言う。そして手の甲で涙を何度も拭った。
その言葉と美津亜ちゃんの表情を見ていたらぼくもなぜだか泣きそうになった。
「いいよう。全部、収まったら一緒にリボンとりにいこう。もしダメになっていたら、ぼく、おこづかい全部使って、新しいのプレゼントするよ」
涙を一生懸命こらえる。
美津亜ちゃんは我慢できなくなったのかぼくに抱きついて、わーと泣き出した。その細い身体が雨露でぐっしょりと濡れていた。
ぼくは涙が溢れないよう鼻の頭にしわを寄せて美津亜ちゃんの背中をぎこちなくさすり続けた。
きっと相当、変な顔になっていると思う。
後部シートに丸まっていた珠紀ちゃんが不思議そうにこちらを見てきた。
「……とにかくよかった」
運転席で真知さんがふうっと息をついた。ぼくは身をよじってリアウインドウに目を向けた。もう車は林の中にさしかかっているのでお父さんたちが立て籠もっている家は見えなくなっていた。
あのカンカンと高い金属音ももう聞こえない。
(必ず助けに戻るからね!)
心の中でそう誓ったけど、やっぱりとうとう最後には我慢しきれなくて、涙が一粒こぼれた。
ひとしきり泣いた後、現在までの状況と車が自宅へと向かっていることを聞かされた美津亜ちゃんは、
「なら、わたしも流時くんのお父さんや池崎さんを助けにいく!」
頬に流れた涙もろくに乾いていない状態でそう主張した。
「珠紀ちゃんをおばあちゃんに預けたら、すぐに引き返そう!」
真知さんはバックミラー越しに困ったような笑いを浮かべ、なにも言わなかった。
ぼくは考え込んでいる。
手つなぎ鬼は、果たしてさっきの地区だけで起こったことなのだろうか?
もし同時多発的に発生している異常事態なら、この島に安全な場所なんかないってことになる。
美津亜ちゃんのおばあさんが心配だ。当然、真知さんもそのことに気がついているのだろう。運転しながら、
「どちらにしても、ちょっと急ごうね」
アクセルをさらに踏み込んだ。
車は今、暗い林の中、ハイビームを照らして車道を走っている。ぼくはより詳細な情報が欲しくて美津亜ちゃんに手つなぎ鬼が現れた時の状況を尋ねようとした。
その時、真知さんが叫んだ。
「ちょ! なに!?」
声が耳元に飛び込む。同時に色々なことが一瞬で、そしてスローモーションのように起こった。美津亜ちゃんの目が大きく見開かれている。
振り返ったフロントガラスの向こう、黄色いライトに照らされて男の人が立ち尽くしている。その恐怖に満ちた表情がはっきりと見えた。
次の瞬間、車が横滑りし、ぼくたちの身体が遠心力で左側の座席にまとめて叩きつけられた。
真知さんが男の人をひかないようハンドルを切ったのだ。悲鳴。がん、どん。という衝撃音。身体が揺れ、上下し、激しく転がる。
恐らく車は道を外れ、林の中に突っ込み、木かなにかに激突したんだ。
朦朧とした意識の中でそれだけは理解できていた。
ただ今、自分がどんな状態になっているかよく分からない。珠紀ちゃんが大泣きしている声が耳に入ってきた。
「どうしよう、どうしよう、流時くん、真知ちゃん」
それに美津亜ちゃんの啜り泣きも聞こえてくる。起き上がらなきゃ。
立って美津亜ちゃんや珠紀ちゃんを慰めなきゃ。それに運転していた真知さんの様子も気になる。
でも、身体が鉛のように動かない。
だんだんと意識も遠ざかっていた。
そしてぼくが最後に思ったのは。
(あいつ)
事故の原因となった男の人だった。
一瞬だったけど間違いない。
あれは船でも、資料館でも会ったあのサングラスの男だった。
なんであんなところにいたんだろうか?




