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アーネム戦記外伝 目指せ!世界一の歓楽街  作者: Tanu1016


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7/9

いい男⑦ リオと白い鳥(前)

 挿絵(By みてみん)



セントハイム市競馬場を出てからも、リオの怒りは収まっていなかった。


「あのクソ駄馬……」


 何度目か分からない悪態を吐く。


 隣を歩くマルタも、いつになく険しい顔をしていた。


「最後のあの目、絶対に私たちを馬鹿にしていましたよね」


「してた。絶対してた」


「散々期待させておいて、あの走り……」


「しかも負けたあと、なんであんな堂々としてんのよ」


「金返せ、この白い悪魔」


「二度と買わない」


「二度とです」


 二人は揃って頷いた。


 今日の主競走。


 リオとマルタは、最初の競走で手にした勝ち分をゴルッシにすべて突っ込み、綺麗さっぱり失った。


 一方。


 少し後ろを歩いているロルフだけは、慎重に別の馬を選び、見事に馬券を当てている。


「あの……」


「何?」


 リオが振り返った。


 ロルフは少し迷ったあと、手にした払い戻し金へ目を落とした。


「今日は私だけ勝ちましたし、その……よければ、酒でも奢りましょうか?」


「ほんと!?」


 さっきまでの不機嫌はどこへやら。


 リオの顔が一瞬で明るくなった。


「行く!」


「お嬢様」


 マルタが呆れたような目を向ける。


「従士に奢ってもらうなど、お嬢様にはプライドがないのですか?」


「プライドじゃ酔えないよ。むしろそんなもんで酔ったら終わり」


 即答だった。


「じゃあマルタは留守番ね」


「……」


 マルタが足を止めた。


「何?」


「私もご同行しましょう」


「プライドは?」


「プライドでは酔えません。」


「一瞬で捨てたじゃん」


「捨てていません。使う場所を選んでいるだけです」


「便利なプライドだなぁ」


 ロルフが苦笑する。


「では、三人で行きましょうか」


「うん!」


「そうしましょう」


 こうして。


 白い悪魔への恨みは、酒一杯でひとまず脇へ置かれることになった。


     ◇


 夜。


 三人が入ったのは、セントハイムの歓楽街でも比較的大きな酒場だった。


 磨かれた木の床に、大きな窓。壁には絵が飾られ、それぞれの卓には小さな灯りが置かれている。


 酒場でありながら、どこか品があった。


 窓の向こうには、夜のセントハイムが広がっている。


 大通りには無数の灯りが並び、劇場から出てきた客や着飾った男女が行き交っている。これから酒場へ向かう若者もいれば、賭場へ吸い込まれていく商人もいた。


 路上では楽師が演奏し、その周囲には人垣までできている。


「しかし、綺麗な町ですよね」


 マルタが葡萄酒の入った杯を傾けながら言った。


「ね」


 リオも窓の外を見る。


「東岸一は伊達じゃないよね。酒場もいっぱいあるし、芝居も見られるし、競馬もあるし、賭け事もできる」


「後半、ほとんど賭博ではありませんか?」


「そこがいいんじゃん」


 リオは上機嫌で杯を口へ運んだ。


 美しい街並み。


 華やかな夜。


 各地の商品が集まる店。


 劇場。


 酒場。


 競馬場。


 賭場。


 金さえあれば、一日中遊んでいられる。


 綺麗な外見を持ちながら、その内側では人々が胸の奥に抱える欲望まで満たしてくれる。


 そんな街だった。


「やっぱりいいなぁ、セントハイム」


 リオはしみじみ呟いた。


「ずっといたい」


「アスナムへ向かわれるのでしょう?」


「その予定だったね」


「過去形にしないでください」


 ロルフも窓の外を眺めていたが、やがてぽつりと口にした。


「美しい外見に、腹黒い中身……」


「ん?」


「まるでお嬢様……」


 リオが振り向く。


「なんか褒めた?」


「いえ、いえ!」


 ロルフが慌てて首を振った。


「別に何も!」


 その横では。


 いつの間にか葡萄酒を何杯も空けていたマルタが、頬杖をついて笑っている。


「おめぇみてぇな町だってよ。リオ」


「なんで急に口悪くなってるのよ」


「似てるだろ」


「どこが?」


「見た目だけは綺麗」


「だけは余計」


「愛想もいい」


「それは褒めてるね」


「腹ん中は真っ黒」


「おい」


 マルタは杯を持ったまま、けらけら笑った。


「ぴったりじゃねぇか」


「失礼ねぇ」


 リオは頬を膨らませる。


 だが、すぐに胸を張った。


「まあ、私の生まれ故郷だから当たり前だけど」


「お嬢様はアスナムで生まれています」


 ロルフが律儀に訂正する。


「違うの」


「何がです?」


「体が生まれたのはアスナム」


「では、セントハイムでは何が?」


「魂」


「……」


 ロルフが黙る。


 マルタが杯を掲げた。


「邪悪な方のな」


「誰の魂が邪悪よ!」


「お前以外に誰がいるんだ」


「この酔っぱらい!」


「酒が美味い!」


「ロルフ、もっと頼んでいい?」


「どうぞ。今日は私が勝ちましたから」


「ロルフ大好き!」


「さっきまで競馬向いてないとか言ってませんでした?」


「過去は振り返らない主義なの」


「便利ですね……」


 三人の卓から笑い声が上がる。


 競馬場で失った金のことなど、すっかり忘れていた。


 その時だった。


 からん。


 入口の鐘が鳴る。


 一人の男が酒場へ入ってきた。


「……」


 リオが何気なくそちらを見る。


 二十代半ばほどの若い男だった。


 旅人にしては身なりがよく、髪も整えている。


 そして。


「……」


 リオの目が止まった。


 顔がいい。


 かなり。


 だが、その男は見るからに落ち込んでいた。


 肩を落とし、俯き、世界の終わりでも見てきたような顔をしている。


 男は誰とも目を合わせず、隅の空いている席へ腰を下ろした。


「……」


 リオは男を見つめる。


「お嬢様?」


 ロルフが声をかけたが、返事はない。


 マルタだけがリオの顔を見て、にやりと笑った。


「見つけたな」


「何を?」


「男」


「人聞き悪いなぁ」


 そう言いながら、リオは乱れてもいない髪を指先で整えた。


 背筋を伸ばし、少しだけ顎を引く。


 そして。


 先ほどまでマルタと罵り合っていた女とは思えないほど、柔らかな笑みを浮かべた。


 ロルフが小さくため息をつく。


「……始まりましたね」


 マルタが酒を飲みながら笑った。


「化け猫が皮被りやがった」


「聞こえてるからね」


 リオは笑顔のまま答えた。


 そして。


 しょんぼりと一人で座る男へ向かって歩き出した。


     ◇


「隣、いいですかぁ?」


 男が顔を上げた。


「……え?」


「なんだか、すごく落ち込んでるみたいだから」


 リオは少しだけ首を傾げる。


「私でよければ、お話くらい聞きますよぉ?」


「……ありがとうございます」


 男は弱々しく笑った。


 近くで見ても、やはり顔はいい。


 リオの笑顔がほんの少し深くなる。


 しばらくして。


 男はリオたちの卓へ移ってきた。


「セイヤです」


「リオです」


 リオがにっこり笑う。


 マルタとロルフも簡単に名乗った。


「それで」


 リオが心配そうにセイヤの顔を覗き込む。


「何があったんですかぁ?」


「……騙されたんです」


「騙された?」


「はい」


 セイヤは卓の上で拳を握った。


「カジノです」


「カジノ?」


 その言葉に。


 リオの目がほんの少しだけ輝いた。


「お嬢様」


 マルタが横目で見る。


「今、嬉しそうな顔しましたよね」


「してない」


 セイヤは気づかず続ける。


「ルーレットをやっていたんです。最初は何回か勝てました。それで……これならいけると思ってしまって」


「うんうん」


「ところが、途中から急に負け始めたんです」


 一度勝っている。


 だから。


 取り返せると思った。


 次こそ勝てる。


 そう考えて、賭け続けた。


 だが。


「まったく勝てなくなりました。あと少しで当たりそうなのに、いつも外れるんです」


「偶然じゃないの?」


「私も最初はそう思いました」


 セイヤは首を振る。


「でも、何度も見たんです。あんな偶然があるわけがない」


「……」


「せっかくセントハイムで頑張って働いて……金を貯めて故郷へ帰ろうと思っていたのに」


 セイヤの声が震えた。


「故郷では、年老いた母さんが待っているんです」


「まあ……」


 リオの表情がさらに柔らかくなる。


「それなのに、あいつら……グルだったんです」


「ひどい……」


 リオが胸元に手を当てる。


「こんなに良い人を騙すなんて」


「良い人は母親のために貯めた金を賭場に突っ込みませんよ」


 マルタが冷静に言った。


「マルタ」


「何です?」


「今いいところだから黙ってて」


「事実でしょう」


 セイヤは苦笑した。


「その通りです。私が馬鹿だったんです」


「ほら、ちゃんと反省してる」


「反省すれば金が戻るなら苦労しません」


「ほんっと夢がないなぁ」


 すると。


 セイヤが真剣な顔でリオを見た。


「リオさん」


「何かな?」


「あなたを見込んで、お願いがあります」


「私を?」


「はい」


 セイヤは身を乗り出す。


「私の仇を取ってくれませんか?」


「……」


「何度も奴を観察しました。それで、ようやく癖が分かったんです」


「癖?」


「はい。その癖さえ分かっていれば、奴のイカサマを逆に利用できるかもしれない」


 リオの目が細くなる。


「つまり」


「はい?」


「そいつを利用すれば、勝てる?」


「可能性はあります」


「分かった」


「え?」


「任せて」


 即答だった。


「早いですね!?」


 ロルフが思わず声を上げる。


「困ってる人がいるんだよ?」


「お嬢様がそんな理由で動きます?」


「失礼だなぁ」


 リオはセイヤへ向き直る。


「大丈夫。私が何とかしてあげる」


「ありがとうございます!」


 セイヤが嬉しそうに頭を下げた。


 その横で。


 ロルフがそっとマルタへ顔を寄せる。


「マルタさん」


「何?」


「なんか、よくある展開のような……」


「そうね」


「止めなくていいんですか?」


「止めて聞くと思う?」


「……思いません」


「でしょ」


 マルタは残っていた酒を飲み干した。


     ◇


 その日のうちに。


 四人は問題のカジノへ向かった。


 店の名は、テーアィ。


 セントハイムの歓楽街でも、それなりに名の知られた賭場だった。


「へえ……」


 中へ入ったリオが周囲を見回す。


 明るい灯り。


 磨き上げられた卓。


 着飾った客たち。


 カード。


 骰子。


 そして。


 いくつものルーレット台。


 安酒と煙で満ちた場末の賭場とは違う。


 ここもまた、セントハイムらしく美しかった。


「こっちです」


 セイヤが声を潜める。


 四人は、一つのルーレット台から少し離れた場所へ移動した。


「あいつです」


 セイヤが示した先。


 一人の男がルーレット台に立っていた。


 三十代ほど。


 身なりは整い、穏やかな笑顔を浮かべている。


「クローサと言います」


「ふーん」


 リオがじっと観察する。


 一見して、怪しいところはない。


 客に笑顔を向け、賭けを受け、淡々とルーレットを回している。


「本当にあいつ?」


「間違いありません」


「どんな癖?」


「見ていてください」


 客たちが次々と賭けていく。


 赤。


 黒。


 数字。


 やがて。


 クローサが球を投げ入れた。


 円盤が回る。


「今です」


「え?」


「右耳を見てください」


 クローサの手が、何気なく右耳へ触れた。


「右耳を触ったら?」


「黒です」


 リオがルーレットへ目を向ける。


 球が跳ねる。


 一度。


 二度。


 そして。


 黒へ落ちた。


「……」


 リオの眉が上がる。


「当たった」


「でしょう?」


 セイヤが声を潜めた。


「偶然じゃないの?」


「もう少し見ていてください」


 次の勝負。


 クローサは右耳に触れない。


 結果は赤。


 さらに次。


 再び右耳へ触れる。


 黒。


「……また」


 マルタもルーレット台を見る。


「確かに妙ですね」


「どうやってるんだろ?」


「分かりません。ただ、あいつが右耳を触った時は、かなりの確率で黒に入るんです」


「……」


 リオはクローサを見る。


 次に、回転するルーレットを見る。


 そして。


 にやりと笑った。


「ということは」


「はい?」


「あいつの癖を盗めば、大儲けできる?」


「お嬢様」


 ロルフが嫌そうな顔をした。


「復讐はどこへ行ったんです?」


「もちろん覚えてるよ。悪い奴を懲らしめる」


 リオはにっこり笑う。


「ついでに、お金ももらう」


「ついでの方が目的になってません?」


「気のせい」


 マルタがルーレット台を眺めながら呟いた。


「嫌な予感しかしませんね」


「大丈夫だって」


 リオは胸を張った。


「相手の癖が分かってるんだよ?」


 そして。


 再びクローサを見る。


「こんなの、負ける方が難しいじゃん」


     ◇


 勝負が始まった。


 リオはルーレット台の前へ腰を下ろし、クローサの動きをじっと観察する。


 最初から大金を賭けるつもりはない。


 まずは確認。


 本当に、セイヤの言った通りなのか。


「賭けをどうぞ」


 クローサが穏やかな声で促した。


 客たちが次々とチップを置いていく。


 リオはまだ置かない。


 やがて。


 球が投げ入れられる。


 その瞬間。


 クローサの右手が上がった。


 何気なく。


 右耳に触れる。


「……黒」


 リオは小さく呟き、チップを置いた。


 球が跳ねる。


 一度。


 二度。


 そして。


 黒。


「……!」


 リオの口元が上がる。


「当たった」


「言ったでしょう」


 後ろに立つセイヤが笑った。


「まだ一回」


 リオは払い戻されたチップを受け取る。


 次。


 クローサは耳に触れない。


 リオは見送った。


 赤。


 さらに次。


 また。


 右耳。


「黒」


 賭ける。


 黒。


「ふふっ」


 さらに。


 右耳。


 黒。


 的中。


 もう一度。


 右耳。


 黒。


 的中。


 リオの前に積まれたチップが、少しずつ高くなっていく。


「へえ」


 クローサが笑った。


「お客さん、ついているね」


「当然」


 リオは髪を払った。


「勝負の女神の生まれ変わりだからね」


「勝負の女神は、あんな性悪ではないかと」


 後ろからマルタの声がした。


「なんか言った?」


 リオが振り返る。


「いえ、何も」


「聞こえたんだけど」


「気のせいです」


 セイヤが嬉しそうに身を乗り出した。


「リオさん、頑張ってください」


「任せて」


 リオは得意げに笑う。


「このまま全部いただくから」


 また。


 クローサが右耳へ触れる。


「黒」


 リオが賭ける。


 黒。


「ほらね」


 チップがさらに増える。


 ロルフが後ろから覗き込んだ。


「本当に当たっていますね……」


「でしょ?」


「ですが、お嬢様。ほどほどにした方が」


「大丈夫だって」


 リオはルーレットから目を離さない。


「こっちは相手の癖を知ってるんだから」


     ◇


 しばらくして。


 リオの前には、最初に持っていた額より明らかに多くのチップが積まれていた。


「……これ、結構増えたね」


「かなり勝っています」


 マルタも少し感心したようだった。


「そろそろやめてもいいのでは?」


「まだまだ」


 リオは笑う。


「こんな簡単に増えるなら、もうちょっと――」


 その時。


 クローサが右耳に触れた。


「黒」


 リオは迷わずチップを置く。


 球が回り。


 跳ねる。


 そして。


 赤。


「……あれ?」


 リオが瞬きをした。


「負けた」


 クローサはにこやかにチップを回収する。


「残念ですね」


 そして。


 リオを見る。


「次はどうしますか、勝利の女神様?」


「……」


 ロルフが少し心配そうな顔をした。


 だが。


 セイヤがすぐに声をかける。


「リオさん。たまたまですよ」


「まあね」


 リオもさほど気にしていなかった。


「全部当たるわけじゃないし」


 次。


 右耳。


 黒。


 的中。


「ほら」


 リオが笑う。


「やっぱりいける」


「そうでしょう?」


 セイヤも嬉しそうに頷く。


 次。


 右耳。


 黒。


 的中。


 さらに。


 右耳。


 赤。


「……」


 また外れた。


「まあ、そういう時もある」


 次。


 右耳。


 黒。


 的中。


 その次。


 右耳。


 赤。


「……あれ?」


 勝つ。


 負ける。


 勝つ。


 負ける。


 少しずつ。


 本当に少しずつ。


 さっきまで積み上がっていたチップが削られていく。


 そして。


 また右耳。


「黒」


 リオが賭ける。


 赤。


「また?」


「残念」


 クローサは相変わらず穏やかだった。


「次はいかがします?」


「……」


 リオは手元を見る。


 まだ大きな損はしていない。


 最初の元金を考えれば、少し減った程度だった。


 だが。


 さっきまであった勝ち分は、かなり消えている。


「一旦やめる」


 リオはそう言って、残ったチップへ手を伸ばした。


「え?」


 セイヤが驚く。


「最初は明らかに当たってた。でも、今は外れが増えてる」


 マルタが頷いた。


「私も、それがいいと思います」


「ここまでなら、まだほとんど痛くないし」


「ですが」


 セイヤが止めた。


「何?」


「今やめたら、もったいないです」


「もったいない?」


「私が観察していた時も、何度か外すことはありました」


「……」


「ずっと黒に入れ続けたら、さすがに怪しまれるでしょう?」


「まあ……」


「だから、わざと時々外しているんです」


 リオの手が止まる。


「わざと?」


「そうです」


 セイヤはクローサを見る。


「でも、流れがあります」


「流れ?」


「何度か外したあと、また続けて黒へ入れるんです」


「……」


「私は何日も見ています。間違いありません」


 リオもクローサを見る。


「本当に?」


「はい」


 だが。


 リオはしばらく考えたあと、首を振った。


「やっぱやめる」


「リオさん!」


「十分勝ったし。欲張って全部なくす方が馬鹿でしょ」


 マルタが少しだけ感心したように頷く。


「珍しく賢明です」


「珍しくは余計」


 ところが。


 セイヤは食い下がった。


「次です」


「え?」


「次はうまくいきます」


「……」


「今度こそです」


 セイヤの顔は真剣だった。


「次に右耳を触ったら、全額いきましょう」


「全額?」


 ロルフが目を見開く。


「それは危険では?」


「これまでの負けを一気に取り戻せます」


「いや、別にまだ大して負けてないんだけど」


 リオは冷静に返した。


「だからこそです」


 セイヤが声を潜める。


「今なら奴も油断している。ここで大きく賭けるなんて思っていない」


「……」


「一度だけ」


 セイヤはリオを見つめた。


「私を信じてください」


 マルタがリオの横顔を見る。


「お嬢様」


「分かってる」


 リオは短く答えた。


 その時。


 クローサの右手が上がった。


 そして。


 右耳へ触れる。


「……!」


 セイヤが息を呑んだ。


「今です」


 リオの前には。


 残ったチップ。


 全部。


「全額、黒へ」


 リオは一瞬だけ迷った。


 そして。


「……黒」


 すべてのチップを押し出した。


「全部?」


 クローサが眉を上げる。


「全部」


 リオは笑った。


「勝負の女神を舐めないでよ」


「それは楽しみだ」


 球が投げ入れられる。


 回る。


 跳ねる。


 一度。


 二度。


 そして。


 赤。


「……」


 リオの顔から表情が消えた。


「……なんで?」


 クローサがチップを回収する。


「残念でしたね」


「……」


「勝負の女神様にも、見放される時はあるらしい」


 クローサが笑った。


 それまでとは違う笑い方だった。


「……?」


 リオが眉を寄せる。


 すると。


 後ろからも笑い声が聞こえた。


「ふっ……」


「……」


 振り返る。


 セイヤだった。


「……セイヤ?」


「いやぁ」


 さっきまでの悲しげな顔は消えていた。


 背筋を伸ばし。


 口元を歪め。


 楽しそうに笑っている。


「随分簡単に信じてくれたね」


「……」


 セイヤはそのままクローサの横へ歩いていった。


「いい客を連れてきてくれた」


 クローサが言う。


「顔が良ければ、大抵の女は話を聞いてくれるからね」


「……」


 ロルフが目を見開いた。


「まさか……」


 マルタは額を押さえる。


「やっぱり」


 リオだけが。


 しばらく何も言わなかった。


「……グル?」


「そういうこと」


 セイヤが笑う。


「年老いたお母さんは?」


「元気だよ」


「故郷に帰る話は?」


「別に帰る予定なんてない」


「騙された金は?」


「そんなこと言ったかな?」


「……」


 リオのこめかみに青筋が浮かんだ。


「お嬢様」


 ロルフが恐る恐る声をかける。


「帰りましょう」


「そうです」


 マルタも頷いた。


「もう完全に負けです」


「……」


「お嬢様?」


 リオは俯いたまま肩を震わせ何も答えない。


 そして。


「ちょっと待ってて」


「はい?」


 くるりと踵を返した。


「どこへ?」


「すぐ戻る」


「お嬢様?」


 止める間もなく。


 リオはカジノの外へ消えていった。

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