いい男⑥ リオと白馬の王子様
ニコスを発ってから、さらに南へ。
リオたちは、ついにセントハイムへとたどり着いた。
都市同盟でも最大級の港湾都市。
東岸一の交易都市。
そして何より――東岸一の歓楽街を抱える街である。
城門を抜けた瞬間から、これまでの街とは空気が違った。
大通りには酒場、劇場、料理店、舞踏場が立ち並び、その間を着飾った男女が行き交っている。少し先には巨大な賭場。通りの壁には競馬や芝居の開催を告げる色鮮やかな張り紙。
港へ目を向ければ、各地から訪れた船員や商人で溢れ、昼間だというのにあちこちから音楽と笑い声が聞こえていた。
「……」
リオが立ち止まった。
右を見る。
左を見る。
もう一度右を見る。
「……分かる」
「何がです?」
マルタが尋ねる。
リオは大きく息を吸い込んだ。
「なんか、この街、私と同じ匂いがする」
「邪悪な香りですね」
「なんでよ!」
リオは再び大通りを見渡した。
酒。
芝居。
賭博。
美味い料理。
男。
そして夜遊び。
どこを見ても楽しそうなものばかりだった。
「……ここ」
「はい?」
「私の故郷だわ」
「お嬢様はアスナムでお生まれでは?」
「生まれてない」
「はい?」
リオは真顔だった。
「この町で、たぶん生まれた気がする」
「出生地を気分で変えないでください」
「魂がそう言ってるの」
「邪悪な魂ですね」
「マルタ!」
少し後ろでは、ロルフが困ったように笑っていた。
◇
それから数日。
「セントハイム最高!」
リオは、あっという間にこの街へ染まっていた。
昼は街を歩き。
芝居を見て。
美味しいものを食べ。
夜になれば酒場へ繰り出す。
賭場を覗き。
通りを歩く男を眺め。
翌朝になれば、また別の遊び場を探した。
「ここに住もうかな」
「駄目です」
「なんで?」
「目的地はアスナムです」
「アスナムって遠い?」
「今さら何を言っているのですか」
そう言うマルタも、夜の酒場ではそれなりに楽しんでいる。
ロルフだけが、二人の後ろから荷物を抱えてついて回っていた。
そんなある朝。
「あの……」
宿の食堂で。
ロルフが珍しく、自分から口を開いた。
「何?」
リオがパンを齧りながら顔を上げる。
「今日なのですが……行ってみたい場所がありまして」
「ロルフが?」
マルタも意外そうに見る。
「はい」
「珍しいね。どこ?」
「競馬場です」
「競馬場?」
リオが首を傾げた。
「馬が走るところ?」
「はい」
「馬なら嫌ってほど見てきたけど」
「そういう意味ではなくてですね」
ロルフは少しだけ目を輝かせた。
「今日はセントハイム市公営競馬場で、カラヅッカ記念という大きな競走があるそうなんです」
「へえ」
「昔から、一度きちんと競馬を見てみたくて」
「ロルフ、競馬好きなの?」
「馬が好きなんです」
いつも控えめなロルフにしては、珍しく声が弾んでいた。
リオとマルタが顔を見合わせる。
「……」
「……」
そして。
二人の視線が、自然とロルフの顔へ向いた。
ニコスで酔いつぶれた二人を抱えて宿まで運んだ際についた痣は、もうほとんど消えている。
「……行こうか」
「そうですね」
「え?」
ロルフが驚いた。
「いいのですか?」
「いいよ」
「たまにはロルフの行きたいところにも行きましょう」
マルタも妙に優しい。
「お二人とも……」
ロルフは少し感動したようだった。
「ありがとうございます」
「……」
「……」
二人とも目を逸らした。
ニコスで散々迷惑をかけた自覚くらいは、一応あった。
◇
昼。
三人は、セントハイム市公営競馬場へやってきた。
「……綺麗」
リオが思わず呟く。
広く整えられた芝の競走路。
白く塗られた柵。
手入れされた花壇。
巨大な観客席。
場内には飲食店や売店、休憩所まで並んでいる。
リオとマルタが想像していた競馬場とは、随分違った。
「もっと、おっさんたちが馬券握って怒鳴ってるだけの場所かと思ってた」
「私もです」
マルタが周囲を見回した。
もちろん男の客は多い。
だが、それだけではない。
若い女性。
夫婦。
家族連れ。
馬のぬいぐるみを胸に抱きながら歩く女性までいる。
「女性も多いね」
「近年はかなり増えているそうですよ」
ロルフが嬉しそうに答えた。
「競走だけでなく、馬そのものを見るのを楽しみに来る方も多いみたいです」
「へえ」
「随分明るい場所なのですね」
マルタも感心している。
「もっと殺伐としているのかと」
「大きな競走の日は、観光客も多いそうです」
「なるほどねぇ」
リオは頷いた。
そして。
すぐに馬券売場へ視線を向ける。
「で」
「はい?」
「次のレース、どれ買う?」
「もうですか?」
「競馬場に来たんだから馬券買うでしょ」
「それはそうですが、まず新聞を――」
ロルフは早速、競馬新聞を広げた。
「次の競走ですと、前走成績と距離適性から考えれば――」
「私、六番と九番」
「私は九番を中心にします」
「……」
ロルフが顔を上げた。
「理由は?」
「なんとなく」
「九という数字が気に入りました」
「新聞は?」
「見てない」
「見ていません」
「…………」
ロルフは少し悲しそうな顔をした。
◇
間もなく。
三人にとって最初の競走が始まった。
ゲートが開く。
十数頭の馬が一斉に飛び出した。
「六番!」
リオが立ち上がる。
「九番来ました!」
マルタも続いた。
「六! 九! そのまま!」
「九来た! 九!」
いつの間にか、二人とも完全に熱くなっている。
最後の直線。
六番と九番が抜け出した。
「行けぇ!」
「そのまま!」
ゴール前。
二頭が並ぶ。
そのまま――。
ゴール。
「……」
「……」
掲示板に数字が並ぶ。
リオが目を凝らした。
「当たった?」
ロルフも確認する。
「……当たっていますね」
「やったぁ!」
「やりました!」
リオとマルタが抱き合った。
「競馬、簡単じゃん!」
「ですね!」
ロルフは、自分の馬券を見る。
「私は外れました……」
リオが振り返った。
「ロルフ」
「はい」
「競馬向いてないんじゃない?」
「まだ一競走目です!」
◇
払い戻された金は、二人が思っていたよりずっと多かった。
「……」
リオは手の中の金を見る。
「お嬢様?」
「競馬ってすごいね」
「今のはビギナーズラックかもしれませんよ」
「負け惜しみ?」
「違います」
「ロルフ、もっと素直に認めた方がいいですよ」
「マルタさんまで……」
その後も三人は場内を歩きながら、いくつかの競走を眺めた。
中でも一番楽しそうなのはロルフだった。
「本当に馬好きなんだね」
「はい」
「騎士になりたかったんでしたっけ?」
マルタが尋ねる。
「そうなんです」
「腕は立つのに」
「ありがとうございます」
ロルフは少し照れた。
「ただ、私は体が大きすぎまして」
「大きいと駄目なの?」
「馬への負担が大きくなりますから。それに私は、少々……」
「気が弱い」
マルタが即答した。
「……はい」
「そこは否定しないんだ」
「騎士には向いていないと言われました」
腕は立つ。
体格もいい。
だが、性格が気弱。
結局、騎士にはなれず。
巡り巡って、今ではリオの護衛をしている。
「私は今の仕事で良かったと思っていますけどね」
「へえ」
「お嬢様たちと旅もできますし」
「いいこと言うじゃん」
「ニコスでは殴られましたが」
「……」
「……」
リオとマルタが同時に目を逸らした。
「忘れよっか」
「そうですね」
◇
そして。
本日の主競走。
カラヅッカ記念が近づいてきた。
ロルフが競馬新聞を広げる。
「今日の主役は、やはりこの馬でしょうね」
「どれ?」
「ゴルッシ」
「変な名前」
「通称は白い悪魔」
「格好いいじゃん」
「このカラヅッカ記念を、すでに二年連続で勝っています」
「二連覇?」
「はい。今年勝てば三連覇です」
「他は?」
「最高グレードの競走を六勝」
「強いじゃん」
「前走の春のキングカップでは、出遅れながらも勝っています」
リオが顔を上げた。
「出遅れて?」
「はい。かなり後方から追い上げて」
「無敵じゃん」
「実績だけなら文句なしの名馬ですね」
ロルフはさらに新聞を読む。
「白い毛並みと、この立派な体格は母方の祖父譲りみたいです」
「へえ」
「その祖父も、このカラヅッカ記念の覇者ですね」
「……」
リオとマルタが顔を見合わせた。
「なおさら負ける要素ないじゃん」
「ありませんね」
「実績ある」
「血統もある」
「前走は出遅れても勝っている」
「三連覇もかかっている」
「これ、もう勝ったでしょ」
「勝ちましたね」
ロルフが新聞から顔を上げる。
「まだ走っていませんよ」
「細かいなぁ」
「ただし」
「何?」
「気性面には、かなり問題があるようです」
「気性?」
「調教師を睨みつける」
「うん」
「他の馬に噛みつこうとする」
「……」
「機嫌が悪いと、急に走る気をなくすこともある」
「……」
「それから」
ロルフが少し言いにくそうに続けた。
「牝馬を見ると、すぐ寄っていくそうです」
「へえ」
「そのくせ、周りの人間には愛想だけはいいとか」
「…………」
マルタがゆっくりリオを見る。
「何よ」
「わがまま」
「おい」
「愛想だけは良くて」
「ちょっと」
「異性とみれば寄っていく」
「……」
マルタは新聞とリオを見比べた。
「よく似ているなと」
「誰がよ!」
「まるでお嬢様の生まれ変わりですね」
「私まだ死んでないんだけど!」
「では、生き写しで」
「もっと嫌だわ!」
ロルフが困ったように笑った。
「でも強いんでしょ?」
「強いです」
「じゃあいい」
「はい?」
「強ければなんでもいいわ」
◇
パドックへ向かうと、すでに多くの人で賑わっていた。
そして。
間もなく、一頭の馬が姿を現した瞬間。
「おおーっ……!」
観客から大きなどよめきが起こった。
「来たぞ!」
「ゴルッシだ!」
「ゴル様ー! 頑張ってぇー!」
若い女性たちの黄色い声まで飛ぶ。
リオは目を見開いた。
「……あれか」
すぐに分かった。
白く、大きな馬体。
磨き上げられた毛並みが陽光を受け、まるで光をまとっているように輝いている。
肩から脚へ流れる筋肉も見事だった。
他の馬も立派なのだろう。
だが。
ゴルッシだけは、一頭だけ格が違って見えた。
「……すご」
リオが呟く。
「確かに、これは人気が出るはずですね」
マルタも感心している。
「立って歩いているだけなのに、妙な貫禄があります」
ゴルッシは歓声を浴びながら、悠然と歩いている。
「ゴル様ー!」
「三連覇頼むぞ!」
「今日も勝ってー!」
馬のぬいぐるみを抱えた女性まで、頬を紅潮させながら手を振っていた。
「ゴル様だって」
リオが笑う。
「様付けなんだ」
「それだけの実績がありますからね」
その時。
ゴルッシが、ふとこちらを向いた。
「……」
リオと目が合う。
一瞬。
口元が。
笑ったように見えた。
「……」
「お嬢様?」
「今、笑った」
「馬がですか?」
「こっち見て笑った」
「気のせいでは?」
「違う」
リオはゴルッシから目を離さなかった。
「なんかさ」
「はい」
「そこはかとなく危険な香りがする」
「馬から?」
「うん」
マルタの顔が嫌そうに歪む。
「お嬢様」
「何?」
「まさかとは思いますが……」
リオは真顔だった。
「あいつに惚れたかも」
「人間ではないですよ」
「分かってる」
「分かっているのに?」
「でも、さっきこっち見た時の笑顔……」
「馬です」
「あの目もいい」
「馬です」
「性格悪そうなのもいい」
「それは否定しませんが」
マルタはしばらくリオを見る。
「……重傷ですね」
「何がよ!」
ロルフが新聞から顔を上げる。
「ちなみに牡馬です」
「知ってる」
「そこは確認済みなのですね」
「決めた」
リオは最初の競走で得た払い戻し金を取り出した。
「これ全部、ゴルッシ」
「全部ですか?」
「全部」
マルタも金を取り出す。
「私もです」
「マルタさんまで!」
「二連覇中なのでしょう?」
「はい」
「最高グレードを六勝」
「はい」
「前走は出遅れても勝っている」
「そうですが」
「負ける要素がありません」
「気性が――」
「強ければいいんです」
「……」
ロルフは少し考え。
「私は別の馬にします」
「裏切者」
「競馬はそういうものです」
◇
いよいよ。
カラヅッカ記念。
これまでとは比較にならないほど、観客席は熱気に包まれていた。
大歓声。
馬券を握る人々。
ゴルッシの三連覇を期待する声が、あちこちから聞こえる。
ファンファーレなり響き。
各馬がゲートへ入っていく。
「ゴルッシ……」
リオは馬券を握りしめた。
「頼みますよ」
マルタも真剣だった。
「さっきの勝ち分、全部入っていますからね」
「大丈夫」
「何がです?」
「あいつはやる」
「根拠は?」
「恋する女の勘」
「一番信用できませんね」
全馬。
ゲートへ。
リオが息を飲む。
静寂。
そして。
ゲートが開いた。
「行け!」
各馬が一斉に飛び出す。
だが。
「……ありゃ?」
一頭だけ。
出てこない。
「……」
「……」
白い馬が。
ゲートの中で立ち上がっていた。
「…………」
リオの顔が固まった。
「何してんの?」
少し遅れて。
ようやくゴルッシが飛び出した。
大出遅れ。
「おい!」
リオが立ち上がった。
「ふざけんなよ! 走れよ!」
「まだ間に合います!」
マルタもすでに熱くなっている。
「追え! 追え!」
「鞭入れろ、鞭!」
ゴルッシは後方。
先頭との差は大きい。
「キングカップではここから勝ったんでしょ!」
「ここまでの出遅れでは……」
「関係ないわよ。早く行け!」
「追えぇぇぇ!」
だが。
伸びない。
「……」
「……」
むしろ。
どこかやる気がない。
「おい」
リオの声が低くなる。
「走る気ある?」
ない。
少なくとも。
そう見えた。
最後の直線。
「まだ間に合う!」
「行けぇ!」
ゴルッシ。
来ない。
そのまま。
一着の馬がゴール板を駆け抜けた。
二着。
三着。
そして。
遥か後方を。
白い馬が、何事もなかったかのように通過した。
レース終了。
その瞬間。
競馬場のあちこちで。
馬券が宙を舞った。
ひらひらと。
くるくると。
無数の紙片が午後の光を受け、きらきらと輝きながら風に流れていく。
妙に美しい光景だった。
「…………」
「…………」
リオとマルタは。
口を半開きにしたまま、呆然と立ち尽くしていた。
最初の競走で得た儲け。
夢。
期待。
そして白馬の王子様への淡い想い。
全部。
消えた。
「…………」
「…………」
先に我へ返ったのはリオだった。
「白いの」
低い声。
「金返せ」
マルタの目も据わっている。
「このクソ駄馬……」
周囲からも怒号が飛び交っていた。
「何やってんだ!」
「走れよ!」
「三連覇はどうした!」
「金返せ!」
「二度と買わねぇぞ!」
「ふざけんな、この白いの!」
「このクソ駄馬!」
いつしかリオとマルタも、完全に観客の一員となって罵声を飛ばしていた。
白い悪魔への怨嗟が、競馬場を包んでいる。
その時だった。
「あれ?」
ロルフがゴール板の方を指差した。
「戻ってきましたよ」
「は?」
リオが顔を上げる。
ゴルッシだった。
負けたというのに。
なぜか、再びゴール板の近くへ戻ってきている。
「……何しに来たの?」
白い馬は、観客席の前でゆっくりと歩いていた。
「ふざけんな!」
「金返せぇ!」
「駄馬!」
「この悪魔!」
罵声。
怒号。
舞い落ちる外れ馬券。
だが。
ゴルッシはまったく気にしない。
頭を下げるでもなく。
申し訳なさそうにするでもなく。
堂々と。
悠然と。
まるで今日の勝者であるかのように歩いている。
そして。
ちらり。
観客席を一瞥した。
「……」
その目は静かだった。
あまりにも堂々としている。
まるで。
――愚かな人間どもめ。
そう言っているようにすら見えた。
「……てめぇ」
リオの額に青筋が浮かぶ。
「今、馬鹿にしたでしょ」
「してますね」
マルタが即答した。
「完全にしてます」
そんな二人の横で。
ロルフだけが感心したように白い馬を眺めていた。
「いやぁ……」
「何?」
「堂々として、立派な馬ですね」
「どこがよ!」
「負けたのに、あの貫禄ですよ」
「反省してないだけでしょ!」
ゴルッシは、そのまま悠然と去っていく。
「二度と買わないからな!」
「金返せ、この悪魔!」
「クソ駄馬ぁ!」
リオとマルタの罵声も。
最後まで、観客たちの声に混じっていた。
ゴルッシは振り返らない。
敗れたはずなのに。
その背中だけは。
やはり。
帝王だった。
「面白かった!」「別の外伝もかけ!」
→ 下にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】に!
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