いい男⑤ 恋の女神からまともな姿を奪われた女たち
◇
その夜。
いつもの酒場。
卓上には、パン、腸詰め、豆の煮込み、チーズ。
そして酒が並んでいた。
「で」
席につくなり、リオが身を乗り出した。
「約束」
「はいはい」
ティアが呆れたように杯を持つ。
「あんたが言ってた役者、ロナルドでしょ?」
「そう!」
「任せときなさいって」
「本当に?」
「知り合いだから。今度紹介してあげる」
リオの顔が一気に明るくなる。
「ティア、大好き!」
「安いわねぇ」
その横で。
「……私の方も」
マルタが静かに口を開いた。
「忘れてないわよ」
ティアが笑う。
「そっちも若手を三、四人連れてくる」
「三、四人……」
マルタの目が輝いた。
「若い?」
「若い」
「役者?」
「役者」
「独身?」
「たぶん」
「……」
マルタが口元を押さえる。
ずるっ。
「今、涎すすった?」
「すすってません」
「出てたよ」
「気のせいです」
「二十八年彼氏なしは伊達じゃないわね」
「余計なお世話です!」
リオが杯を掲げる。
「じゃあ!」
三人の杯が上がった。
「ティアの合格と!」
「私の未来と!」
「私たちの男に!」
「最後だけ最低ですね!」
「乾杯!」
「乾杯!」
「……乾杯!」
三つの杯が勢いよくぶつかった。
◇
酒盛りは続いた。
一杯。
二杯。
三杯。
オーディションの話。
芝居の話。
男の話。
ティアがこれまで落ちてきた劇団への悪口。
マルタが好きな恋愛劇の話。
リオは途中から、ほとんど男の話しかしていなかった。
気がつけば。
「あ」
ティアが時計を見る。
「やば。もう十時じゃん」
「まだ十時じゃん」
「明日早いのよ」
ティアは残っていた酒を飲み干した。
「帰る」
「えー」
「もうですか?」
「明日から稽古なの」
上着を手に取る。
「この役だけは絶対成功させたい」
さっきまで酒を飲んで笑っていた顔が、少しだけ真面目になる。
「せっかくノイマン劇団で掴んだ役なんだから。絶対に成功させて、ここを足がかりにする」
「頑張ってね」
リオが笑う。
「頑張ってください」
マルタも頷いた。
「男の紹介、忘れないでくださいね」
「マルタ」
「大事です」
「ロナルドも!」
「分かってるって」
ティアが笑いながら手を振る。
「じゃあね」
「またねー」
「おやすみなさい」
酒場の扉が閉まる。
リオとマルタは、しばらくそちらを見ていた。
「……」
「……」
「飲む?」
「飲みましょう」
「追加ー!」
ロルフが小さくため息を吐いた。
◇
それから、しばらくして。
数人の若い男たちが酒場へ入ってきた。
二十歳前後。
身なりも悪くない。
顔立ちも整っている。
彼らは、ちょうどリオたちの隣の卓へ座った。
「……」
リオの目が細くなる。
「お嬢様」
「何?」
「今、目が変わりましたね」
「変わってないけど?」
リオは髪を整えた。
そして少ししてから、何食わぬ顔で男たちへ近づいていく。
「あのぉ……」
声が変わった。
首を僅かに傾げる。
上目遣い。
「ここ、座ってもいいですかぁ?」
「え?」
「私ぃ、旅の途中なんですけどぉ……」
男たちを見回す。
「知らない街って、ちょっと寂しくてぇ」
「もちろん」
一人の男が椅子を引いた。
「どうぞ」
「ありがとうございますぅ」
完全に。
化け猫の皮を被った。
◇
しばらくして。
リオはすっかり男たちの卓へ馴染んでいた。
「へえ、じゃあ皆さんニコスの人なんですかぁ?」
「そうだよ」
「俺たちは昔からの知り合いでね」
「素敵ですねぇ」
柔らかく笑い。
時折、相手の腕へ軽く触れる。
「リオさんはどこから?」
「遠いところですぅ」
「旅してるんだ?」
「そうなんです。怖いこともいっぱいあってぇ」
「大変だね」
「でも」
リオが男の顔を見上げる。
「こうして優しい人に会えると、旅しててよかったって思いますぅ」
「…………」
男の頬が少し赤くなった。
男たちも、満更ではない様子だった。
一人がふと、少し離れた卓を見る。
「あの……」
「はい?」
「お連れの方、大丈夫ですか?」
「連れ?」
リオが振り返る。
マルタは一人で酒を飲んでいた。
かなり酒が入っているらしい。
頬も赤い。
「ああ」
リオがにっこり笑った。
「おばさんにも優しいなんて素敵」
「いや、そんなことは……」
「…………」
マルタの動きが止まった。
「おばさん?」
リオは気づいた。
気づいた上で。
調子に乗った。
「きっと年だから疲れたんですよぉ」
「お嬢様」
ロルフが小声で止める。
「やめた方が……」
「二十八ですからぁ」
「聞こえてますよ」
「耳はまだ大丈夫みたいですぅ」
男たちが困ったように笑う。
ごとん。
マルタが杯を置いた。
「……おい」
リオが振り返る。
「なぁに?」
「リオ」
マルタがゆっくり立ち上がった。
「化け猫の皮被ってんじゃねえぞ」
「…………」
男たちが止まる。
リオは一瞬だけ真顔になった。
だが、すぐに男の腕へ身を寄せる。
「きゃー」
わざとらしく肩をすくめた。
「おばさん怖ぁい」
マルタの額に青筋が浮かぶ。
「洗濯板のクソビッチ、表出ろ」
「……」
リオの笑顔が消えた。
「はぁ?」
声も元に戻る。
「お前、今なんて言った?」
「聞こえなかったか?」
マルタが鼻で笑う。
「洗濯板のクソビッチ」
「……」
「事実だろうが、この絶壁」
「てめぇ……!」
リオが立ち上がった。
「お前、主人に向かって言う言葉か?」
「はぁ?」
「少々胸に脂ついてるからって調子に乗んな!」
「なんだと!」
「主人らしいこと何にもしてねぇじゃねえか!」
マルタがリオを指差す。
「だいたい、お前が遊び惚けるから私は男もできねぇ! 結婚もできねぇ!」
「性格の問題を私のせいにすんな!」
「なんだと、この絶壁!」
「てめぇ!」
「まあまあ!」
若い男たちが慌てて立ち上がった。
「その辺にしましょうよ」
「そうですよ。せっかく楽しく飲んでたんですから」
一人がマルタを宥めようと近づく。
「ほら、お連れの方も酔って――」
「黙れ、小僧」
「え?」
マルタが据わった目で男を見る。
「誰がおばさんだ」
「いや、俺は一言も――」
「うるせぇ!」
ばしゃっ。
「……」
杯の中の酒が。
男の顔面へ、見事にぶちまけられた。
「…………」
酒場が静まり返った。
男の髪から、ぽたぽたと酒が落ちる。
「マ、マルタさん……」
ロルフが青ざめた。
「何すんだ、この人!」
「そいつが余計なこと言うからだろうが!」
「言ってないだろ!」
「マルタ!」
リオがマルタの肩を掴む。
「関係ない奴に何してんだ!」
「あ?」
マルタが振り返った。
「元はといえば、お前が――」
「こっち見んな、酔っ払い!」
「誰が酔っ払いだ!」
「お前だよ!」
「お前もだろうが、クソビッチ!」
「また言ったな!」
リオがマルタの胸倉を掴む。
「上等だ!」
マルタも掴み返した。
「お二人とも!」
ロルフが慌てて止めに入る。
だが。
椅子が倒れた。
「このっ!」
「痛っ! 髪引っ張んな!」
「先に離せ!」
「お前が離せ!」
「表出ろ!」
「ここでやってやる!」
「やめてくださぁぁぁい!」
二人はそのまま床へ転がった。
取っ組み合いの大喧嘩。
若い男たちも。
店員も。
周囲の客も。
総出で二人を止める騒ぎになった。
その夜。
ニコスの片隅にある酒場は、大いに荒れた。
◇
翌朝。
「……頭痛い」
リオが寝台の上で目を覚ました。
口の中が乾いている。
頭の中では鐘でも鳴っているようだった。
「……水」
隣の寝台から、マルタの声がした。
「気持ち悪いです……」
二人とも酷い二日酔いだった。
昨夜の記憶も曖昧だ。
ティアが帰った。
そのあとも飲んだ。
隣に若い男たちが来た。
リオが近づいて話しかけた。
そこまでは覚えている。
だが。
「……」
「……」
二人が顔を見合わせる。
「そのあと覚えてる?」
「ほとんど……」
「私も」
何か騒いだような気はする。
言い争ったような気もする。
それ以上は、霞がかかったように思い出せなかった。
ただ。
「……なんか」
「はい」
「やらかした気がする」
「奇遇ですね。私もです」
「おはようございます」
声がして、二人が振り向いた。
ロルフが椅子に座っていた。
「……」
「……」
リオが目を細める。
「ロルフ」
「はい」
「顔どうしたの?」
頬には青い痣。
額にも赤く腫れた跡がある。
口元にも小さな傷までできていた。
「誰かに殴られた?」
「お二人です」
「……え?」
「はい?」
ロルフは無表情だった。
「昨夜、お二人を酒場から宿まで連れて帰りました」
「連れて?」
「お二人とも、まともに歩けませんでしたので」
ロルフは両腕を広げる。
「両脇に抱えて帰りました」
「……ご苦労様」
「申し訳ありません……」
「ですが、帰る途中もずっと暴れておりまして」
「…………」
「リオ様の肘が頬に」
「……」
「マルタさんの頭が額に」
「……」
「最後は、どちらかの拳まで飛んできました」
「どっち?」
「分かりません」
二人がそっと視線を逸らした。
「……ごめん」
「申し訳ありません」
ロルフは深く息を吐いた。
「それで」
「まだあるの?」
「はい」
二人の顔が引きつる。
「まず、昨夜の酒場は出入り禁止になりました」
「…………」
「…………」
「やっぱり」
「嫌な予感は当たりましたね……」
「それから」
ロルフが続ける。
「隣に座っていた男性たちですが」
「ああ……」
リオが額を押さえた。
「なんか若い男たちがいたのは覚えてる」
「私も、その辺りまでは」
「あの方たち」
ロルフは言いにくそうに口を開いた。
「若手の俳優さんたちだったようです」
「……」
「……」
二人の動きが止まった。
「俳優?」
「はい」
「ニコスの?」
「はい」
「有名?」
「若手では、かなり有力な方々だそうです」
「…………」
マルタがゆっくり尋ねた。
「ちなみに」
「はい」
「私は、その方々に何を?」
「一人の方の顔に酒をかけました」
「…………」
「『誰がおばさんだ』と」
「…………」
「その方は、おばさんとは一言も仰っていませんでしたが」
「…………」
マルタがゆっくり毛布を頭まで被った。
「死にたい……」
「昨日まで若手俳優を紹介してもらうって涎垂らしてたのに」
「言わないでください……」
「私だってロナルド紹介してもらう予定だったのに」
「お二人とも、それどころではないと思います」
「まだあるの?」
「昨夜の騒ぎは、かなり広まっています」
「……どのくらい?」
「若手の有力俳優に酒を浴びせ、旅人の女二人が酒場で取っ組み合いの大喧嘩をした、と」
「…………」
「…………」
「リオ様が、その前に男性たちへかなり馴れ馴れしくされていたことも含めて」
「もういい」
リオが手を上げた。
「それ以上聞きたくない」
「私もです……」
長い沈黙。
やがて。
リオがマルタを見る。
「マルタ」
「はい」
「ニコス出ようか」
「賛成です」
「今日?」
「今すぐに」
「だよね」
ロルフが呆然と二人を見る。
「逃げるのですか?」
「戦略的撤退」
「逃亡です」
「どっちでもいいから荷物まとめよ」
◇
出発前。
リオは宿の机に座り、ティアへ手紙を書いた。
『ティアへ。
ノイマン劇団での成功を心から願っています。
あなたには、これから大切な稽古があります。
私たちがいつまでもニコスに滞在していては、あなたの集中を妨げてしまうかもしれません。
よって、私たちは次の街へ向かうことにしました。
ロナルドの件は、また機会があれば。
リオ』
マルタが横から覗き込む。
「立派な文章ですね」
「でしょ?」
「一言も嘘は書いていません」
「そうでしょ?」
「肝心なことも一言も書いていません」
「文章って便利だね」
「ですね」
ロルフが荷物を背負う。
「本当に、ティアさんに会わずに出るのですか?」
「会えるわけないでしょ!」
リオが即答した。
「昨日、若手俳優に酒ぶっかけたって聞かれたらどうすんのよ!」
「ぶっかけたのはマルタさんですが」
「同罪みたいなもんでしょ!」
「私まで巻き込まないでください!」
「取っ組み合ったのは一緒でしょ!」
「……」
「……」
「行こう」
「行きましょう」
二人の意見が一致した。
こうして。
三人は逃げるようにニコスを後にした。
◇
同じ頃。
初稽古を終えたティアのもとへ、一通の手紙が届けられた。
「……何これ」
開く。
読む。
「……」
最後まで読んだ。
「……逃げたな、あいつら」
昨夜の騒動は、すでにティアの耳にも入っていた。
旅人らしい女二人。
若手俳優へ酒を浴びせ。
酒場で大喧嘩。
店から出入り禁止。
そして今朝。
宿から三人組が慌ただしく出ていったという。
「何が『集中を妨げてしまうかもしれません』よ」
ティアは手紙を折った。
少しだけ笑う。
「まあ、いいか」
今日から本格的な稽古が始まった。
ようやく掴んだ、ノイマン劇団での大きな役。
聖女ではない。
天使でもない。
悪徳令嬢だった。
「……絶対、成功させてやる」
ティアは胸を張って、稽古場へ戻っていった。
◇
一方。
ニコスから続く街道では。
「ロナルドぉ……」
「私の若手俳優が……」
「全部マルタのせいだからね」
「お嬢様が煽ったからでしょう!」
「酒ぶっかけたのはマルタ!」
「最初におばさんと言ったのはお嬢様です!」
「性格の問題を私のせいにすんな!」
「またそれを言いますか!」
「お二人とも!」
顔に痣を残したロルフの悲鳴が、朝の街道へ響いた。
リオたちの旅は、まだ続く。




