いい男② 世界の中心で私だけ立ち尽くす
◇
マルタがリオに仕えるようになったのは、八年前だった。
当時、リオは十一歳。
マルタは二十歳だった。
侍女として一通りの仕事を覚え、初めて正式に任された主人がリオだった。
気は強かった。
我儘でもあった。
面白いことが好きで、退屈を何より嫌った。
そこは今と変わらない。
だが、見かける男を片っ端から品定めするような娘ではなかった。
それが大きく変わった出来事は確かにあった。
リオは十四歳になった頃、一人の少年と出会った。
アムル=ドゥットゥカース。
飛び抜けた美男子だったわけではない。
当時から英雄だったわけでもない。
何がそんなに気に入ったのか、マルタにも分からなかった。
ただ、その日の夜。
「マルタ」
「はい」
「ヤバい。どうしよう」
珍しく困った顔をしたリオが、そんなことを言った。
「何がです?」
「……好きかも」
「誰をです?」
「あの男」
「アムル様ですか?」
「うん」
それだけだった。
理由を聞いたところで、本人にもよく分からなかったのだろう。
一目惚れ。
おそらく、それ以上でもそれ以下でもない。
結果だけを見れば、その見る目は正しかった。
あの少年は後に戦場で名を上げ、多くの人間から英雄と呼ばれる存在になった。
ただ、一つだけ問題があった。
最初から、その隣に一人の少女がいた。
エル=リージェット。
リオより一つ年上の従姉。
銀色の髪に青い瞳。
小柄で、幼い頃から人目を引くほど整った少女だった。
しかも容姿だけではない。
剣を取れば強い。
頭もいい。
そして何より、アムルとの距離が近かった。
マルタですら、初めて二人を見た日に思った。
――リオも美人だが、これは分が悪い。
リオ自身が何を思ったのかは知らない。
本人は何も言わなかった。
エルがパドゥーラを出奔した後ならば、リオにも機会はあったはずだった。弱ったアムルの近くへ入り込むことなど、リオなら難しくなかっただろう。
だが、それもしなかった。
プライドなのか。
良心なのか。
それとも別の何かなのか。
マルタには分からない。
ただ、その時ばかりは、少し立派だと思ったものだった。
それなのに。
いつからか、この娘は妙に「いい男」を探すようになった。
だが、そう簡単に見つかるとはマルタには思えない。
英雄など、そこら中に転がっているものではない。
いつか本人もそれに気づき、どこかで自分なりの折り合いをつけるのだろう。
もっとも。
そんなことを本人へ言うつもりは一切なかった。
「ロルフ! もう一回お願いしますぅ!」
遠くからリオの声が聞こえた。
マルタは現実へ戻った。
◇
それから一週間。
フリードの稽古相手は、もっぱらロルフが務めた。
リオ自身は、剣術を教えられるほど詳しくない。
その点、ロルフはアスナム公家からリオの護衛として派遣されている男である。
性格こそ気弱だが、腕は確かだった。
初日。
フリードは三度挑んで、三度とも負けた。
二日目も勝てなかった。
三日目、四日目と続けるうちに多少は動きもよくなったが、それでもロルフから一本を取るまでには至らない。
そして大会前日。
「お願いします!」
「はい」
二人が木剣を構える。
フリードが踏み込んだ。
ロルフが受ける。
数合。
フリードの剣筋は悪くなかった。
身体もよく動いている。
一般兵としては十分に鍛えられている。
だが、ロルフが剣を受け流し、そのまま手元を打った。
「あっ」
乾いた音を立てて、フリードの木剣が地面へ落ちる。
「……参りました」
「すみません!」
ロルフがすぐに木剣を下ろした。
「大丈夫ですか?」
「はい」
少し離れたところで、リオが腕を組んでいる。
悪くはない。
一週間見続けてきたが、その評価は変わらなかった。
悪くはない。
ただ。
――二回戦止まりね。
それも納得だった。
一週間ロルフと打ち合い続けても、まだ一度として勝てていない。
「……やっぱり、俺には無理なのかな」
フリードが俯いた。
「そんなことないですよぉ」
リオは即座に猫をかぶった。
「最初よりずっとよくなってますぅ」
「でも、ロルフさんには一度も勝てませんでした」
「ロルフさんは強いですからぁ」
「それは分かってるんですけど……」
フリードは悔しそうに拳を握った。
しばらく黙った後、リオを見る。
「リオさん」
「はい?」
「俺、何が駄目なんでしょう」
「……」
リオは笑顔のまま固まった。
――そんなもん知らないわよ。
一週間見てはいた。
だが、剣術の専門家でも何でもない。
何が原因で勝てないのかなど、分かるはずもなかった。
「リオさん?」
「えっとぉ……」
フリードは期待に満ちた目でこちらを見ている。
ここで知らないとは言えない。
リオは少し考えた。
「フリードさんはぁ……」
「はい」
「優しいからぁ」
「優しい?」
「きっと……踏み込みが甘くなってると思うんですぅ」
完全に適当だった。
「踏み込み……」
フリードが呟いた。
「はい」
「……そうか」
何かを思い出すように目を伏せる。
「俺、相手の剣が来ると、いつも一歩引いてる」
「……」
「まず受けようとしてる。だから、その後も全部後手に回るのか」
「……そうなのかもしれませんねぇ」
リオは今知った。
「踏み込み……そうか」
フリードの顔が明るくなる。
「リオさん!」
「はい?」
突然、両手を握られた。
「ありがとう!」
「え?」
「俺、分かった気がします!」
「……よかったですぅ」
「明日、やってみます!」
「はい」
フリードは嬉しそうにロルフのところへ戻っていった。
リオはしばらく自分の手を見る。
マルタが横に立った。
「……何よ」
「いえ」
リオはもう一度フリードを見る。
妙に納得している。
――まあ。
――本人が納得したなら、いいか。
◇
翌日。
カーライル剣術大会。
中央広場には大きな試合場が設けられ、その周囲を大勢の観客が埋め尽くしていた。
強さを美徳とする公国である。
この大会で名を上げれば、平民だろうと誰だろうと一目置かれる。
貴賓席も豪華だった。
中央には、七十を越えた老カーライル公。
その近くには次期カーライル公となる嫡子と、その妻。
さらに公国を代表する名家の当主や、騎士団の重鎮たちがずらりと並んでいる。
その一角。
エリーゼは父の隣に座り、両手を固く握っていた。
フリードが試合場へ姿を見せるたび、身を乗り出す。
「フリード……」
父は隣で腕を組み、黙ったまま試合を見ていた。
一方。
出場者控えの前では、リオが最後の仕上げに入っていた。
「フリードさん」
「はい」
リオは両手を胸元で軽く合わせる。
少しだけ上目遣い。
「エリーゼさんへの愛のために、頑張ってくださぁい」
「……!」
「私、応援してますぅ」
フリードの表情が一気に明るくなった。
「リオさん、ありがとう!」
「はい」
「愛の力、見せてやります!」
「頑張ってくださぁい!」
フリードが大きく手を振った。
リオも満面の笑みで手を振る。
フリードが試合場の奥へ消えていった。
完全に姿が見えなくなる。
リオの口元が、ゆっくりと上がった。
――これで負ける。
「お嬢様」
「何?」
「今、ものすごく悪い顔をしましたね」
「してないわよ」
「しました」
「応援してただけ」
「敗北を?」
「うるさい」
◇
一回戦。
フリードが勝った。
「まあ、一回戦くらいはね」
二回戦。
勝った。
「……あれ? 予定よりも強くなっている?」
三回戦。
勝った。
「ちょっと待って」
マルタが拍手する。
「順調ですね」
「順調じゃない」
「応援しているのでは?」
「してるわよ」
「ならばよいのでは?」
「よくない」
「難しいですね」
準々決勝。
フリードはまた勝った。
会場の空気が変わり始めていた。
昨年二回戦で消えた男。
部隊では「顔だけ」と笑われていた平民兵。
その男が、次々と格上を倒している。
「フリード!」
「行け!」
「今年は違うぞ!」
兵士仲間から声が飛ぶ。
貴賓席でも、名家の当主たちがフリードを見ながら何事か話し始めていた。
エリーゼはもう隠そうともせず、嬉しそうに拍手している。
父親だけは、相変わらず腕を組んだままだった。
準決勝。
相手は前年の上位入賞者だった。
今度こそ終わる。
リオはそう思っていた。
ところが。
相手の木剣が迫る。
フリードは退かなかった。
これまでなら一歩下がっていたところを、逆に踏み込む。
さらに一歩。
相手の懐へ入った。
木剣が跳ね上がる。
対戦相手の剣が宙を舞った。
一瞬の静寂。
次の瞬間。
「うおおおおお!」
大歓声が上がった。
「勝った!」
ロルフが嬉しそうに声を上げた。
マルタも拍手している。
リオだけが固まっていた。
「……なんで?」
「お嬢様の助言が効いたのでは?」
「適当に言っただけなんだけど」
「何か仰いました?」
「何でもない」
まさかの決勝進出だった。
◇
決勝の相手が発表された。
カイル。
カーライルでも最強格と評される騎士。
名門貴族の嫡男。
そして、エリーゼの兄だった。
「……よし」
リオが呟いた。
「何が『よし』なのですか」
マルタが横を見る。
「決勝まで来ちゃったものはしょうがないでしょ」
「はい」
「でも、ここで負ければいいのよ」
「……」
「むしろ二回戦で負けるより効くじゃん」
マルタの表情が引きつる。
リオは試合場を見ながら指を折った。
「あと一歩だったのに届かなかった。エリーゼとも結婚できない。大会中ずっと期待されて、最後の最後で全部なくなる」
「……」
「絶対弱る」
リオの口元が上がった。
「今度こそ落とせる」
マルタはしばらく黙っていた。
「……最低ですね」
「何とでも言いなさい」
試合場に二人が姿を現す。
大歓声が上がった。
だが、その声のほとんどは一方へ向いていた。
「フリード!」
「行けえ!」
「あと一つだ!」
「カイルを倒せ!」
完全にフリード人気だった。
平民の兵士が、名のある騎士たちを次々と倒して決勝まで勝ち上がった。
相手は公国最強格のカイル。
観客たちは番狂わせを期待していた。
兵士仲間だけではない。
騎士たちまで面白がってフリードへ声を送っている。
貴賓席でも、次期カーライル公が楽しそうに身を乗り出していた。
老カーライル公も髭を撫でながら、興味深そうに試合場を見ている。
エリーゼに至っては、今にも席から立ち上がりそうだった。
「フリード!」
会場中がフリードを応援している。
ただ一人を除いて。
「カイル! さっさとケリつけなさいよ!」
マルタが横を見る。
「……お嬢様」
「何よ!」
「この会場でカイル様を応援しているの、おそらくお嬢様だけですよ」
「だから何よ!」
試合が始まった。
さすがにカイルは強かった。
速い。
重い。
隙がない。
フリードは開始早々、押し込まれた。
「そう! それよ!」
リオが声を上げる。
「そのまま行け!」
完全にカイル側だった。
しかし、フリードも退かない。
木剣を受ける。
前へ出る。
また一歩。
観客が沸く。
「フリード!」
「行け!」
「押せ!」
フリードの剣がカイルの肩すれすれを通った。
「惜しい!」
リオが叫ぶ。
マルタが目を見開く。
「お嬢様、ついにフリードさんを――」
「カイルよ!」
「そちらですか」
「今ので決められたでしょ! 何やってんのよ!」
フリードがまた踏み込む。
カイルが下がる。
「ちょっと! カーライル最強なんでしょ!?」
「お嬢様……」
「もっとやれるでしょ! 早くケリつけなさい!」
マルタが呆れた目を向けた。
「お嬢様……人の心というものがないのですか?」
「そんなもん、あとで取り戻すわ!」
リオは試合場から目を離さない。
フリードが深く踏み込んだ。
これまでで一番深い。
木剣がカイルへ迫る。
観客席から悲鳴に近い歓声が上がった。
「フリード!」
エリーゼがとうとう立ち上がった。
だが。
カイルが紙一重でかわす。
そのまま身体を回し、フリードの手元を打った。
木剣が飛ぶ。
地面へ転がった。
一瞬の静寂。
「勝者、カイル!」
歓声とため息が入り混じる。
フリードはその場へ膝をついた。
あと一歩だった。
本当に、あと一歩。
「……よし」
リオが小さく拳を握った。
「今、『よし』と仰いましたね」
「言ってない」
「言いました」
「気のせい」
リオはもうフリードを見ていた。
俯いている。
肩が震えている。
悔し涙が地面へ落ちる。
――完璧。
決勝まで来た。
優勝が見えた。
それでも届かなかった。
しかも、この敗北でエリーゼとの結婚も認められない。
――絶対落とせる。
「行ってくる」
「……はい」
マルタはもう止めなかった。
◇
「フリードさん」
「……リオさん」
フリードが顔を上げる。
目が赤かった。
「惜しかったですねぇ」
先ほどまでカイルを全力で応援していた女とは思えないほど優しい声だった。
「負けました」
「でもぉ――」
「負けたら同じです」
声が震える。
「エリーゼと……」
その先は言葉にならなかった。
リオはそっとフリードの肩へ手を置いた。
「フリードさん……」
柔らかな声。
心配そうな表情。
少し潤んだように見える目。
完璧だった。
――来た。
一週間、毎日顔を合わせた。
信頼もある。
そして今、フリードは完全に弱っている。
ここで優しく寄り添えばいい。
――落ちた。
リオは確信した。
「私――」
「待て!」
試合場から大きな声が響いた。
「……?」
リオが振り返る。
勝者であるカイルが、まだ試合場の中央に立っていた。
その視線は貴賓席へ向いている。
「父上」
会場のざわめきが静まった。
エリーゼの隣。
腕を組んでいた中年貴族が、息子を見る。
「私は、フリードとエリーゼの約束を存じております」
リオの眉が僅かに動いた。
「確かに、フリードは私に敗れました」
父親は何も言わない。
「ですが」
カイルはフリードへ目を向けた。
「今日の戦いを見て、この男を弱いと言う者が、このカーライルにいるでしょうか」
観客席からざわめきが広がった。
「いないぞ!」
どこかから声が飛ぶ。
「よくやった!」
「十分強い!」
別の声が続く。
リオの顔から笑みが消えた。
「父上は、我が家の娘を任せるに足る男であることを示せと仰った」
――いや。
リオの眉間に皺が寄る。
――優勝しろって言ったんでしょ。
「ならば、もう十分でしょう」
――十分じゃないでしょ。
――負けたじゃん。
「私は、フリードを妹の夫として認めます」
歓声が上がった。
「父上」
カイルが頭を下げる。
「どうか、二人の結婚をお認めください」
中年貴族は黙った。
周囲には、カーライル公がいる。
次期公もいる。
公国中の名家が見ている。
何より、会場のほとんどがフリードの健闘を認めていた。
父親は長く黙った後、大きく息を吐いた。
「……分かった」
「父上!」
「ここまでやって認めなければ、今度は私がカーライル中の笑い者になる」
会場が沸いた。
「フリード!」
エリーゼが貴賓席から飛び出した。
「エリーゼ!」
フリードが立ち上がる。
その胸へ、エリーゼが飛び込んだ。
二人が抱き合う。
大歓声。
拍手。
ロルフは涙を流しながら嬉しそうに手を叩いていた。
「よかったですね!」
マルタも笑って拍手している。
老カーライル公も満足そうに笑っていた。
次期公夫妻も拍手を送っている。
カイルは妹とフリードを見ながら笑っている。
父親ですら、最後には諦めたように口元を緩めていた。
そして。
その中心で。
「…………」
リオだけが呆然と立ち尽くしていた。
――は?
――優勝してないじゃん。
――負けたでしょ。
――騎士なのに約束守らないの?
周囲を見回す。
誰も疑問に思っていない。
むしろ全員が感動している。
――なんなの、この脳筋ども。
――全員、筋肉で物事考えてんの?
◇
翌朝。
三人はカーライルを発つことにした。
「リオさん!」
城門へ向かっていたところで、後ろから声をかけられる。
リオは振り返った。
フリードとエリーゼだった。
二人は当然のように手を繋いでいる。
「見送りに来てくれたんですかぁ?」
「もちろんです」
フリードは嬉しそうだった。
「本当にありがとうございました」
「そんなぁ」
「リオさんがいなかったら、俺は最初から諦めていました」
「そうですかぁ」
リオは最後まで猫をかぶっていた。
その隣で、エリーゼも深く頭を下げる。
「私からも、お礼を言わせてください」
「いえいえ」
「フリードをここまで励ましてくださって、本当にありがとうございました」
「私、何もしてないですよぉ」
マルタが横を見る。
何もしていないどころか、別の目的で一週間かなり真剣に付き合っていた。
「結婚式の日取りが決まったら、お知らせします」
「ぜひ来てください」
「はい。楽しみにしてますぅ」
リオはにこやかに答えた。
――そんなん知るか。
「俺、絶対エリーゼを幸せにします」
「私もフリードを幸せにします」
二人が顔を見合わせる。
笑う。
距離が近い。
ものすごく近い。
リオの笑顔が僅かに引きつった。
「では、また」
「また!」
二人が手を振る。
リオも満面の笑みで手を振り返した。
城門を抜ける。
しばらく歩く。
さらに歩く。
二人の姿が完全に見えなくなった。
「マルタ」
「はい」
「次」
「ニコスです」
「いい男いるかな」
「存じません」
「いるって言ってぇーーーー!」
ロルフは困ったように笑いながら、二人の後を追った。
リオの旅は、まだ始まったばかりだった。
「面白かった!」「別の外伝もかけ!」
→ 下にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】に!
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