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第152話:満月まで その2

 アルティスの侍従や侍女達が慌ただしく走り回る様子を盗み見たバジーリャ少佐は、外の馬屋で待機していた部下数名を集めると、声を抑えた。

「穴を埋める作業だが、人を増やして範囲を拡大する。」

 部下の一人が、顔を上げた。

「人手は、既に限界です。」

「わかってる。だから、監獄周辺の農民や村民に手あたり次第声をかけろ。男だけでなく女子供でも構いはしねぇ。」

「しかし、我々に人を雇う資金はありません。」

「そんなもの必要あるか?こっちは軍隊だ。逆らえば痛い目にあうことぐれぇ、奴らもわかる。明日の朝から明後日の夜まで、寝ずで作業させるんだ。道具は奴らの私物を持参させろ。とにかくやるだけやったと見せつけておかないと、こっちの首が飛ぶからな。」

 部下たちが素早く散り散りになるのを見届けると、バジーリャは自分の馬に飛び乗った。

 アルティスの動きを監視して先回りしておかねばならない。皇太后の気紛れに振り回されるのはもうたくさんだ。


 アルティスを乗せた6頭立ての馬車は、林を抜け、石造りの橋を渡り、広大な草原に差し掛かった。

 日はとっぷりと暮れ、藍色の空には銀の星が散りばめられている。

 遥かに見える稜線の上には、真円の金月が輝いていた。

 満月といっても見分けはつかないほど張り詰めた膨らみ。しかし、決して満月ではないことを、アルティスの額が知っている。

 皇太后一行が王宮に到着した時には、既に日付が変わっていた。

 馬車を降りるなり、アルティスは侍従長に命じた。

「ハロルドと話をする。すぐに我の部屋へ呼べ。」

 侍従長が「さすがにこの夜遅い時間では・・・。」などと言っても、そんなことは意に介さず、アルティスは足早に王宮の奥深くへ進んだ。

 いつもどおり厚いカーテンがひかれた自室は、薔薇の香りに包まれている。

 クッションが敷かれた長椅子に背中を預け、アルティスは天を仰いだ。

 侍女が運んできたローズティーで軽く喉を潤したが、カップが重く、すぐに指を離した。

 急ぐあまり休みもとらずに馬車に揺られたせいか、身体のすべてが重い。

 しかし、ここで眠るわけにはいかない。朝になってしまったら、何のために急いだのかわからなくなってしまう。

 それにしても、待たされる時間の、何と苛立つことだろう。

 アルティスは薔薇の花びらを毟りたい程の衝動を何とか抑え込み、ひたすら耐えた。

 だが、どうにも落ち着かず、立ったり座ったりしていると、ようやく扉が開く音が聞こえた。

 アルティスは立ちあがり、ヴェールの向こうに跪く侍従長を見下ろした。

「ハロルドはどうした?」

「伯爵は、モラガス城からお戻りになるや否やマルテス殿下のもとへ行かれたそうです。ですが、現在、マルテス殿下のお部屋に繋がる廊下の扉が閉鎖されております。

「閉鎖?いつからだ?」

「扉の番兵によると、昨日の夕刻から。理由は一切明かせぬとのことです。」

「・・・ハロルドと話はできぬのか?」

「連絡は、扉を挟んで立つ番兵を通してのみ可能であると伺いましたので、皇太后様がお呼びであると言伝を頼みました。」

 その返事を確認するため再び部屋を出た侍従長を見送ると、アルティスは眉根を強く寄せながら腕を組んだ。

 伝染病対策の隔離。

 言葉にせずとも、誰もがわかることだ。表沙汰にならないよう皆が口を噤むのは、この国の跡継ぎが病気であること、ましてや伝染病などと知られたら国内外で混乱がおきるから。

 しかし、王子は本当に伝染病なのか、それとも病名がわからないから念のため隔離したのか。それとも、何かの罠なのか――― 両腕を摩りながら部屋の中を歩き回り、何度も侍女を遣いにやった。

 しかし、返事はいつも同じ、「もう少し、お待ちを。」。

 壁の振り子時計は、遅々として変わらぬ刻を刻み続けている。

 厚いカーテンに閉ざされた自室では、空の色も日の動きも朝の訪れもわからない。

 とうとう堪えきれず、アルティスは自室を飛び出した。

「アルティス様!」

 侍女達が慌ててアルティスを追いかける。

 長い回廊のガラス窓から射し込むオレンジの光が、夜明けを告げている。

 なぜだろう。

 王子の部屋に近づくに連れ、辺りが暗くなっていく気がする。

 嫌な予感が背筋を走る。

 静かな廊下に響き渡る大勢の足音。

 扉の前で待機していた侍従長は、何事だろうと目を凝らした先に現れた皇太后の姿に驚いた。

 アルティスが自ら部屋を出て王宮内を歩き回るなど、ついぞなかったことだ。

 その場にいる全ての人間が平伏したところへ、皇太后の声が飛んだ。

「ハロルドの返事は?」

「まだでございます。一度、遣いの者が『看病で手が離せない』と言ってきたので、皇太后陛下の御用命であるから急ぐよう伝えたのですが。」

「これ以上我を待たせるなど、許されぬ!」

 アルティスは大声を上げると、扉の取っ手に手をかけようとした。

 番兵が、素早く身体を盾に阻止する。

「皇太后陛下といえども、お通しすることはできません。」

 侍従長も、アルティスの横に立った。

「なりませぬ、陛下!陛下をお通しして、万一のことがあったら、我々は首がいくつあっても足りませぬ。」

「では、そなたが入れ!入って、王子の様子をみてくるのだ!」

 それを聞いた侍従長の顔色は蒼く変わり、声を出すことができなくなった。

 アルティスは、「臆病者めが!」と吐き出し、再び扉に手をかけた。

 その時。

 ――― 皇太后陛下、ハロルドでございます。―――

 突如、扉の向こう側から、声がした。

 アルティスは思わず扉に身体を寄せた。

「マルテス王子は?ハロルド、王子の容態は!?」

――― 原因不明の高熱が続いております。伝染する病の可能性もあり、やむなく隔離を。―――

「アンドリューの側近であるそなたが、なぜ隔離領域に入った?」

――― 王子様の主治医である王立病院の院長の代わりに、私が王子様を診させていただいております。―――

「院長の代わり?どういうことだ?」

――― 院長は重体で、副院長が治療にあたっております。御存知ないのでしたら、詳細はどうぞバジーリャ少佐にお尋ねください。―――

 アルティスは、赤い唇を引き締めた。

 病院からリディを連れ出すのに相当手こずったことも、怪我人が出たことも聞いてはいる。しかし、院長が重体とは想定外だ。このことがマルテス王子の生死を左右するとしたら、由々しき事態だ。

「我にできることはないか?医師の助手や看護師の派遣はいらぬか?」

――― お心遣い痛み入ります、陛下。ですがこちらにはマチオも、王子様付きの使用人もおりますので、これ以上人を増やさずとも大丈夫でございます ―――

「わかっておろうな、ハロルド?マルテス王子に万一のことがあれば―――、そなたら全員の命はないぞ。」

――― 王家に仕える者、皆、その覚悟で全力を尽くしております。少しでも変化がございましたら、直ちにご報告いたします。・・・さあ、扉を隔てているとはいえこの近辺は安心できませぬ。陛下はどうか自室にてお待ちください ―――

 侍従長は、引き続きここで待機すると言い、侍女達が皇太后の身体を支えて、自室へと促すように歩き出した。

 自室に戻ったアルティスは、さすがに徹夜の疲れには勝てず、マルテス王子に関する知らせがあったらすぐ起こすよう命じるとベッドに横たわった。

 カーテンで朝の陽ざしを遮られた皇太后の部屋。蝋燭の灯りで映し出された天蓋の中央に、ジェード王家の紋章が彫刻された薔薇翡翠が見える。ゆっくりと瞼を閉じたものの、今後の展開が脳裏を巡る。

 マルテスが隔離されるほどの状況である以上、今はリディの謝罪よりマルテスの容態が優先だ。もしコン・クエバ監獄に行っている間にマルテス王子に何かあったら、悔やんでも悔やみきれない。

 アルティスが恐れている満月は、とうとう明日に迫った。

 バジーリャ少佐に天井の隙間を埋めるよう命じたのは、リディの裏紋章が人目に触れることを避ける意図もあったが、アルティスが亡き夫から「満月の夜は洞窟内がざわめく」と聞かされていたこともある。「ざわめく」というのがどういう意味か尋ねると、夫は「洞窟には巨神がいてな、満月の夜に洞窟内を歩き回るらしい。」と答えた。アルティスが「そんな馬鹿な。」と笑うと、夫もそれ以上何も言わなかったが、満月と聞いて王族が反応するのは裏紋章以外ない。巨神が歩くなど本気にしていないが、洞窟内の「ざわめき」で、リディや自分の額に何が起こるのか、起らぬのか――― 確かめたい。

(リディの命は、次の満月までは持たぬ。行くなら明日しかない。それまでに何とかマルテスの容態が落ち着いてほしい。)

 胸の上で組んだ両指に力を込める。

(明日の夜までは生き延びよ、リディ。これでようやく永きに渡ったプラテアードとジェードの因縁に決着が着くのだ。我の前に平伏す王女の裏紋章を地面に埋めてやるのも面白い。そのままプラテアード王家の血は、このジェードの大地で朽ち果てるのだ。―――土下座のためだ、明日の昼にはリディを下へ降ろさせよう。弱った体だ。鎖を千切って逃げ出す体力は、さすがに残っておらぬだろう。その後、人払いをさせればよい―――)

 そこまで考えたところで、アルティスは意識を手放した。


 その頃リディは、「謝罪をする」と申し出たにも関わらず、何の反応もないまま半日以上放置されていることに、不安を感じ始めていた。

 寒さ、飢え、傷の痛み、全身の痺れ。すべての限界はとうに超えている。謝罪の申し出は、最後の足掻きだった。リディとしては、謝罪をする気など毛頭ない。ただ、このまま死を待つだけというのは耐えられなかった。何か事態を動かすためにリディができることは、皇太后の要求に応じる「謝罪」しか考えつかなかったのである。

 最大にして最期の賭け。謝罪を申し出るや否や射殺される可能性も覚悟した。それでも何かしなければ、何も動かない。だから、最期の力を振り絞って申し出たというのに。

 遠くに見える番兵が、リディに向ける銃口も、何ら変わりがない。

 諦めの気持ちが湧き上がる。が、諦めてはいけないと、己に鞭を打つ。

(皇太后は絶対に来る。私が泣いて謝罪する姿を見るために、必ず来る。だから私は、皇太后が来るまで何としても生きなければならない。生きなければ、何のためにここまで耐えてきたのかわからない。)

 そんなリディの耳に、ふと、人の声が聞こえた。

 声は、上の方から聞こえる。

 はじめは幻聴かと思った。

 しかし、耳を澄ませば澄ます程、これまで聞こえなかった音が聞こえてくる。

 何を言っているのかはわからないし、本当に人の声なのかもわからない。

 しかし、これまでと違う何かが、外で起こっている。

 そう確信したリディは、今一度両足に力を込め、最後の闘いに備えた。

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