8.加護の終わる日
台風が過ぎてから。
町が元の姿へ戻るまでには、少し時間がかかった。
倒れた木が撤去され。
冠水した道路が清掃され。
壊れた看板が直され。
床下まで水が入った家では、乾燥と消毒が続いた。
龍神社も例外ではない。
境内では何本かの木が折れ。
社務所の屋根の一部が傷み。
石段には大量の土と落ち葉が流れ込んだ。
それでも。
人が動けば。
町は少しずつ戻っていく。
「そこ持って!」
「重い!」
「高校生だろ!」
「高校生だからって何でも持てると思うなよ!」
休日になれば。
少年たち四人も神社の片付けを手伝った。
神主。
氏子。
近所の人。
台風の日に避難してきた人たち。
見覚えのある顔も。
知らない顔も。
たくさんの人がやって来た。
「これ、どこ置けばいいですか?」
「社務所の裏!」
「神主さん、こっちの板もう使えないよ!」
「分かった、まとめといてくれ!」
以前より。
神社に人が集まるようになった。
台風の日。
早く避難したおかげで助かった。
龍神様が守ってくれた。
そんな話が。
人から人へ。
少しずつ広がっていた。
「また参拝客増えたね」
少年が言う。
「誰のせいだと思ってる」
神主が答える。
「俺?」
「お前も一因だろうな」
「龍神様、ますます忙しくなるね」
「俺も忙しいんだよ」
「そっちは知らない」
「お前なあ」
そんな日々が続いた。
冬が来て。
春になった。
町の修理も進み。
最後まで工事が続いていた川沿いの道路が開通した頃。
ようやく。
「もう復旧したって言っていいだろうな」
神主がそう言った。
あの台風から。
季節が一つ以上過ぎていた。
少年は高校三年生になった。
そして。
十八歳になった。
「誕生日おめでとう」
朝。
母親が言った。
「ありがとう」
「もう十八かあ」
父親がしみじみと呟く。
「何?」
「いや。早いなと思って」
「何が?」
「お前が生まれてから」
「十八年経ったんだから十八年だろ」
「そういう意味じゃない」
父親が笑う。
「今日から成人だな」
「急に大人になった感じしないけど」
「そんなもんよ」
母親が言った。
「十八歳になった瞬間に中身まで大人になるわけじゃないんだから」
「じゃあ何が変わるの?」
「できることと、責任が増える」
「嫌な部分も増えるんだね」
「大人なんてそんなものよ」
いつもと変わらない朝だった。
学校へ向かう。
いつもの道。
いつもの町。
信号待ちをしていると。
「あ」
向かい側を歩いていた近所のおじいさん。
右膝に。
薄い黒いモヤ。
少年は。
もう驚かない。
少し意識を向ける。
――いなくなれ。
黒いモヤが消えた。
水の音は。
当然。
しない。
「……うん」
いつも通り。
それだけだった。
高校へ着けば。
「誕生日おめでとー」
親友が適当に言った。
「軽いな」
「十八だろ? 何か奢って」
「何で祝われる側が奢るんだよ」
彼女が笑う。
「成人おめでとう」
「ありがとう」
「これで犯罪したら実名報道?」
「誕生日にする話じゃなくない?」
サバサバした女子が言う。
「大人になった感想は?」
「朝も言われたけど、何も変わらない」
「能力は?」
「能力?」
「黒いやつ」
「ああ」
少年は少し考える。
「変わらない」
「龍神様から成人祝いとかないの?」
「知らないよ」
親友が言う。
「聞いてみろよ」
「今日、神社行くつもり」
「やっぱ行くんじゃん」
「氏神様だぞ。誕生日くらいお参りしていいだろ」
「お前の場合、友達に会いに行く感覚だろ」
「神様相手に失礼だな」
そう言いつつ。
少年自身も。
少しだけ。
そんな感覚になっていた。
放課後。
三人と別れ。
少年は一人で龍神社へ向かった。
夕方。
境内には数人の参拝客がいた。
社務所では神主が御守りを並べている。
「おう」
「ただいま」
「お前んちじゃない」
「前にも誰かに言われた気がする」
「今日は誕生日だったな」
「覚えてたの?」
「七五三から見てるからな」
神主が笑う。
「十八歳、おめでとう」
「ありがとう」
「もう大人か」
「みんなそれ言う」
「じゃあ、大人らしく手伝っていくか?」
「今日は帰る」
「大人になった途端冷たくなったな」
「参拝しに来たの」
少年は笑いながら拝殿へ向かった。
賽銭を入れる。
二礼。
二拍手。
目を閉じる。
何を願おう。
そう考えて。
少し笑った。
「みんなが」
昔と。
同じ。
「元気でいられますように」
そして。
「これからもよろしくお願いします」
頭を下げた。
――。
返事がない。
「龍神様?」
――。
「忙しい?」
少し待つ。
「今日、俺誕生日なんだけど」
――知っておる。
「いた」
少年は笑う。
「十八になったよ」
――そうだな。
「成人だって」
――人の世ではな。
「何それ。神様からしたらまだ子ども?」
少し。
間があった。
――否。
「え?」
龍神の声が。
いつもより。
静かだった。
――もうよかろう。
「何が?」
――我が加護よ。
少年は。
意味を理解するまでに。
少し時間がかかった。
「……え?」
――今日をもって。
龍神が言う。
――お前への加護を解く。
「ちょっと待って」
少年は。
思わず拝殿へ一歩近づいた。
「なんで?」
――必要がない。
「何か俺した?」
――何も。
「じゃあ何で」
――必要がないのだ。
少年は。
黙った。
胸の中に。
妙な不安が広がった。
「俺」
声が。
少しだけ。
小さくなる。
「厄、払えなくなるの?」
――払える。
「黒いのは?」
――見える。
「龍神様の声は?」
――それは加護とは関係ない。
「じゃあ」
少年は。
本当に分からなくなった。
「何がなくなるの?」
しばらく。
静寂。
夕方の境内。
鳥の声。
風。
そして。
龍神が言った。
――そもそも。
――お前が厄を見る力は。
――我が与えたものではない。
「……は?」
少年の口から。
間の抜けた声が出た。
「ちょっと待って」
――待っておる。
「いや、そういう意味じゃなくて」
少年は額を押さえる。
「俺、ずっと龍神様の力だと思ってたんだけど」
――知っておる。
「知ってて黙ってたの?」
――聞かれなんだからな。
「何回も聞いたよ!」
――我が加護によるものか、とは聞かれておらぬ。
「屁理屈!」
拝殿の奥から。
くつくつと。
笑い声が聞こえた。
「笑うなよ!」
――すまぬ。
「絶対思ってないだろ」
少年は。
深くため息をついた。
「じゃあ……」
ゆっくり整理する。
「七歳の頃から見えてた黒いモヤは?」
――お前が見ていた。
「消してたのは?」
――最初は我だ。
「最初は?」
――幼いお前には扱いきれぬ力であった。
少年は黙る。
龍神は続ける。
――故に。
――お前が厄を払おうと願うたび。
――我が力を添えた。
「水の音」
少年が呟く。
――そうだ。
――あれは我が力がお前へ触れた音よ。
七歳。
母親の肩。
――ざあっ。
父親。
友達。
自転車。
家。
道路。
黒いものを払うたび。
必ず聞こえた。
水の音。
「じゃあ」
少年は。
高校一年の頃を思い出す。
「水の音が小さくなったのは」
――我が力を必要としなくなっていたからだ。
「聞こえなくなったのは?」
――お前一人で払っていた。
少年は。
しばらく。
何も言えなかった。
「……マジか」
――まじ、とは何だ。
「いや、いい」
少年は頭を抱える。
「俺、本当に自分でやってたんだ」
――何度言えば理解する。
「だって龍神様が何も教えないから!」
――聞かれなんだから。
「それ禁止!」
また。
龍神が笑った。
「じゃあ」
少年は顔を上げる。
「あの台風のときは?」
――大半はお前だ。
「最後は?」
――少し手を貸した。
「少し?」
少年は白い巨大な龍を思い出す。
「めちゃくちゃ出てきたじゃん」
――あれは我が姿だ。
「昔よりでかくなってたし」
少し。
沈黙。
――それも。
「うん」
――お前のせいだ。
「やっぱり?」
少年が笑う。
――お前が厄を払い。
――我が名を伝え。
――救われた者が我へ感謝した。
――人が人へ語り。
――我を頼る者が増えた。
龍神の声が。
少しだけ。
柔らかくなる。
――信とは。
――神を育てるものでもある。
「じゃあ」
少年は。
少し考えた。
「俺、龍神様に守ってもらってただけじゃなかったんだ」
返事は。
すぐには来なかった。
やがて。
――うむ。
短い。
けれど。
はっきりとした答え。
少年は。
笑った。
「そっか」
少し。
嬉しかった。
七歳から。
十一年間。
ずっと。
自分だけが。
もらっていると思っていた。
守られ。
助けられ。
力を借りて。
でも。
ほんの少しでも。
返せていたらしい。
「それで」
少年が聞く。
「何で今日なの?」
――十八になった。
「それだけ?」
――人の世で。
龍神が言う。
――子どもが大人となる歳であろう。
「ああ」
――それに。
「何?」
――昨年。
――あの厄を己の力で退けた。
台風。
町を覆った巨大な黒。
自分で。
ほとんどを払った。
最後だけ。
龍神と並んだ。
――もう。
龍神が言う。
――我が守らずとも。
――お前は立てる。
少年は。
何も言えなかった。
なぜだろう。
胸の奥が。
少しだけ。
寂しい。
「そっか」
それしか。
出てこなかった。
――何だ。
「いや」
少年は笑おうとした。
「卒業みたいだなって」
――そのようなものよ。
「もう水の音、聞けないんだね」
――我が力を貸せば聞こえよう。
「また貸してくれることある?」
――さてな。
「そこはあるって言ってよ」
龍神は答えない。
少年は。
少しだけ。
俯いた。
「龍神様」
――何だ。
「今まで」
言葉を探す。
でも。
そんな難しいことを言う必要もないと思った。
「ありがとう」
ただ。
それだけ。
七歳のあの日。
何も知らなかった自分を。
守ってくれた。
十一年間。
ずっと。
――こちらこそ。
「え?」
少年が顔を上げる。
龍神の声。
――よく。
少し。
間。
――我が加護を。
――己が欲のために使わなんだ。
「自分のため?」
――富。
――名。
――人の心。
――望めば。
――得る術はいくらでもあった。
「……え?」
少年は。
瞬きをした。
「そんなことできたの?」
――できたとも。
「宝くじとか?」
――程度にもよる。
「株とか?」
――厄の流れを読めば。
――大損を避けるくらいは容易であろう。
「……」
少年は。
黙った。
「今それ言う?」
――惜しくなったか。
「ちょっとだけ!」
龍神が。
声を上げて笑った。
「笑うなって!」
少年も。
結局。
一緒に笑った。
「まあ」
笑い終えて。
少年は言う。
「いいや」
――ほう。
「金持ちになるより」
境内を見る。
神主。
参拝客。
町。
友達。
家族。
「みんな無事だったほうがいい」
長い。
静かな。
沈黙。
そして。
――そうか。
龍神は。
それだけ答えた。
少年は。
もう一度。
手を合わせる。
「じゃあ」
――うむ。
「これでお別れ?」
――何を言っておる。
「え?」
――我は。
龍神の声が。
少し呆れる。
――この地の氏神ぞ。
「……うん」
――お前も。
――この地の氏子であろう。
「うん」
――ならば。
――参れ。
少年は。
思わず笑った。
「加護がなくなるだけ?」
――最初からそう言っておる。
「じゃあ明日来てもいい?」
――好きにせよ。
「明後日は?」
――好きにせよ。
「来週は?」
――しつこい。
「よかった」
少年は。
本当に。
安心した。
「じゃあ、また来る」
――うむ。
少年は。
頭を下げる。
振り返る。
石段へ向かう。
その途中。
「あ」
神主が。
社務所の前で。
肩を回していた。
「痛い?」
「ん?」
「肩」
「ああ。最近ちょっとな。歳かねえ」
右肩。
薄い。
黒いモヤ。
少年は。
それを見る。
龍神の加護は。
もうない。
少し。
緊張した。
「よくなりますように」
七歳の頃と。
同じように。
願う。
黒いモヤが。
すうっと。
消えた。
水の音は。
しない。
「……」
神主が。
肩を回す。
「あれ?」
「どうしたの?」
「なんか軽くなったな」
少年は。
笑った。
「よかったね」
「お前、何かしたか?」
「なんとなく」
そう答えて。
石段を下りる。
十一年前。
三歳の頃から。
何度も使ってきた。
あの言葉。
でも。
もう。
意味は少し違っていた。
十八歳。
その日。
龍神の加護は。
静かに。
少年から離れた。
けれど。
少年は。
何一つ。
失わなかった。
厄を見る目も。
それを払う力も。
誰かの無事を願う心も。
全て。
もう。
彼自身のものだった。




