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7.夜明け

 ――ならば、為せ。


 龍神の声が消えた。


 少年は拝殿の軒下で、スマートフォンの画面を見つめていた。


 外では激しい雨が境内を叩いている。


 高校二年の秋。


 大型の台風が町へ迫る中、少年の目には、町を覆う巨大な厄が見えていた。


 そして今。


 氏神である龍神社には、多くの人が避難している。


 少年自身も、両親と一緒にすでにここへ移っていた。


 母親は社務所で避難してきた人へタオルを配り。


 父親は氏子たちと一緒に、集会所へ毛布や水を運んでいる。


 神主は町内会と連絡を取りながら、ひっきりなしに境内を動き回っていた。


 少年の呼びかけをきっかけに。


 友人が友人へ伝え。


 その家族が近所へ伝え。


 神主と町内会が動き。


 早めに避難した人が増えるたび。


 町を覆っていた黒いモヤは、少しずつ薄くなっていった。


 少年が祓ったわけではない。


 人が自分から厄を避けたのだ。


 それを知っただけでも。


 少年にとっては大きな発見だった。


 けれど。


「……まだある」


 スマートフォンの地図。


 その一角だけ。


 真っ黒な塊が残っている。


 川沿いの古い住宅地。


 周囲の人はかなり避難しているはずなのに。


 黒いモヤは消えない。


 それどころか。


 雨が強くなるほど、脈打つように膨れ上がっていた。


「何なんだよ、これ……」


 人が逃げれば消える厄。


 それなら、もう薄くなってもいいはずなのに。


 先ほど龍神へ尋ねた。


 返ってきた答えは。


 ――ならば、為せ。


「簡単に言ってくれるなあ」


 少年はぼやいた。


 そのとき。


 スマートフォンが震えた。


 四人のグループチャットだった。


『着いた』


 親友。


 続けて。


『私もいる』


 中学二年の頃に初恋をした彼女。


『というか三人一緒』


 その親友である、サバサバした女子。


「来たんだ」


 少年は社務所のほうを見る。


 人の間を縫うように歩いていくと。


「おーい」


 手を振る親友がいた。


 三人とも家族と一緒に避難してきたらしい。


 多少濡れてはいるものの、元気そうだった。


「大丈夫だった?」


「こっちの台詞だよ」


 親友が答える。


「お前、朝から町が真っ黒とか言い出すし」


「事実だから仕方ないだろ」


「まだ黒い?」


 彼女が尋ねる。


「うん」


 少年はスマートフォンを見せた。


 もちろん。


 三人に黒いモヤは見えない。


「この辺」


 指で示す。


「川沿い?」


「そう」


 サバサバした女子が自分のスマートフォンを取り出す。


「水位、かなり上がってる。上流もまだ雨量増える予報」


「避難は?」


「町内会でも確認してるみたい」


 親友が言った。


「昔神社で遊んでた連中にも連絡したぞ」


「本当に?」


「何人か返事きた」


「なんて?」


 親友が画面を見せる。


『あいつって、昔から勘おかしいくらい当たるやつだろ?』


『家族に言った。神社行く』


『うちも婆ちゃん連れてく』


 少年は少しだけ笑った。


「覚えてるんだ」


「そりゃ覚えてるだろ」


 親友が言う。


「俺だって何回助けられたと思ってんだよ」


「数えてない」


「助けた側はそうだろうな」


 その言葉が。


 妙に胸に残った。


 しばらくして。


「おい」


 後ろから声をかけられた。


 振り向く。


 少し懐かしい顔があった。


 幼い頃。


 この神社でよく一緒に遊んでいた少年だった。


 小学校が別になり。


 中学も違い。


 いつしか顔を合わせることもなくなった。


「久しぶり」


「……久しぶり」


「本当にお前だったんだな」


「何が?」


「ヤバいから逃げろって言ってるやつ」


「ああ」


 相手は笑う。


「まだ『なんとなく』って言ってんの?」


「今回はなんとなくじゃない」


「じゃあ何」


「町が真っ黒」


 一瞬。


 沈黙。


「それ、昔より怖くなってない?」


「俺もそう思う」


 二人で笑った。


「でも」


 昔の友人が境内を見回す。


「お前が言ってるって聞いたから来た」


「俺?」


「忘れた?」


「何を?」


「小さい頃さ。川行くのやめろって言っただろ」


「……あったっけ」


「あったよ。次の日めちゃくちゃ増水してた」


「へえ」


「へえ、じゃねえよ」


 笑いながら。


 少しだけ真面目な顔になる。


「木登ってるときに降りろって言われたこともある」


「ああ、それは何となく覚えてる」


「そのすぐあと、枝折れた」


「そうだったね」


「だから」


 昔の友人は言った。


「親には説明できなかったけど」


 少し照れくさそうに。


「お前が危ないって言うなら、逃げたほうがいいって思った」


 少年は。


 何も言えなかった。


「じゃあ、家族のとこ戻るわ」


「うん」


「あ」


「何?」


「ありがとな」


「まだ何も終わってないよ」


「じゃあ、終わったらもう一回言う」


 昔の友人は笑って戻っていった。


「……すごいね」


 彼女が言った。


「何が?」


「あんたが昔助けた人たち」


「俺、そんな大したことしてないけど」


「それ決めるの、助けられた側だから」


 中学二年の頃。


 彼女自身が事故を避けた。


 その言葉には。


 少年も何も返せなかった。


 外では。


 雨がますます強くなっていた。


 神主が駆け込んでくる。


「川の水位、また上がった!」


「どの辺?」


 少年が尋ねる。


「堤防が古い地域だ。念のため周辺の家は全部避難を確認してる」


 少年は地図を見る。


「……そこだ」


「黒いのか?」


「うん」


 神主の表情が険しくなる。


「まだ消えない?」


「むしろ濃くなってる」


「そうか」


 神主は少し考え。


「避難は大人たちが続ける」


「うん」


「お前は?」


 少年は。


 黒い塊を見る。


「何とかしてみる」


「できるのか?」


「分かんない」


 正直に答えた。


「でも、龍神様にやれって言われた」


 神主が苦笑する。


「なら仕方ないな」


「そこ信じるんだ」


「六歳のお前に車へ乗るなと言われてから、散々見てきたからな」


 そして。


「無茶だけはするなよ」


「分かった」


 神主は再び避難者のところへ戻っていった。


「で」


 親友が腕を組む。


「何する?」


「俺が祓う」


「一人で?」


「今までもそうしてきたし」


「今回の大きさ違うんだろ」


「……うん」


「じゃあ俺らは?」


「何もできないよ」


「それはお前が決めること?」


 彼女に言われる。


「いや……」


「朝から私たち、何してた?」


「連絡」


「それで?」


「人が避難した」


「黒いのは?」


「……消えた」


 サバサバした女子が言う。


「だったら、私たちも役には立つでしょ」


「今残ってるやつは、それじゃ消えない」


「じゃあ」


 親友が少年の肩を叩く。


「横にいるくらいはできる」


「それ意味ある?」


「気分」


「ないじゃん」


「うるさい」


 少年は笑った。


 四人で。


 拝殿へ向かった。


 外へ出る必要はない。


 軒下から。


 町の方角を見る。


 激しい雨。


 暗い空。


 強い風。


 自然そのものには。


 邪悪なものなど何もない。


 ただ。


 そこから生まれようとしている厄だけが。


 少年には見える。


「龍神様」


 ――何だ。


「さっき、為せって言ったよね」


 ――言った。


「消えないんだけど」


 ――そうか。


「手伝ってよ」


 少し。


 間があった。


 ――まずは己で為せ。


「やっぱりそう言うと思った」


 少年はため息をつく。


「龍神様、今日厳しくない?」


 ――十年前のお前ならば、我が手を取らねば何もできなんだ。


「七歳なんだから当たり前だろ」


 ――ならば。


 龍神の声が。


 静かに響く。


 ――今のお前は、どうだ。


 少年は。


 黙った。


 七歳の頃。


 母親の肩についた。


 小さな黒いモヤ。


 よくなりますように。


 そう願った。


 その瞬間。


 大きな水の音がした。


 それから十年。


 水の音は。


 少しずつ。


 小さくなった。


 高校に入って。


 ついには。


 聞こえなくなった。


 それでも。


 厄は消えた。


「……やってみる」


 ――うむ。


 少年は目を閉じた。


 黒いものを。


 感じる。


 川。


 住宅地。


 家。


 道路。


 人。


 その全てへ。


 押し寄せようとしている。


 巨大な厄。


「いなくなれ」


 願う。


 黒い塊が。


 揺れた。


「……動いた」


 少年が呟く。


「消えた?」


 親友。


「全然」


 もう一度。


「いなくなれ」


 黒いモヤの端が。


 少しだけ崩れた。


「いける」


 彼女が言う。


「見えるの?」


「見えない。でも、あんたの顔見れば分かる」


「そっか」


 少年は。


 もう一度。


 強く。


「この町から、いなくなれ」


 黒い塊が。


 激しく揺れる。


 頭が痛い。


 胸が苦しい。


 それでも。


 祓える。


 自分で。


「……俺が」


 少年は。


 初めて。


 はっきりと理解した。


「俺が、消してる」


 水の音はしない。


 龍神の力が。


 前へ出てこない。


 それでも。


 黒いモヤは。


 自分の願いに応えて崩れていく。


「今さら気づいたの?」


 サバサバした女子が言う。


「うるさいな」


「ずっと言ってたじゃん」


「俺は普通の人間だと思ってたんだよ」


「普通の人間は町の厄を祓わない」


「それはそうかも」


 笑った。


 少しだけ。


 力が抜ける。


 そして。


 周囲を見る。


 両親がいる。


 神主がいる。


 三人がいる。


 昔の友人がいる。


 避難してきた人たちがいる。


 この町には。


 まだ知らない人だって。


 たくさんいる。


 七歳のあの日。


 少年は。


 何を願った。


「みんなが」


 静かに。


「ひどい目に遭いませんように」


 十年前と。


 何も変わらない。


「痛かったり」


 黒いものが崩れる。


「怖かったり」


 さらに。


「悲しかったり」


 少年は。


 強く息を吸った。


「そんなことが」


 黒い塊を見る。


「できるだけ」


 そして。


 命じた。


「ありませんように!」


 黒いモヤが。


 大きく裂けた。


 少年自身の力で。


 巨大な厄が。


 崩れていく。


 けれど。


「くっ……!」


 中心。


 まだ。


 残っている。


 大きい。


 これ以上。


 力を込めれば。


 自分が先に倒れそうだった。


「おい、大丈夫か?」


 親友が支える。


「大丈夫……」


「大丈夫な顔じゃない」


「でも、あと少し」


 少年は。


 再び前を見る。


「いなくなれ……!」


 黒い塊。


 動く。


 でも。


 消えない。


「龍神様」


 少年が呟く。


「あと少しだけ」


 返事はない。


「俺、一人じゃ無理みたい」


 少し。


 間。


「だから」


 少年は笑った。


「手伝って」


 その瞬間。


 ――ざあ。


「……え?」


 水の音。


 久しぶりに。


 はっきりと聞こえた。


 ――ざあああ。


 強くなる。


「龍神様?」


 ――何だ。


「手伝ってるじゃん」


 ――さてな。


「今さら誤魔化すなよ」


 ――ざあああああああっ!


 轟音。


 滝。


 川。


 海。


 あらゆる水が。


 一度に流れ込んでくるような音。


 少年の目の前に。


 白いものが現れた。


 長い身体。


 白い鱗。


 大きな角。


 金色の目。


 七歳の頃。


 一瞬だけ見た。


 白い龍。


 けれど。


「あれ?」


 少年は目を見開く。


「龍神様」


 龍が。


 こちらを見る。


「……昔より大きくない?」


 一瞬。


 沈黙。


 ――誰のせいだと思っておる。


「やっぱり俺!?」


 水音が。


 さらに大きくなる。


 白い龍が。


 巨大な黒へ。


 飛び込んだ。


 少年も。


 もう一度願う。


「いなくなれ!」


 人の力。


 神の力。


 二つが。


 同じ厄へ。


 ぶつかった。


 黒い塊が。


 裂ける。


 崩れる。


 流される。


 けれど。


 全ては。


 消えなかった。


 町には。


 薄い黒い霧が残っている。


「……残ってる」


 少年が言う。


 ――当然よ。


「なんで?」


 ――台風を祓うことはできぬ。


 龍神の声。


 ――風は吹く。


 ――雨は降る。


 ――川は増える。


 ――木も倒れよう。


「それは」


 少年が。


 もう理解していた。


「厄じゃない」


 ――うむ。


「じゃあ、残ってるのは?」


 ――人が避けきれぬもの。


 少し。


 間。


 ――だが。


 龍神が言う。


 ――避けられる厄は。


 ――十分に払った。


 少年の身体から。


 一気に力が抜けた。


「……疲れた」


 その場へ座り込む。


「おい!」


「大丈夫!?」


 三人が駆け寄る。


「大丈夫」


「黒いのは?」


「ほとんどない」


 親友が。


 大きく息を吐いた。


「じゃあ」


「うん」


 少年は笑う。


「もう、俺たちにできることはやった」


 その夜。


 台風は町の近くを通過した。


 風は吹いた。


 雨は降った。


 川も増水した。


 木が倒れた。


 停電も起きた。


 床下へ水が入った家もあった。


 瓦が飛んだ。


 道路も冠水した。


 何も起きなかったわけではない。


 自然は。


 神にも。


 人にも。


 止められない。


 それでも。


 早く避難した人がいた。


 危険な道を通らなかった人がいた。


 家族や近所の人へ声をかけた人がいた。


 そして。


 大きな人的被害は。


 出なかった。


 長い夜が終わる。


 雨音が。


 少しずつ弱くなった。


 朝。


 少年は拝殿の軒下から。


 町を見た。


 濡れた屋根。


 増水した川。


 折れた枝。


 雲の切れ間から。


 淡い光が差している。


「おはよ」


 声。


 振り返る。


 三人がいた。


「寝た?」


「ちょっと」


「俺ほぼ寝てない」


「いびき聞こえたけど」


「嘘つけ」


 いつもの会話。


 それだけで。


 妙に嬉しかった。


「で」


 彼女が尋ねる。


「黒いのは?」


 少年は。


 町を見る。


 目を凝らす。


 昨日まで。


 あれほど町を覆っていた。


 黒いもの。


 もう。


 どこにも。


 見えない。


「ない」


「本当に?」


「うん」


 少年は笑った。


「もうないよ」


 三人が。


 安心したように笑った。


 そのとき。


「起きてんなら手伝えー!」


 境内から神主の声が飛んできた。


「ひどいぞ、これ!」


 見る。


 境内は。


 落ち葉。


 折れた枝。


 飛んできたゴミ。


 ひどい有様だった。


「現実に戻された」


 親友がぼやく。


「行こうか」


 四人で箒を取りに行った。


 掃いていると。


 一人。


 また一人。


 避難していた人たちが外へ出てきた。


「手伝います」


「俺も」


「これ運べばいいですか?」


 昔の友人も。


 その家族も。


 少年の両親も。


 氏子も。


 近所の人も。


 いつの間にか。


 大勢で境内を片付けていた。


「すごいな」


 少年が呟く。


「何が?」


 親友。


「いや」


 少年は箒を動かしながら。


 笑う。


「みんな、ちゃんといるなって」


「そりゃいるだろ」


「そうだね」


 少し離れたところで。


 神主が枝を集めていた。


「神主さん!」


「何だ!」


「昨日」


 少年は社殿を見る。


「龍神様、町守ってくれたよ」


 神主は。


 少しだけ手を止めた。


「そうか」


「うん」


「なら、お礼しないとな」


「何する?」


 神主が。


 散らかった境内を指さした。


「まず掃除だ」


「神様へのお礼が掃除?」


「神様だって汚い神社より綺麗なほうがいいだろ」


「それもそうか」


 少年は笑った。


 そのとき。


 ――違う。


「え?」


 少年だけが。


 顔を上げる。


 ――昨夜。


 ――町を守ったのは。


 龍神の声。


 ――我だけではない。


 少年は。


 周囲を見た。


 神主。


 両親。


 三人。


 昔の友人。


 避難してきた人。


 危険を伝えた人。


 それを信じた人。


 誰かの手を引いて逃げた人。


 避難所を開けた人。


 水や毛布を運んだ人。


 みんな。


 自分にできることをした。


 少年が払う前に。


 その行動だけで。


 いくつもの厄が。


 消えていた。


「……そうだね」


 少年は。


 小さく笑った。


「みんなで避けたんだ」


 返事はなかった。


 でも。


 それで十分だった。


 少年は。


 箒を握り直した。


 鳥居の向こうから。


 朝日が差し込む。


 十七歳の秋。


 龍神に守られていた少年は。


 この夜。


 初めて。


 龍神と並んで。


 誰かを守った。


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