6.町を覆う厄
高校二年の秋。
朝から、雨が降っていた。
窓を叩く雨粒は時間を追うごとに大きくなり、時折、強い風が家そのものを揺らす。
大型の台風が接近していた。
昨夜のうちに学校から連絡が入り、今日は休校。
少年はリビングのソファに寝転がりながら、ぼんやりとテレビを眺めていた。
『大型で非常に強い台風は、今夜から明日未明にかけて――』
画面には台風の進路予想図。
「こりゃ外出られないな」
父親が言う。
「今日は大人しくしてなさいよ」
母親も念を押した。
「分かってるよ」
少年も、こんな日にわざわざ外へ出るつもりはない。
窓の外を見る。
風。
雨。
黒い雲。
それだけなら、いつもの台風だった。
少なくとも。
そのときまでは。
『続いて、今後予想される雨量です』
テレビの画面が切り替わった。
県内の地図。
色分けされた降水予想。
「……え?」
少年が身体を起こした。
地図の一角。
自分たちの町。
そこが。
真っ黒だった。
「何これ」
目を擦る。
変わらない。
テレビの表示ではない。
雨量を示す色の上を。
黒いモヤが覆っている。
今まで見たどんな厄よりも。
遥かに大きい。
「……嘘だろ」
少年はリモコンを取った。
別の番組。
同じ地域の天気図。
黒い。
スマートフォンを取り出す。
地図アプリを開く。
「……見える」
そこにも。
町の一角を覆う巨大な黒いモヤがあった。
胸の奥が冷える。
今まで。
人についている厄を見た。
車。
家。
道路。
時には、何人もの人へ影響する厄もあった。
けれど。
町が黒い。
そんなものは初めてだった。
少年はすぐに、四人のグループへメッセージを送った。
『やばい』
数秒。
『何が』
親友。
『台風?』
彼女。
『休校なんだから寝てなよ』
その親友。
少年は入力する。
『黒いのが見える』
返信が止まった。
数秒後。
『どこ』
サバサバした女子からだった。
『町』
『町?』
『町が真っ黒』
今度は誰も冗談を返さなかった。
『またなんとなく?』
親友。
少年は地図を見た。
蠢いている。
黒い。
嫌だ。
怖い。
今までとは桁が違う。
『違う』
『今回ははっきり見える』
『何とかしないとまずい』
すぐに通話が始まった。
「どこが一番ヤバい?」
最初に聞いたのは、サバサバした女子だった。
「ちょっと待って」
少年は地図を拡大する。
黒いモヤは町全体に均一に広がっているわけではない。
「川の近く」
「やっぱり?」
「あと駅の南側。低いところ」
「アンダーパスある辺り?」
「うん。そこ黒い」
「他は?」
「……神社の裏のほうも少し」
「山?」
「多分」
彼女が言う。
「ハザードマップ調べよう」
「ハザードマップ?」
「台風なんでしょ? あんたの黒いのと普通の危険箇所が一致するか確認する」
三人が同時に調べ始めた。
「川沿い、浸水想定区域」
「駅南のアンダーパス、過去に冠水してる」
「神社の裏、土砂災害警戒区域入ってるよ」
少年は黙った。
全部。
黒い。
「……合ってる」
「じゃあ台風そのものじゃなくて」
彼女が言う。
「台風で起きそうな事故が見えてるんじゃない?」
「かもしれない」
少年は黒いモヤを睨んだ。
「消してみる」
いつものように。
強く願う。
――いなくなれ。
……。
黒いモヤが。
僅かに揺れた。
でも。
消えない。
「ダメだ」
「消せない?」
「全然」
親友が黙る。
「龍神様は?」
少年は窓の外を見る。
氏神様までは歩いて十分ほど。
でも。
外はもう強い雨。
「行けない」
「行くなよ」
三人からほぼ同時に言われた。
「分かってる」
少年は神主へ電話をかけた。
『はい』
「神主さん」
『おう。今日は遊びに来るなよ』
「行かないよ」
『ならいい』
「聞きたいことがある」
少年の声色で。
神主も気づいたらしい。
『……何か見えたか』
「町が黒い」
沈黙。
『どれくらい』
「今まで見た中で、一番」
神主は。
それ以上、少年を疑わなかった。
『分かった』
「え?」
『町内会に連絡する』
「ちょっと待って。まだ何が起こるか――」
『六歳の子どもに車へ乗るなと言われて、生き延びた男だぞ』
少年は言葉を失った。
『お前がそこまで言うなら、何かあるんだろ』
「……うん」
『神社は高い場所にある。社務所と集会所を開ける』
「避難場所にするの?」
『もともと災害時には使えるようにしてある。正式な避難所が遠い年寄りもいるからな』
神主が続ける。
『あとは大人に任せろ』
「俺も何かする」
『外へは出るな』
「分かってる」
『なら好きにしろ』
電話が切れた。
少年は再び三人へ伝える。
「神社を開けてくれる」
「じゃあ人をそっちに逃がそう」
親友が即答した。
「お前、昔神社で遊んでた連中の連絡先ある?」
「何人かは」
「俺もある」
親友が言う。
「小学校別れてから会ってないやつもいるけど」
「連絡して」
「何て?」
「……危ないから逃げろって」
「お前の名前出していい?」
少年は少し迷う。
「いいよ」
「了解」
親友が動いた。
彼女も。
「私、事故のときの話していい?」
「嫌だけど」
「じゃあ話すね」
「聞けよ!」
「だって説得力あるもん」
もう一人の女子は。
「私は普通にハザードマップ送る」
「普通に?」
「『霊感ある友達がヤバいって言ってます』で全員動くわけないでしょ」
「それはそう」
「浸水区域です。避難情報も出る可能性高いです。神社開いてます。これなら普通の人も動く」
「頼む」
少年は地図を見る。
黒いモヤ。
その一部が。
「……あれ?」
「何?」
「少し薄くなった」
「消したの?」
「何もしてない」
少年は拡大する。
川沿いの住宅地。
さっきより黒さが薄い。
親友からメッセージが来る。
『昔一緒に遊んでたやつ覚えてる?』
『家族で神社行くって』
少年は目を見開いた。
「人が避難した場所……薄くなってる」
三人が黙る。
サバサバした女子が言った。
「じゃあ」
「うん」
少年は地図を見る。
「厄って、祓わなくても消えるんだ」
危険な場所から離れれば。
事故そのものが起きなくなる。
少年が祓う必要すらない。
「もっと連絡しよう」
親友が言った。
そこからは。
四人で必死になった。
昔の友達。
クラスメート。
近所の人。
部活の先輩。
親同士の繋がり。
『○○神社開いてるって』
『川沿いなら早めに動いたほうがいい』
『避難指示出てからじゃ遅いよ』
『あいつがヤバいって言ってる』
昔。
神社で一緒に遊んでいた子から返事が来た。
『あいつって、あの勘が当たるやつ?』
親友が。
『それ』
すぐに。
『分かった。親に言う』
さらに。
『昔こいつに公園で助けられたことある』
『うちのばあちゃんにも言っとく』
連絡が。
人から人へ広がっていく。
そして。
黒いモヤが。
少しずつ。
薄くなっていった。
夕方。
自治体から避難情報が出された。
神社には。
何十人もの人が集まっていた。
高齢者。
子ども連れ。
近所の住民。
神主と氏子たちが毛布や飲み物を配っている。
少年の両親も手伝いに行った。
四人も。
家が安全な者は自宅から連絡を続けた。
少年は。
地図を見ていた。
「かなり消えた」
町を覆っていた黒いモヤの大部分が。
もうない。
でも。
一か所。
まだ。
真っ黒なものが残っていた。
川と。
古い住宅地。
その境目。
地図の上で。
黒い塊が脈打っていた。
「……これ」
胸がざわつく。
今までとは違う。
人が避難しても。
消えない。
むしろ。
雨が強くなるにつれて。
大きくなっている。
「まだあるの?」
彼女が尋ねた。
「うん」
「どこ?」
「川の近く」
「人は?」
「かなり避難してる」
「じゃあ何で消えないの?」
「分からない」
少年は。
窓の外を見た。
空は。
真っ黒だった。
そして。
遠く。
氏神様のある方角を見る。
「龍神様」
返事はない。
「見えてるんでしょ」
しばらく。
雨音だけ。
やがて。
久しぶりに。
はっきりとした声が届いた。
――見えておる。
「これ何?」
――厄よ。
「台風の?」
――否。
龍神の声が響く。
――台風は、ただの風と雨よ。
「じゃあ」
――その風雨により生じる、人の厄が集まっておる。
少年は。
黒い塊を見つめた。
「これ」
静かに。
「俺たちで、何とかできる?」
少し。
間があった。
――さてな。
「こんなときまでそれ?」
――ならば問おう。
「何?」
――お前は、どうしたい。
少年は。
迷わなかった。
「消したい」
――なぜ。
「みんながいるから」
家族がいる。
友達がいる。
神主がいる。
昔一緒に遊んだ人たちがいる。
知らない人だって。
この町には。
たくさんいる。
「誰も」
少年は言った。
「ひどい目に遭ってほしくない」
七歳の頃。
氏神様の前で。
同じようなことを願った。
あの頃と。
何一つ。
変わっていなかった。
しばらくして。
龍神が。
小さく笑った。
――ならば。
――為せ。




