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5.遠ざかる水音

 高校へ進学しても、少年の日常はそれほど変わらなかった。


 朝は自転車で学校へ行き、授業を受け、放課後になればいつもの四人で帰る。


 中学から一緒の親友。


 一度は好きになり、今ではすっかり気の置けない友人となった女子。


 そして、その親友のさっぱりした性格の女子。


 制服こそ変わったが、四人の関係は中学生の頃とほとんど同じだった。


 そして少年には、もう一つ変わらないものがある。


 黒いモヤが見えれば、放っておけない。


「ちょっと待って」


 高校へ入学して間もない、ある日の帰り道だった。


 三人が足を止める。


「何?」


「あれ」


 少年が指さした先には、道路脇に停められた原付があった。


 後輪の辺りに薄い黒いモヤがまとわりついている。


「また黒いやつ?」


 親友が尋ねた。


「うん。そんなに濃くないけど」


 少年は目を凝らした。


 昔は、黒いモヤを見ても何が起こるのかまでは分からなかった。


 けれど最近は少し違う。


「……事故っていうより、壊れる感じかな」


「そこまで分かるようになったの?」


 女子の一人が感心する。


「最近なんとなくね」


「便利になったじゃん」


「便利っていうのかな」


 少年は苦笑し、モヤへ意識を向けた。


 ――いなくなれ。


 ――ざあ……。


 水の音とともに、黒いモヤが消えた。


「消えた?」


「うん」


「じゃあ大丈夫だな」


 親友はそれだけ言って歩き出す。


 小学生の頃から少年の妙なカンに何度も助けられてきた彼にとって、もはや珍しいことではなかった。


 少年もその後を追う。


 ただ。


 一度だけ振り返った。


 ――今の、ずいぶん小さかったな。


 龍神の力が働くとき、必ず聞こえていた水の音。


 七歳の頃は、川がすぐ横を流れているようだった。


 強い厄を祓えば、滝のような音が耳の奥へ響いたこともある。


 けれど。


 高校生になってから、その音が妙に遠くなっていた。


 最初は気のせいだと思った。


 五月。


「それ、今日は乗らないほうがいいよ」


 同じクラスの男子の自転車にモヤを見つけた。


 ――いなくなれ。


 ――ざ……。


 消えた。


 翌日、男子から、


「後ろのブレーキ、ワイヤー切れかけてたわ」


 と言われた。


 六月。


「左肩、痛くない?」


「なんで分かったの?」


 クラスメートの女子。


 肩に薄いモヤがある。


 ――いなくなれ。


 ……。


 モヤは消えた。


 けれど、水の音はほとんど聞こえなかった。


 七月。


 今度は、まったく聞こえなかった。


「……あれ?」


 それでも。


 黒いモヤは、ちゃんと消えていた。


 少年には、そのことのほうが不気味だった。


 夏休みに入った頃。


 少年は久しぶりに一人で氏神様へ向かった。


 近頃、神社は以前より少し賑やかになっている。


 平日の昼間だというのに、社務所の前には数人の参拝客がいた。


「厄除けお願いします」


「はい。次の祈祷は三十分後になりますので」


 神主が忙しそうに受付をしている。


 少年が顔を出すと、神主が疲れた顔で手を上げた。


「おう」


「忙しそうだね」


「最近なぜか厄除けが増えてなあ」


「いいことじゃん」


「ありがたいけどな。去年より明らかに多いぞ」


「龍神様、人気出たんじゃない?」


「口コミってやつかねえ」


 神主は笑う。


「事故を避けたとか、病気が早く見つかったとか、家の修理をしたら大事になる前だったとか。そんな話が妙に増えてるんだよ」


「へえ」


「『厄除けならここの龍神様』なんて言われてるらしい」


「昔からそうじゃなかった?」


「地元じゃな。最近は隣町からも来る」


「龍神様、すごいな」


 少年は素直に感心した。


 神主は何とも言えない顔をした。


「お前が言うと妙だな」


「何で?」


「いや。何でもない」


 少年には意味が分からなかった。


 参拝客が帰ったあと。


 少年は拝殿の前で手を合わせた。


「龍神様」


 返事はない。


「龍神様ー」


 返事はない。


「いる?」


 しばらくして。


 ――騒がしい。


「いた」


 少年はほっとした。


 ――我はいつもおる。


「じゃあ返事してよ」


 ――暇ではない。


「神様って暇じゃないの?」


 ――以前よりはな。


「神主さんも言ってた。最近、参拝客増えたんだって?」


 少し間があった。


 ――誰のせいだと思っておる。


「え?」


 少年は周囲を見回した。


「神主さん?」


 ――違う。


「町内会?」


 ――違う。


「……龍神様?」


 深いため息のような水音がした。


 ――お前だ。


「俺?」


 まったく心当たりがない。


「なんで?」


 ――お前はこれまで、いくつの厄を払った。


「知らないよ。数えてないし」


 ――であろうな。


 龍神の声には、呆れが混じっていた。


 ――厄を逃れた者が感謝する。


 ――感謝した者が我へ参る。


 ――また別の者へ話す。


 ――そして、その者も参る。


「ああ……」


 少年にもようやく分かった。


「俺、龍神様のおかげって結構言ってるかも」


 ――知っておる。


「だって本当だし」


 ――……そうか。


「だから龍神様、忙しくなったの?」


 ――以前よりはな。


「ごめん」


 思わず謝った。


 しばらく沈黙。


 ――なぜ謝る。


「忙しくしちゃったから」


 今度は。


 水が流れるような、低い笑い声が聞こえた。


 ――信を寄せられて迷惑がる神がおるものか。


「じゃあ、いいことなんだ」


 ――悪くはない。


「そっか」


 少年は安心した。


 だが。


 今日ここへ来た理由は、もう一つある。


「龍神様」


 ――何だ。


「最近、水の音が聞こえない」


 しばらく返事がなかった。


「前は厄を払ったら、必ず聞こえたじゃん」


 ――そうだな。


「春くらいからどんどん小さくなって、今はほとんど聞こえない」


 ――それで。


「それでって……」


 少年は眉を寄せる。


「厄は消えるんだよ」


 ――ならば問題あるまい。


「あるよ」


 少年は即答した。


「龍神様との繋がりが弱くなってるんじゃないかって思うだろ」


 一瞬。


 龍神が言葉を失ったような気配がした。


 ――……。


「もしかして、参拝客が増えすぎて力足りなくなってる?」


 ――我を何だと思っておる。


「厄除けの神様」


 ――ならば案ずるな。


「じゃあ何で?」


 ――いずれ分かる。


「またそれ?」


 ――それで十分だ。


「全然十分じゃないんだけど」


 だが。


 それきり龍神は答えなかった。


 秋。


 水の音は完全に聞こえなくなった。


 それなのに。


 少年の力は弱くなるどころか、以前よりもはっきりしていった。


「お前さ」


 昼休み。


 親友がパンをかじりながら言った。


「前より分かること増えてない?」


「やっぱそう思う?」


「思う」


「俺も」


 少年は窓の外を見る。


「昔は黒いのがあるってだけだったんだけど。最近、何となく種類が違うのも分かる」


「種類?」


「怪我しそうとか、病気っぽいとか、物が壊れるとか」


「それもう予知じゃん」


「未来が見えるわけじゃないよ」


 少年は首を振る。


「ただ、厄がどっちへ行こうとしてるか分かる感じ」


「ふーん」


 親友は少し考える。


「で、水の音は?」


「聞こえない」


「龍神様とは?」


「神社行けば話せる」


「なら問題なくね?」


「お前までそれ言う?」


 そこへ女子二人も加わった。


「何の話?」


「こいつの龍神様離れ」


「離れてない」


 少年が否定する。


 初恋だった彼女が笑う。


「でも、水の音なしで払えるんでしょ?」


「うん」


「だったらさ」


 隣のサバサバした女子が言った。


「それ、もうあんた自身の力なんじゃないの?」


「……は?」


 三人が少年を見る。


「いやいや」


 少年は笑った。


「俺、普通の人間だから」


「黒いモヤ見えてる人が何言ってんの」


「それは昔からだから」


「厄を消せるのも?」


「龍神様のおかげ」


「でも水の音しないんでしょ?」


「……するかもしれないだろ。小さすぎて聞こえないだけで」


「苦しくなってきたね」


「うるさい」


 少年は本気でそう思っていた。


 自分には少しカンがある。


 少し変なものが見える。


 それだけ。


 厄を払えるのは。


 龍神が加護してくれているからだ。


 そうでなければ。


 説明がつかない。


 その冬。


 四人で駅前へ出かけた。


「腹減った」


「さっきクレープ食べたじゃん」


「クレープはおやつ」


「高校入ってから太ったんじゃない?」


「成長期だ!」


「横に?」


「うるさい!」


 いつものやり取り。


 その途中。


 少年が突然立ち止まった。


「……まずい」


 三人の表情が変わる。


「どこ?」


 親友がすぐに聞く。


「あの子」


 人混みの向こう。


 母親と手をつないで歩いている、小さな男の子。


 全身を。


 真っ黒なモヤが包んでいた。


「濃い?」


「かなり」


 少年の胸がざわつく。


 これまで見てきた厄の中でも強い。


 そして。


「……上だ」


「上?」


 少年は視線を上げた。


 駅前のビル。


 外壁工事中。


 高い場所に取り付けられた金属板が、不自然に揺れている。


「離れろ!」


 少年が叫んだ。


 母親が振り返る。


 だが、人が多い。


 間に合わない。


 少年は強く願った。


 ――いなくなれ。


 それだけでは足りない気がした。


 もう一度。


 強く。


 ――その子から、離れろ!


 黒いモヤが弾けた。


 一瞬だった。


 水の音は。


 しない。


「こっち!」


 少年は走った。


 叫び声に驚いた母親が、反射的に子どもの手を引く。


 次の瞬間。


 ガンッ!


 大きな金属音。


「きゃっ!」


 ビルから外れた金属板が。


 つい先ほどまで男の子がいた場所へ落ちた。


「大丈夫ですか!?」


「は、はい……」


 母親が青ざめている。


 子どもは何が起こったのか分からず、母親へしがみついていた。


「よかった……」


 少年は大きく息を吐いた。


 そこへ三人が追いつく。


「今の、相当ヤバかったよな」


 親友が言う。


「うん」


「水の音は?」


 少年は答えなかった。


 聞こえなかった。


 微かにも。


「……しなかった」


 三人が黙る。


「でも」


 彼女が尋ねる。


「黒いのは?」


「消えた」


「自分で?」


 少年は答えられなかった。


 その日の夜。


 少年は一人で氏神様へ向かった。


 冬の境内。


 参拝客はもういない。


「龍神様」


 ――何だ。


 今日はすぐに返事があった。


「今日、すごく強い厄を払った」


 ――そうか。


「水の音はしなかった」


 ――そうか。


「そればっかりだな」


 少年は拝殿を見上げた。


「友達に言われた」


 ――何と。


「もう俺自身の力なんじゃないかって」


 少し間があった。


 ――ほう。


「違うよね?」


 今度は。


 長い沈黙。


「龍神様?」


 ――人の子は。


「うん」


 ――育つものであろう。


「……どういう意味?」


 答えはない。


「俺が大きくなったから?」


 

 ――。


「俺の力も育ったってこと?」


 ――。


「それじゃ、龍神様の加護は?」


 ――。


「おい」


 少年はため息をつく。


「最近忙しいからって、都合悪くなると黙るのやめてよ」


 しばらくして。


 くつくつと。


 低い笑い声がした。


「笑ってるだろ」


 ――さてな。


「絶対笑ってる」


 返事はない。


 少年は呆れながらも、少しだけ笑った。


「まあ、いいや」


 手を合わせる。


「今日も助けられたから」


 ――誰が。


「え?」


 少年が顔を上げる。


 けれど。


 今度こそ、返事はなかった。


「……何だよ、それ」


 少年はしばらく拝殿を見つめていた。


 やがて頭を下げ。


 石段を降りていく。


 少年はまだ知らない。


 七歳のあの日。


 一人の子どもへ与えられた小さな加護が。


 十三年にも満たない歳月の中で。


 どれほど多くの厄を遠ざけ。


 どれほど多くの人を救ったのか。


 救われた者は、龍神へ感謝した。


 その感謝は信仰となり。


 信仰は龍神の力を高め。


 小さな町の氏神は、以前よりずっと多くの願いを聞く神となった。


 そして同時に。


 守られていた少年もまた。


 自分の力で厄を退けられるほどに育っていた。


 龍神は、少年によって神として大きくなり。


 少年は、龍神によって人として大きくなった。


 水音が遠ざかったのは。


 二人の繋がりが薄れたからではない。


 少年がもう。


 龍神の手を借りずとも歩けるところまで。


 育ち始めていたからだった。


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