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3.人助けは難しい

 十三参りの日に龍神の声を聞いてからも、少年の生活は大して変わらなかった。


 黒いモヤが見える。


 見つければ消す。


 そのたびに水の音がする。


 違うことといえば、その音の向こうに誰がいるのかを知ったくらいだった。


「龍神様、これも?」


 帰り道。


 道路脇に停められた自転車の後輪に黒いモヤが絡みついている。


 少年が心の中で問いかける。


 返事はない。


「……いなくなれ」


 ――ざあっ。


 水の音とともに、モヤが消えた。


「やっぱりいるじゃん」


 返事はなかった。


 龍神はいつでも話してくれるわけではないらしい。


 まあ、それも仕方ないか。


 少年はそう思って帰ろうとした。


「おい」


 後ろから声をかけられる。


 振り向くと、小学校の頃から一緒に遊んでいる友人がいた。


「またやってた?」


「何を?」


「何もないところ見てブツブツ言うやつ」


「ブツブツ言ってない」


「言ってるって」


 友人は笑った。


 彼とは、氏神様の境内で何度も一緒に遊んだ。


 少年の妙なカンについても、昔からよく知っている。


 小学二年生のとき。


 川へザリガニを捕りに行こうとして、


『今日はやめたほうがいい』


 と言われた。


 その日の夕方、突然の大雨で川は増水した。


 小学四年生のとき。


 公園のベンチで遊んでいたら、


『そこから離れよう』


 と言われた。


 直後、頭上の太い枝が折れて落ちてきた。


 小学六年生のときには、自転車で遠くの公園へ行こうとしたところ、


『お前の自転車、今日は乗らないほうがいい』


 と言われた。


 調べてみると、前輪を固定している部分が緩んでいた。


 だから友人は、少年の「なんとなく」を疑わない。


「で、今度は何?」


「あの自転車」


「自転車?」


「後ろのタイヤのところに黒いのがあった」


「ああ。例の?」


「うん」


「消した?」


「消した」


「じゃ、大丈夫だな」


 それだけだった。


 少年にとっても。


 友人にとっても。


 それはもう、特別な出来事ではなくなっていた。


 そんな少年にも、中学二年生になれば好きな女子くらいできた。


「分かりやすすぎ」


「何が」


「見すぎ」


「見てない」


「今も見てる」


「見てないって」


 放課後。


 友人に肘で小突かれ、少年は慌てて視線を逸らした。


 少し離れたところで、同じクラスの女子が友達と話している。


 よく笑う子だった。


 誰にでも話しかける。


 体育祭では応援団をやり、文化祭では真っ先に面倒な仕事を引き受ける。


 少年が好きになった理由は、自分でもよく分からなかった。


 気づいたら目で追うようになっていた。


「告れば?」


「無理」


「なんで」


「無理なものは無理」


「人の厄は消せるのに、告白は無理なんだ」


「関係ないだろ」


「龍神様に頼めば?」


「怒られるわ」


 少年は本気で答えた。


 十三参りの日。


 龍神から言われている。


 己がために力を求めるな、と。


「というか龍神様、縁結びじゃないし」


「厄除けだもんな」


「そう」


 二人で笑った。


 その日の帰りだった。


 少年は、笑えなくなった。


「じゃあねー」


 校門の前で、彼女が友達に手を振っている。


 そこまではいつも通りだった。


 違ったのは。


 彼女の肩から背中にかけて。


 黒いモヤがまとわりついていたことだった。


「……え」


 少年の足が止まる。


「どうした?」


 友人が尋ねる。


「あの子」


「ん?」


「黒いのがある」


 友人の顔から、からかうような笑みが消えた。


「濃い?」


「……かなり」


 今まで何度も見てきた。


 肩凝り程度の薄いもの。


 物が壊れる前にまとわりつくもの。


 ちょっとした怪我につながるもの。


 だが。


 今、彼女についているものは違った。


 黒い煙が、身体を包み込もうとしている。


 見ているだけで胸の奥がざわついた。


 嫌だ。


 これは、まずい。


「ちょっと行ってくる」


「おう」


 少年は彼女を追った。


「ねえ」


 声をかける。


 彼女が振り返った。


「あれ? どうしたの?」


「今日、このあとどこか行く?」


「え?」


「どっか寄ったりする?」


「塾だけど」


「どうやって?」


 彼女が怪訝そうな顔をする。


「お母さんが迎えに来るけど……」


「車?」


「うん」


 胸のざわつきが強くなった。


「乗らないほうがいい」


「え?」


「今日、その車乗らないほうがいいよ」


「……なんで?」


 いつもの質問。


 これまでなら。


「なんとなく」


 で済ませてきた。


 けれど相手は、好きな女子だった。


 ちゃんと説明したほうがいい。


 そう思ってしまった。


「黒いのがあるんだ」


「黒いの?」


「うん。肩の辺り」


 少年は彼女の肩を見る。


 モヤはまだある。


「俺、小さい頃から変なの見えることがあって」


「変なの?」


「悪いことが起きそうな人とか、物とかに黒いモヤみたいなのが見えるんだ」


 彼女の表情が変わった。


「……え?」


「でも大丈夫。消せるから」


「ちょっと待って」


 彼女が一歩下がった。


「さっきから、何言ってるの?」


「だから、黒いのが――」


「私に何かついてるってこと?」


「うん」


「……そういうの、ちょっと怖いんだけど」


 少年は言葉に詰まった。


 考えてみれば当然だった。


 見えないものが見える。


 君には悪いものがついている。


 突然そんなことを言われれば。


 怖い。


 それくらい、少し考えれば分かるはずだった。


「ごめん。でも」


 黒いモヤが揺れる。


 少年は、それを見過ごせなかった。


「いなくなれ」


 小さく呟いた。


 ――ざああっ。


 強い水の音。


 これまでよりずっと大きい。


 黒いモヤが、大量の水に押し流されるように消えていく。


 彼女の肩から。


 背中から。


 最後の一筋まで。


 消えた。


「……よかった」


 少年は息を吐いた。


「何が?」


「消えたから」


 彼女は何も言わなかった。


 その顔を見て。


 少年はようやく、自分が失敗したことを理解した。


「ごめん」


 それだけ言って、離れた。


「盛大にやったな」


 少し離れたところで待っていた友人が言った。


「うるさい」


「いや、俺は信じるけどさ」


「……」


「何回お前のカンに助けられたと思ってんだよ」


 友人はそう言ってから、彼女のほうを見る。


「でも、知らないやつからしたら怖いだろうな」


「分かってる」


 少年は肩を落とした。


「嫌われた」


「たぶんな」


「そこは否定してくれよ」


「嘘ついてもしょうがないだろ」


「友達だろ」


「だから言ってる」


 友人は笑った。


 そして、彼女のところへ歩いていく。


「ちょっと待って」


「何」


「フォロー」


「いいって」


「お前じゃ無理だから俺が行くんだよ」


 友人はそのまま彼女のところへ行った。


 何を話しているのかは聞こえない。


 ただ、ときどき少年を指さしている。


 数分後。


 彼女はスマートフォンを取り出した。


 どこかへ電話をかける。


 しばらく話したあと、電話を切った。


「今日は歩いて塾行くって」


 戻ってきた友人が言った。


「え?」


「お母さんに迎えいらないって電話した」


「なんて言ったの?」


「お前の勘は異常に当たるって」


「異常って言うな」


「事実だろ」


 少年は彼女を見る。


 目が合った。


 彼女はすぐに視線を逸らした。


 胸が痛んだ。


「……まあいいか」


「いいの?」


「事故に遭うよりはいい」


 友人が、少しだけ驚いた顔をした。


 それから笑った。


「そういうとこなんだろうな」


「何が?」


「知らん」


 その日の夕方。


 学校の近くの県道で、多重事故が起きた。


 塾へ向かう途中にある交差点だった。


 信号待ちの車列へ、トラックが突っ込んだらしい。


 幸い死者はいなかった。


 けれど、何台もの車が巻き込まれた。


 彼女の母親が、いつも迎えに来る時間。


 いつも通る道だった。


 翌日。


 彼女は学校へ来た。


 少年と目が合う。


 少し気まずそうにしてから。


「昨日……」


 彼女が言った。


「ありがとう」


 少年は、一瞬何も言えなかった。


「うん」


 それだけ返した。


 彼女も、それ以上は何も言わなかった。


 以前のように話せるようになるまでには、しばらく時間がかかった。


 そして。


 少年の初恋が実ることもなかった。


「失恋した」


 数日後。


 少年は氏神様の拝殿の前に座っていた。


 ――そうか。


 久しぶりに聞いた龍神の声は、随分と素っ気なかった。


「好きな子に気持ち悪がられた」


 ――そうか。


「慰めてくれないの?」


 ――我は厄除けの神だ。


「知ってる」


 ――縁結びは管轄外よ。


「神様って管轄とかあるんだ……」


 ――知らぬ。


「適当だなあ」


 少年はため息をついた。


 しばらく黙ってから、尋ねる。


「俺、間違ってた?」


 今度はすぐに返事が来なかった。


 境内を風が抜ける。


 木々の葉が揺れる。


 ――何をもって、間違いとする。


「助けたこと」


 ――娘は無事であった。


「うん」


 ――ならば、それでよかろう。


 少年は膝を抱えた。


「でも、嫌われた」


 ――それもまた、人よ。


「……難しいね」


 ――今さら気づいたか。


 龍神の声に、わずかな笑いが混じった。


「龍神様ならどうするの?」


 ――祓う。


「説明は?」


 ――せぬ。


「そりゃ神様だからいいじゃん」


 ――ならば、お前も学べ。


「何を?」


 少し間があった。


 ――人には、人の助け方があろう。


 少年はその言葉を、しばらく考えた。


「……そっか」


 それから。


 少年は、黒いモヤが見えても、そのことを本人にはあまり話さなくなった。


 身体についていれば、


「最近そこ痛くない?」


 車についていれば、


「そろそろ点検したほうがいいんじゃない?」


 家についていれば、


「一回ここ見てもらったら?」


 どうしても危険が迫っているなら。


「なんとなくだけど、今日はやめたほうがいい」


 そう伝えるようになった。


 黒いモヤ。


 厄。


 龍神。


 そんなものを信じてもらう必要はない。


 相手が無事なら、それでいい。


 そのことを。


 少年は、初恋と引き換えに覚えた。


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