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2.黒いモヤと水の音

 七五三のお参りをした、その翌朝だった。


「……お母さん、それなに?」


 朝食の席で、少年は箸を止めた。


「なにって?」


「そこ」


 母親の肩を指さす。


 右肩のあたりに、黒いものが浮かんでいた。


 煙のような。


 霧のような。


 形のないものが、ゆっくりと母親の肩にまとわりついている。


「何かついてる?」


 母親が肩を見る。


「ううん」


「じゃあ、なに?」


「黒いの」


「黒いの?」


 母親には見えていないらしい。


 少年は椅子から降りると、近づいて母親の肩を覗き込んだ。


 やっぱりある。


 触れそうで、触れられない。


 嫌な感じがした。


 いつもの「なんとなく」に似ている。


 けれど、今までとは少し違った。


 嫌なものが、見える。


「お母さん、ここ痛い?」


「え?」


「肩」


「ああ。昨日からちょっと凝ってるのよね」


 母親が笑う。


「七五三でずっと荷物持ってたからかな」


「ふーん」


 少年は、もう一度黒いモヤを見た。


 これがあるから痛いのだろうか。


 よく分からない。


 けれど。


 なくなればいいと思った。


 母親の肩へ手を伸ばす。


「どうしたの?」


「よくなりますように」


 小さな手で、ぽん、と肩に触れた。


 ――ざあっ。


 水の音がした。


「……あ」


 黒いモヤが消えた。


 煙を水で洗い流したように、跡形もなく。


「なに?」


「なくなった」


「何が?」


「黒いの」


 母親は首を傾げた。


 そのまま何気なく肩を回す。


「あれ?」


「どうしたの?」


「なんか肩、軽くなったかも」


「ほんと?」


「ほんとほんと。揉んでくれたからかな」


 母親が笑い、少年の頭を撫でた。


「ありがとう」


 少年も笑った。


 それが、最初だった。


 数日後。


 父親の腰にも黒いモヤがあった。


「お父さん、腰痛い?」


「なんで分かった?」


「黒いのあるから」


「黒いの?」


 父親にはやはり見えない。


 少年は腰へ手を当てた。


「痛くなくなりますように」


 ――ざあっ。


 黒いものが消える。


「お?」


 父親が腰を伸ばした。


「なんか楽になったな」


「でしょ?」


「お前、マッサージうまいなあ」


 少年は少し得意になった。


 それから、黒いモヤはいろいろなところで見つかるようになった。


 人だけではなかった。


「それ、乗らないほうがいいよ」


 友達のお母さんの自転車。


 前輪のあたりに黒いモヤが絡みついていた。


「え?」


「なんか黒いのある」


「またそれ?」


 少年の話を聞いたことがあった母親が、自転車を確認してくれた。


 ブレーキワイヤーが切れかけていた。


 修理から戻ってきた自転車に黒いものはもうなかった。


「おばちゃん、そこ」


 近所の家の屋根。


 瓦のあたりに黒いものが溜まっている。


「そこって?」


「あそこ。いなくなれ」


 少年がそう願う。


 ――ざあっ。


 水の音。


 黒いモヤが消えた。


 数日後、大雨が降った。


 近所のおばちゃんは、


「あんたが屋根見てくれって言うから業者さん呼んだら、瓦がずれてたんだよ」


 と、お菓子を持ってきた。


「そのままだったら雨漏りしてたって。助かったわ」


「よかったね」


 少年は笑った。


 自分が何をしたのかは、よく分かっていなかった。


 友達の肩。


 近所のおじいさんの杖。


 通学路のガードレール。


 いつも遊ぶ公園のブランコ。


 家。


 車。


 自転車。


 時には、道そのもの。


 黒いモヤを見つけるたび、少年は願った。


「いなくなれ」


「どっかいけ」


「悪いこと、起きませんように」


 そのたびに。


 ――ざあっ。


 どこからともなく水の音が聞こえた。


 川のような。


 滝のような。


 けれど、不思議なことにその音を聞いているのは、いつも少年だけだった。


「今の聞こえた?」


「なにが?」


「水」


「水なんて流れてないよ?」


「そっか」


 そんなやり取りを何度したか分からない。


 やがて少年も気にしなくなった。


 黒いものがあれば消す。


 誰かが困りそうなら教える。


 それで「ありがとう」と言われれば嬉しい。


 ただ、それだけだった。


 黒いモヤを使って、自分が得をしようと思ったことはなかった。


 そもそも、欲しいゲームが安く売っている店にも黒いモヤは見えない。


 テストでどの問題が出るかも分からない。


 くじ引きの当たりも分からなかった。


 見えるのは、悪いことばかり。


 だから少年にとって、それは便利な力というより、


 ――見つけたら片付けるもの。


 くらいの感覚だった。


 ゴミが落ちていれば拾う。


 転んだ子がいれば手を貸す。


 黒いモヤがあれば消す。


 その三つに、大した違いはなかった。


 そして、少年は十三歳になった。


「大きくなったなあ」


 社務所で顔を合わせた神主が、しみじみと言った。


「何それ」


「お前が小一の頃は、ここで麦茶飲んで走り回ってたんだぞ」


「今でも麦茶は飲むけど」


「そこじゃない」


 今日は十三参りだった。


 七五三以来、何度も参拝している氏神様。


 けれど節目の祈祷となれば、やはり少しだけ特別な気持ちになる。


「龍神様にちゃんとお礼言っとけよ」


 神主が笑った。


「何のお礼?」


「さあな」


「なんだそれ」


 少年も笑う。


 祈祷を終え、拝殿の前で手を合わせた。


 七歳のあの日と同じ場所。


 あのとき何を願ったのかは、もうはっきり覚えていない。


 けれど。


 これまで大きな怪我もなく。


 家族も元気で。


 友達もたくさんいる。


 それなら。


 きっと、いい七年間だったのだろう。


 少年は目を閉じた。


 ――これからも、みんなが元気でいますように。


 昔とあまり変わらない願いだった。


 そのとき。


 ――よく飽きぬものだ。


「……え?」


 少年は目を開けた。


 誰もいない。


 父と母は少し離れたところで神主と話している。


 今の声は。


 低く。


 大きく。


 けれど、不思議と怖くなかった。


 ――己の願いでも、してみればよかろうに。


 少年は拝殿の奥を見る。


「……誰?」


 返事の代わりに。


 ――ざあああっ。


 聞き慣れた水の音が響いた。


 少年は息を呑む。


「もしかして……」


 七歳の七五三。


 ほんの一瞬だけ見た。


 白い鱗。


 大きな角。


 金色の目。


「龍神様?」


 しばらく沈黙があった。


 そして。


 ――いかにも。


「しゃべれるの!?」


 思わず大声が出た。


「どうした?」


 父親が振り返る。


「いや、なんでもない!」


 慌てて答える。


 拝殿の奥から、低い笑い声がした気がした。


 ――ようやく声まで届くようになったか。


「ようやく?」


 小声で聞き返す。


 ――こちらの話だ。


「俺、ずっと水の音聞こえてたんだけど」


 少し間があった。


 ――知っておる。


「黒いの消すと鳴るやつ」


 また少し間。


 ――知っておる。


「じゃあ、あれ龍神様なの?」


 今度の沈黙は、少し長かった。


 ――お前が誰かの厄を遠ざけたいと願うから、我が応えておる。


「やく?」


 少年は首を傾げた。


 ――お前が黒いものと呼んでいるものだ。


「あれ、厄なんだ」


 初めて知った。


 六年間、ずっと見てきた黒いモヤ。


 人を痛ませ。


 物を壊し。


 事故や災いを呼び寄せるもの。


「じゃあ、見つけたら消していい?」


 龍神は、しばらく答えなかった。


 ――好きにせよ。


「いいんだ」


 ――ただし。


 声が、少しだけ低くなる。


 ――己がために我が力を求めるな。


 少年は瞬きをした。


「自分のため?」


 ――富。名。欲。人の心。先のこと。望めば欲しくなるものはいくらでもあろう。


「よく分かんないけど」


 少年は少し考えた。


「黒いの消すのに、そんなの関係なくない?」


 沈黙。


 しばらくして。


 ――そうか。


 龍神の声が、ほんの少し笑ったように聞こえた。


 ――ならば、それでよい。


 水の音が遠ざかっていく。


「あ、待って」


 ――何だ。


「今まで、ありがとう」


 少年はそう言った。


「俺だけじゃなくて、みんなのも消してくれてたんでしょ?」


 長い沈黙があった。


 そして。


 ――……うむ。


 それだけ答えて、声は消えた。


 少年は知らなかった。


 その日。


 社殿の奥で。


 古くからこの町を見守ってきた龍神が、少しだけ機嫌を良くしていたことを。


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