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1.七五三

 三歳の頃。


 母親は、息子のことを少し変わった子だと思っていた。


「お母さん、そっちやだ」


 買い物帰りのことだった。


 いつもの道を曲がろうとしたところで、小さな手が母親の腕を引いた。


「どうしたの?」


「こっち、やだ」


「でも、おうちこっちだよ?」


「やなの」


 息子は道の先を見ながら、珍しく強情に首を振った。


 泣いているわけでもない。


 何かを怖がっているようにも見えない。


 ただ、行きたくない。


 それだけだった。


「じゃあ、今日はこっちから帰ろっか」


「うん」


 一本向こうの道へ回る。


 三歳児を連れているのだから、数分遠回りしたところで大した違いはない。


 ところがその日の夕方、近所の人から聞いた。


 いつもの帰り道で、自転車と自動車の接触事故があったらしい。


 時間を聞けば、ちょうど母子がそこを通っていた頃だった。


「……偶然よね」


 母親はそう思った。


 三歳の子どもの気まぐれなど、いくらでもある。


 ただ、それからも似たようなことは何度かあった。


「今日は公園いかない」


 そう言った日に限って、公園の大きな木の枝が折れた。


「あのおじさん、やだ」


 珍しく人見知りした相手が、後日近所で揉め事を起こした。


「傘いるよ」


 雲一つない空を見上げながら言った午後、突然の夕立が降った。


 息子自身に理由を聞いても、返ってくる答えはいつも同じだった。


「なんとなく」


 それ以上でも、それ以下でもない。


 四歳になっても。


 五歳になっても。


 少年の「なんとなく」は、妙によく当たった。


 けれど本人は、それを特別なことだとは思っていなかった。


 当たり前だったからだ。


 道を歩いていて、右へ行きたくないと思えば左へ行く。


 遊具を見て嫌な感じがすれば、その日は別の遊びをする。


 誰かが泣きそうな気がすれば、そばへ行く。


 それだけのことだった。


 だから、自分のカンを試そうとも思わなかった。


 お菓子が入っている箱を当てようとも、くじ引きの当たりを探そうとも思わない。


 そもそも、そういうときには何も感じなかった。


 分かるのはいつも。


 ――やめたほうがいい。


 ――そっちは危ない。


 ――その人を放っておかないほうがいい。


 そんなことばかりだった。


 六歳になり、小学校へ入学した。


 少年の家から歩いて十分ほどのところに、古い神社がある。


 家の氏神様だった。


 初詣も、夏祭りも、お宮参りもそこ。


 少年にとって神社とは、神聖な場所である前に、友達と遊ぶ場所だった。


 学校が終わればランドセルを家へ置き、何人かで境内へ集まる。


 夏になれば神主が麦茶を出してくれる。


 秋になれば落ち葉を集める。


 冬には誰が一番長く石段に残った雪を踏まずに上れるか競争する。


 そんな、ごく身近な場所だった。


 そして少年は、その神社にいると不思議と落ち着いた。


 理由は分からない。


 ほかの場所で感じることのある、


 嫌だ。


 怖い。


 近づきたくない。


 そんな「なんとなく」が、境内ではほとんど起こらなかった。


 むしろ逆だった。


 ここなら大丈夫。


 幼い頃から、そう思っていた。


 七歳になった秋。


「ほら、動かないの」


「苦しい」


「ちょっとだけだから」


 母親に襟元を直されながら、少年は不満そうな顔をした。


 今日は七五三だった。


 普段なら走って数分で着く氏神様へ、今日は家族そろって向かう。


 いつもの神社なのに、着慣れない服を着ているだけで何だか別の場所のように感じた。


「あら、大きくなったねえ」


 境内で近所のおばあさんに声をかけられる。


「七五三かい?」


「うん」


「ちゃんと龍神様にお願いするんだよ」


「なにを?」


「これからも元気でいられますように、って」


「ふーん」


 少年はよく分からないまま頷いた。


 祈祷が始まる。


 いつも遊んでいる場所なのに、社殿の中へきちんと座るのは妙に緊張した。


 祝詞が響く。


 少年には、その意味のほとんどが分からない。


 ただ静かに座り、早く終わらないかな、と少しだけ思っていた。


 やがて祈祷が終わり、家族で拝殿の前に立った。


「ほら。お願いして」


 母親に言われて、少年は小さな手を合わせる。


 さっきのおばあさんの言葉を思い出した。


 元気でいられますように。


 自分が。


 そうお願いするものらしい。


 少年は目を閉じた。


 けれど。


 なぜだか、別のことが浮かんだ。


 父親。


 母親。


 学校の友達。


 神社で一緒に遊ぶ子たち。


 麦茶をくれる神主。


 近所のおじいさんや、おばあさん。


 いつも自分の周りにいる人たち。


 少年は少し考えてから、心の中で願った。


 ――みんなが、ひどい目にあいませんように。


 病気にならないように、とか。


 事故に遭わないように、とか。


 そんな難しい言葉は思いつかなかった。


 ただ。


 痛かったり。


 怖かったり。


 悲しかったり。


 そういうことが、なるべくありませんように。


 少年はそう願った。


 その瞬間だった。


 ――ざあっ。


「……?」


 水の音がした。


 川でも流れているような、大きな水音。


 少年は目を開ける。


 けれど、周囲に水などない。


 父も母も、何も気づいていない。


 風が吹いた。


 拝殿の奥で、何かが動いた気がした。


 少年はじっと暗がりを見る。


 ほんの一瞬。


 白いものが見えた。


 蛇。


 そう思った。


 けれど、蛇にしてはあまりにも大きかった。


 長い身体が、暗闇の向こうをゆっくり横切っていく。


 白い鱗。


 大きな角。


 こちらを見つめる、金色の目。


「……りゅう?」


「どうしたの?」


 母親が振り返る。


 もう、何もいなかった。


「いま、龍がいた」


「龍神様?」


「うん」


 母親は笑った。


「じゃあ、ちゃんとお願い聞いてくれたのかもね」


「そうかな」


「きっとそうよ」


 少年はもう一度、拝殿の奥を見た。


 何も見えない。


 ただ。


 なぜだか、とても安心した。


 その日の帰り道。


 少年は一度だけ振り返った。


 鳥居の向こう。


 いつもの神社。


 いつもの石段。


 いつもの境内。


 そこに、白い影が立っているような気がした。


 少年は小さく手を振った。


 白い影も、わずかに揺れた。


 それからだった。


 少年の「なんとなく」は。


 少しずつ、今までとは違うものになっていった。


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