プロローグ.厄除けの龍
とある町に、厄除け祈願で知られる神社があった。
立派な鳥居があり、長い石段があり、境内の奥には古びた社殿がある。
御神体として祀られているのは、大きな龍だという。
とはいえ、遠方から参拝客が押し寄せるような有名な神社ではない。
旅行雑誌に載ることもなければ、観光バスがやって来ることもない。
初詣には近所の人たちが集まり、夏には小さな祭りが開かれる。
子どもが生まれればお宮参りに訪れ、七五三を祝い、厄年になれば厄払いをお願いする。
そんな、どこの町にでも一つくらいありそうな神社だった。
ただ、昔から厄除けにはよく効くと言われている。
そのため地元の人々からは、親しみを込めてこう呼ばれていた。
――厄除けの龍神社。
もっとも、近所の子どもたちにとっては、龍神様の御利益などあまり関係がない。
境内は広い。
木陰も多い。
石垣の隙間には虫がいるし、裏手まで回ればちょっとした探検もできる。
つまり、格好の遊び場だった。
「おじさーん! 麦茶ちょうだい!」
「はいはい。手を洗ってからな」
夏の日差しが照りつける午後。
今日も数人の子どもたちが境内へ遊びに来ていた。
神主は慣れた様子で社務所から大きな麦茶の容器を持ち出し、縁側に紙コップを並べていく。
「一人一杯だぞ。飲んだらちゃんとゴミ箱に捨てること」
「はーい!」
返事だけは立派だった。
子どもたちは我先にと麦茶へ群がる。
その中に、一人の少年がいた。
六歳の小学一年生。
麦茶の入った紙コップを両手で持ち、縁側に座ってのんびりと飲んでいる。
「今日は走り回らないのか?」
神主が尋ねると、少年は紙コップから口を離した。
「あとで遊ぶ」
「そうか」
神主は笑いながら立ち上がった。
「じゃあ、おじさんはちょっと買い物に行ってくるよ。冷蔵庫が空っぽでな」
そう言って棚から車の鍵を取る。
そのときだった。
「神主さん」
「ん?」
「今日は歩いて行ったほうがいいよ」
神主の手が止まった。
「歩いて?」
「うん」
「スーパーまで結構あるぞ」
「でも、車はやめたほうがいい」
少年の声音に深刻さはない。
ただ、ごく当たり前のことを言っているようだった。
「どうしてだ?」
少年は少し考えた。
けれど、自分でも理由は分からないらしい。
「なんとなく」
「なんとなく、か」
「うん。車だと、なんか嫌」
神主は鍵と少年を交互に見る。
普通なら、子どもの気まぐれとして笑って聞き流すところだろう。
だが、神主はしばらく考えたあと、鍵を棚へ戻した。
「……まあ、たまには歩くか」
「そのほうがいいよ」
「暑いんだけどなあ」
「麦茶飲めば?」
「お前が言うか」
神主が笑う。
少年も笑った。
それから十分ほどして、神主は日傘を差して買い物へ出かけていった。
少年は麦茶を飲み終えると、ようやく友達の輪へ加わった。
境内に子どもたちの声が響く。
鬼ごっこをして、虫を追いかけて、誰かが転んで泣いて。
いつもと変わらない午後だった。
神主が買い物袋を提げて戻ってきたのは、それから一時間ほど経った頃だった。
「ただいま」
「おかえりー!」
「神主さん、お菓子買った?」
「お前たちのじゃないぞ」
子どもたちを適当にあしらいながら、神主は社務所へ向かう。
そこへ、境内の入口で立ち話をしていた近所の男が声をかけてきた。
「宮司さん、今日は歩きだったの?」
「ああ。子どもに歩けって言われてな」
「そりゃよかったなあ」
「何がだ?」
「知らないのか?」
男が驚いた顔をする。
「さっき、県道で事故があったんだよ」
「事故?」
「鉄骨を積んでたトラックがいたろ。荷崩れしたらしくてな。積んでた鉄骨が何本か道路に落ちたんだと」
神主の表情が止まった。
「……どの辺だ?」
「スーパーへ行く途中の交差点の手前。いつも宮司さんが車で通るところだよ」
男は何気なく続ける。
「下に車がいなかったからよかったらしいけどな。タイミングが悪かったら大事故だったってさ」
「何時頃だ?」
「一時間くらい前じゃないか?」
神主は買い物袋を持ったまま、境内の時計を見た。
もし、いつものように車で出ていたら。
買い物へ行く時間も、通る道も、いつもとほとんど変わらない。
ちょうど、その頃。
神主はゆっくりと振り返った。
境内では、子どもたちがまだ遊んでいる。
その中に、あの少年もいた。
「おーい」
呼ぶと、少年が振り返る。
「なに?」
「ちょっと来てくれ」
少年は友達に何か言ってから、ぱたぱたと走ってきた。
「どうしたの?」
「お前、さっき車に乗るなって言ったよな」
「うん」
「鉄骨が落ちたんだと」
「てっこつ?」
「道路にな」
「へえ」
少年は目を丸くした。
本当に知らなかったらしい。
「……分かってたのか?」
「何が?」
「そこを通ったら危ないって」
少年は首を傾げる。
そして、少し考えてから答えた。
「分かんない」
「じゃあ、どうして車に乗るなって言ったんだ?」
「だから」
少年は困ったように眉を寄せた。
「なんとなく嫌だったから」
神主はしばらく黙っていた。
「……そうか」
「もう遊んでいい?」
「ああ。行ってこい」
「うん!」
少年はすぐに友達のところへ戻っていった。
神主は、その小さな背中を見送る。
「……またか」
ぽつりと呟いた。
あの少年は、幼い頃から妙にカンがいい。
危ない場所。
近づかないほうがいい人。
やらないほうがいいこと。
何かが起きる前になると、ふと足を止める。
理由を聞いても、いつも答えは同じだった。
――なんとなく。
ただ、その「なんとなく」は。
妙によく当たった。




