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14/16

後日譚.白

 その人とは。


 一度だけ。


 会ったことがあった。


 話した時間は。


 おそらく。


 一分にも満たない。


     ◇


 まだ。


 彼女が大学生だった頃。


 いつものように。


 駅から大学へ向かって歩いていた。


 その日は。


 朝から。


 少しだけ。


 ついていなかった。


 寝坊した。


 電車を一本逃した。


 提出した課題には添付漏れ。


 アルバイト先からは急なシフト変更。


「……最悪」


 小さく呟く。


 とはいえ。


 どれも。


 誰にでもある程度のこと。


 信号が。


 青へ変わった。


 横断歩道へ。


 一歩。


 踏み出そうとした。


「すみません!」


 後ろから。


 声。


 同時に。


 腕を掴まれた。


「え?」


「ちょっと待って!」


 振り返る。


 若い男だった。


 大学生くらい。


 自転車を歩道脇へ。


 随分雑に止めている。


「何ですか?」


「そこ」


「そこ?」


「今、渡らない方がいいです」


 彼女は。


 信号を見る。


 青。


 左右を見る。


 車も。


 止まっている。


「……何で?」


「えーっと」


 青年は。


 困ったように。


 頭を掻いた。


「なんとなく」


「は?」


「いや、ほんとに」


「信号、青ですけど」


「分かってます」


「じゃあ――」


 その瞬間。


 甲高い。


 タイヤの音。


 右手から。


 一台の車が。


 交差点へ飛び込んできた。


 信号無視。


 交差点内の車を避け。


 大きくハンドルを切り。


 歩道へ。


 乗り上げた。


「……」


 彼女の。


 少し前。


 ほんの数秒。


 早く歩き出していたら。


 そこに。


 いた。


「大丈夫ですか?」


 青年の声。


「え……あ……はい」


「よかった」


 本当に。


 それだけ確認すると。


 青年は。


 掴んでいた腕を離した。


「ちょっと待って」


「はい?」


「何で分かったの?」


「だから」


 少し。


 困ったように笑う。


「なんとなくです」


「そんなわけないでしょ」


「ですよね」


「ですよねって――」


 青年が。


 ふと。


 彼女の肩を見る。


 正確には。


 その少し上。


 さっきまでの。


 気の抜けた表情が。


 僅かに変わった。


「……まだあるな」


「何が?」


「ちょっとだけ、じっとしててください」


「え?」


 青年が。


 そこへ視線を合わせる。


「いなくなれ」


 小さな声。


 何も。


 起こらない。


 光らない。


 風も吹かない。


 音もしない。


 ただ。


 青年だけが。


「うん」


 少し。


 安心したように。


「もう大丈夫です」


 と言った。


「何が!?」


「多分」


「多分!?」


「じゃあ俺、急いでるんで」


「ちょっと待って!」


 青年は。


 自転車へ戻る。


「名前!」


「え?」


「名前くらい教えて!」


 青年が。


 振り返る。


 そのとき。


 初めて。


 彼女は気づいた。


 左耳。


 白い。


 小さな龍のピアス。


 風に吹かれて。


 僅かに揺れていた。


「名乗るほどじゃないです」


「いや、命助けてもらってるんだけど!」


「たまたまです」


「たまたまで車が突っ込んでくるの分かる!?」


「分からないです」


「じゃあ何だったの!?」


 青年は。


 少しだけ。


 考えた。


「……今日は気をつけて帰ってください」


「答えになってない!」


 青年は。


 笑いながら。


 自転車を走らせた。


 白い龍が。


 遠ざかっていった。


     ◇


 当然。


 忘れられるはずもなかった。


 白い龍のピアスをした。


 妙な青年。


 信号が青なのに。


 渡るなと言った。


 車が突っ込んできた。


 意味の分からないことを呟き。


『もう大丈夫です』


 と言って。


 消えた。


 一度。


 友人との雑談で。


 その話をした。


「白い龍のピアスした人に助けられたことあるんだよね」


「白い龍?」


「うん」


「……それ、“龍”じゃない?」


「何それ」


 友人が。


 少し声を落とした。


「そういう噂あるよ。若い男の人で、厄とか分かるって」


「厄?」


「白い龍のピアスしてるんだって」


「……」


 思い当たることしかなかった。


「本人、“龍”って呼ばれるの嫌がるらしいけど」


「何それ」


 彼女は。


 笑った。


「絶対あの人じゃん」


 それでも。


 探そうとは思わなかった。


 助けてもらった。


 顔も。


 名前も知らない。


 それで。


 終わった縁。


 そのはずだった。


     ◇


 数年後。


 大学を卒業し。


 仕事にも慣れ始めた頃。


 彼女の生活圏に。


 一つの消防署があった。


 駅へ向かう道。


 買い物へ行く道。


 毎日ではないが。


 それなりに。


 前を通る。


 ある日。


 消防署の前で。


 隊員たちが訓練をしていた。


 梯子。


 ホース。


 大きな声。


 普段なら。


 特に気にも留めない。


「そっち、一回止めましょう!」


 声。


 何となく。


 足が止まった。


 一人の消防士が。


 別の隊員へ声をかけている。


「そこ、少し危ないです」


「どこ?」


「金具。引っかかりそうなんで」


「ああ、ほんとだ」


「一回直してからやりましょう」


 若い消防士。


 顔が。


 妙に。


 引っかかった。


「……どっかで見たことある?」


 でも。


 思い出せない。


 ヘルメット。


 制服。


 当然。


 耳にピアスなどない。


 消防士も。


 こちらに気づくことなく。


 訓練へ戻っていった。


 その日は。


 それだけだった。


     ◇


 それからも。


 時折。


 その消防士を。


 見かけた。


 消防署の前。


 訓練中。


 車両点検。


 ただ。


 顔を見るたび。


 何かが。


 記憶の奥へ引っかかる。


 ある日。


「大丈夫?」


 消防署の前を。


 通り過ぎようとしたとき。


 また。


 あの声。


 後輩らしい隊員へ。


「無理しない方がいいよ。手、痛いんでしょ」


「これくらいなら」


「これくらいって言う人、だいたい後で悪化するから」


「先輩が言います?」


「……俺だから言える」


 周囲が。


 笑う。


 彼女も。


 少しだけ。


 笑った。


 そして。


「……声?」


 思った。


 昔。


 横断歩道で。


『大丈夫ですか?』


 あの声。


 似ている。


 でも。


 数年前。


 ほんの一分ほど。


 話しただけ。


「まさかね」


 そのまま。


 歩き出した。


     ◇


 ちゃんと。


 再会したのは。


 さらに。


 少し後だった。


 休日。


 買い物を終え。


 帰ろうとしていた。


 少し先で。


 大きな音。


 自転車と。


 車。


 接触事故だった。


 自転車に乗っていた老人が。


 道路へ倒れる。


 彼女が。


 息を呑んだ。


 そして。


 すぐ近くから。


 一人の男が走り出した。


「動かないでください!」


 私服。


 見覚えのある顔。


 あの。


 消防士。


 非番なのだろう。


 男は。


 倒れた老人のそばへ。


 膝をついた。


「聞こえますか?」


 周囲へ。


 顔を上げる。


「誰か救急車お願いします!」


 すでに。


 電話をしている人がいる。


 男は。


 状況を確認しながら。


 老人へ。


 声をかけ続けた。


 彼女も。


 少し離れたところから。


 見ていた。


 救急車が。


 到着する。


 消防士は。


 救急隊員へ。


 状況を説明する。


 どうやら。


 大事には。


 ならなかったらしい。


 老人が。


 搬送される。


 周囲から。


 安堵の声。


 そこで。


 彼女は気づいた。


 男の。


 右手。


 血が出ている。


「ちょっと」


「え?」


 男が。


 振り返る。


「手」


「ああ」


 見る。


 手のひら。


 擦り傷。


「さっき転んだときかな」


「大丈夫ですか?」


「これくらいなら」


「……」


 その言葉。


 彼女は。


 消防署で聞いた会話を。


 思い出した。


「後輩には『これくらいって言う人は悪化する』って言ってませんでした?」


「……見てたんですか」


「たまたま」


 男が。


 少し。


 気まずそうな顔をする。


「大丈夫です。本当に擦り傷だから」


「洗いました?」


「まだ」


「消毒は?」


「これから」


「じゃあ、そこ座って」


「え?」


「救急車は行っちゃったけど、近くにドラッグストアあるから」


「いやいや、自分で」


「手、血出てるでしょ」


「でも」


「座る」


「……はい」


 男が。


 素直に。


 ベンチへ座った。


 彼女は。


 少し。


 驚いた。


「意外と聞くんですね」


「何がです?」


「もっと抵抗するかと思った」


「……結構強めに言われたので」


「そう?」


 彼女は。


 絆創膏と。


 消毒用品を買ってきた。


「自分でできます?」


「できます」


「本当に?」


「さすがにできます」


「じゃあどうぞ」


「ありがとうございます」


 男が。


 手当てをする。


 彼女は。


 改めて。


 その顔を見た。


 やっぱり。


 どこかで。


 見た気がする。


「……前に会ったことありません?」


「え?」


「いや」


 首を振る。


「消防署で見かけてるから、そう思うだけか」


「この辺よく通ります?」


「よく通ります」


「じゃあ、それじゃないですかね」


「ですよね」


 男が。


 笑った。


 その笑い方まで。


 何となく。


 引っかかった。


 でも。


 分からない。


「じゃあ」


 男が立つ。


「本当にありがとうございました」


「今度から自分の怪我もちゃんと見てください」


「はい」


「返事だけじゃなくて」


「はい……」


 彼女は。


 少しだけ。


 笑った。


     ◇


 それから。


 消防署の前を通ると。


 以前より。


 その男へ。


 目が行くようになった。


 別に。


 恋ではない。


 少なくとも。


 この時点では。


 ただ。


 知っている人が。


 そこにいる。


 それだけ。


 見かければ。


 軽く会釈をする。


 男も。


 気づけば。


 頭を下げる。


 そんな。


 顔見知りになった。


     ◇


 ある休日。


 彼女は。


 駅近くの店から。


 出てきた。


 向こうから。


 歩いてくる男。


「あ」


「あ」


 消防士だった。


 今日は。


 私服。


「休みですか?」


「はい」


「怪我してない?」


「第一声それ?」


「信用ないから」


「今日は何もしてないです」


「今日は?」


「言葉の綾です」


 男が。


 笑う。


 そのとき。


 風。


 男の髪が。


 僅かに揺れる。


 左耳。


 白い。


 小さな龍。


「……」


 彼女の。


 足が止まった。


「どうしました?」


「それ」


「え?」


「そのピアス」


 男が。


 白い龍へ触れる。


「ああ、これ?」


「……白い龍」


「高校卒業したとき、友達と買ったやつです」


 その言葉は。


 もう。


 ほとんど。


 耳へ入っていなかった。


 自転車。


 横断歩道。


 青信号。


『なんとなく』


 突っ込んできた車。


『いなくなれ』


『もう大丈夫です』


 そして。


 風に揺れる。


 白い龍。


「……嘘」


「え?」


「ちょっと待って」


「はい」


「昔」


 彼女が。


 一歩。


 近づく。


「大学生の頃、自転車乗ってませんでした?」


「乗ってましたけど」


「横断歩道で女の人止めたことない?」


「……」


「青信号だったのに」


「……」


「その直後、車が歩道に突っ込んできた」


 男が。


 本気で。


 記憶を探している。


「あと」


 彼女が。


 左耳を指差す。


「そのピアスしてた」


「……ああ?」


「思い出した?」


「いや……」


「そこまで言って!?」


「ごめんなさい」


「嘘でしょ!」


「大学の頃、自転車で結構いろんなところ行ってたし」


「そこじゃない!」


「いや」


 男は。


 申し訳なさそうに。


「助けた人、全部覚えてるわけじゃなくて」


 彼女は。


 言葉を失った。


 自分にとっては。


 一生。


 忘れられない出来事。


 この人にとっては。


 通りすがりの。


 一人。


 少し。


 呆れる。


 でも。


 同時に。


 妙に。


 納得した。


「……そういう人なんだ」


「え?」


「何でもない」


 彼女は。


 少し。


 笑った。


 そして。


 ずっと。


 気になっていたことを。


 聞いた。


「あなた」


「はい」


「“龍”さん?」


 男の顔が。


 見る見る。


 嫌そうになる。


「……その呼び方」


「え?」


「まだ残ってるんですか」


 彼女は。


 吹き出した。


「やっぱり!」


「誰から聞いたんです?」


「昔、友達から」


「何でそんな広がってるんだよ……」


「有名人じゃないですか」


「やめてください」


「龍さん」


「やめて」


「龍さん」


「本当にやめて」


 数年越し。


 ようやく。


 名前も知らなかった。


 白い龍の青年と。


 消防署で見かけていた男が。


 一人に。


 繋がった。


     ◇


 白は。


 昔のことを。


 ほとんど覚えていなかった。


 彼女からすれば。


 一生忘れられない出来事。


 白からすれば。


 大学生だった頃。


 たまたま通りかかり。


 見えてしまった厄を。


 祓った。


 それだけ。


「本当に、ありがとうございました」


「何が?」


「だから昔の!」


「ああ」


「軽いなあ」


「でも無事だったんですよね」


「無事でした」


「じゃあ、よかった」


 それだけ。


 本当に。


 それだけらしい。


「何かお礼したいんですけど」


「いらないですよ」


「言うと思った」


「じゃあ」


 白が。


 少し考える。


「龍神社って知ってます?」


「知ってます」


「え?」


「“龍さん”調べたときに」


「だから、その呼び方……」


「厄除けで有名なんですよね」


「俺の氏神様です」


「そこまで噂通り」


「嫌だなあ……」


 二人で。


 笑った。


 そこから。


 食事をすることも。


 増えた。


 彼女は。


 消防署の前を通ったついでに。


 白を見かければ。


 声をかける。


 勤務中なら。


 当然。


 長話はしない。


 休日には。


 一緒に食事をする。


 理由は。


 いつの間にか。


 昔の恩返しでは。


 なくなっていた。


     ◇


 彼女は。


 芯の強い人だった。


 誰かを助けることを。


 否定しない。


 消防士として。


 危険な場所へ向かうことも。


 当然だと理解している。


 ただ。


 白が。


 必要以上に。


 自分を後回しにすると。


 容赦がなかった。


「今日休みですよね?」


「うん」


「昨日泊まり勤務ですよね?」


「仮眠したよ」


「寝て」


「いや、近所の人から荷物運ぶの手伝ってって」


「他の人に頼んでもらって」


「でも俺が行けば――」


「行かない」


「話聞いてる?」


「聞いた」


「じゃあ」


「却下」


「……」


 白が。


 少し。


 呆れたように。


「強いなあ」


「今さら?」


「俺の意見に上書きしてくる人、あんまりいないから」


「意見は聞いてるでしょ」


「聞いた上で無視してる」


「間違ってるから」


「即答だなあ」


 彼女は。


 腕を組む。


「あなたが人を助けたいのは分かる」


「うん」


「でも」


 少し。


 眉をひそめる。


「自分を雑に扱っていい理由にはならないでしょ」


「雑に扱ってるつもりは」


「ある」


「ない」


「ある」


「……はい」


「よろしい」


 白は。


 笑った。


 不思議だった。


 昔から。


 両親も。


 神主も。


 赤も。


 青も。


 黄も。


 自分を心配してくれた。


 止めてもくれた。


 けれど。


 最後には。


『それでもやる』


 という。


 白の意思を。


 尊重してくれた。


 彼女は。


 違う。


『それでもやる』


 と言えば。


『ダメ』


 で。


 上書きしてくる。


 嫌では。


 なかった。


 むしろ。


 少し。


 安心している。


 白自身。


 それが。


 不思議だった。


     ◇


「あなたって」


 ある日。


 彼女が言った。


「何?」


「周りのこと、よく見てますよね」


「職業柄?」


「それだけじゃない」


 電車で。


 席を譲る。


 落とし物を。


 拾う。


 道に迷った人へ。


 声をかける。


 具合の悪そうな人を。


 放っておかない。


 それが。


 能力によるものなのか。


 ただ。


 そういう性格なのか。


 彼女には。


 分からない。


 でも。


 たぶん。


 両方なのだろう。


「疲れない?」


「何が?」


「人のことばっかり見てて」


「別に」


「ほら」


「何」


「そういうところ」


 白が。


 首を傾げる。


「自分のこと、すぐ後回しにするでしょ」


「そうかな」


「する」


「断言するね」


「見てれば分かる」


 少し。


 間。


「俺がちょっと無理すれば済むなら、その方がいいときもあるし」


 彼女の。


 顔が。


 変わった。


「それ」


「うん?」


「私が嫌」


 白が。


 黙った。


「あなたがちょっと怪我して済むならいいって」


「うん」


「私は嫌」


「……」


「それでもやる?」


 白は。


 言葉に詰まった。


 今まで。


 なかった。


 誰かが。


 自分の安全を。


 自分のものだけではないと。


 真正面から。


 言ってくること。


「あなたさ」


 彼女が。


 少し。


 呆れたように言う。


「人には散々、気をつけろって言うでしょ」


「うん」


「自分にも言いなよ」


「……」


「あなたも、その『みんな』に入ってるんだから」


 白が。


 顔を上げた。


「……何でそれ」


「何?」


「いや」


 七歳。


 みんなが。


 酷い目に遭いませんように。


 十五歳。


 龍神から。


 相変わらず己を願わぬな。


 そう言われて。


『俺も「みんな」に入ってるから』


 と。


 答えた。


 その言葉を。


 何も知らない。


 彼女が。


 言った。


「……そっか」


「何が?」


「俺も入ってた」


「当たり前でしょ」


 白は。


 笑った。


 そして。


 初めて。


 思った。


 この人には。


 敵わない。


 でも。


 それで。


 いい。


     ◇


「最近、よく怒られておるな」


 龍神社。


 白が。


 いつものように。


 一人で参る。


「見てたの?」


 ――時折な。


「趣味悪いよ」


 ――我が氏子を見て何が悪い。


「それはそうだけど」


 白い龍は。


 少し。


 愉快そうだった。


 ――我が言っても聞かぬことを。


「うん」


 ――あの娘に言われると聞く。


「そんなことないよ」


 ――ある。


「ない」


 ――ある。


「……あるかも」


 白い龍が。


 喉の奥で。


 笑った。


「龍神様」


 ――何だ。


「昔さ」


 白が。


 少し。


 照れくさそうに。


「縁結びは管轄外って言ったよね」


 ――言ったな。


「これは?」


 ――何がだ。


「……あの人」


 少し。


 間。


「龍神様、何かした?」


 白い龍が。


 鼻を鳴らした。


 ――何も。


「本当に?」


 ――我は厄除けの神ぞ。


「そうだった」


 ――それに。


「何?」


 白い龍は。


 静かに。


 言った。


 ――その縁は。


 ――とうに、お前自身が結んでおった。


「俺が?」


 大学生。


 自転車で。


 たまたま。


 通りかかった。


 一人の女性。


 黒い厄。


 青信号。


 それだけ。


 白は。


 忘れていた。


 彼女は。


 忘れなかった。


 数年後。


 同じ町で。


 消防士になった白を。


 彼女は。


 何度か見かけた。


 そして。


 今度は。


 白が怪我をしたとき。


 彼女が。


 その足を。


 止めた。


「……縁って変なの」


 ――人の縁など。


 少し。


 白い龍が。


 目を細める。


 ――元より、そのようなものであろう。


「縁結びの神様みたいなこと言ってる」


 ――管轄外だ。


「はいはい」


     ◇


 さらに。


 時が経った。


 二人は。


 また。


 龍神社へ来ていた。


 白の左耳には。


 今も。


 白い龍。


 彼女が。


 初めて見た。


 あの日と。


 同じもの。


「今日は何お願いするんです?」


「いつも通り」


「みんなが無事でありますように?」


「まあね」


「自分も入れてくださいよ」


「最近ちゃんと入れてる」


「よろしい」


 二人。


 並んで。


 二礼。


 二拍手。


 白が。


 手を合わせる。


 両親。


 赤。


 青。


 黄。


 職場の仲間。


 町の人。


 そして。


 隣にいる。


 この人。


 皆が。


 なるべく。


 酷い目に遭わず。


 元気で。


 いられますように。


 いつもなら。


 それで。


 終わる。


 でも。


 その日は。


 少し。


 長く。


 手を合わせていた。


 そして。


 一つ。


 付け足した。


 ――この人と。


 ――これからも。


 ――一緒にいられますように。


 水の音は。


 しない。


 当然だ。


 厄ではない。


 龍神が。


 叶えることでもない。


 自分で。


 叶える願いだ。


 白が。


 目を開けた。


「ちょっといい?」


「何?」


「話ある」


「その言い方怖いんですけど」


「怖くない」


「ほんと?」


「……多分」


「多分やめて」


 白は。


 笑った。


 それから。


 珍しく。


 少し。


 緊張した。


「俺さ」


「うん」


「多分これからも」


「うん」


「時々、無茶すると思う」


「直して」


「努力します」


「断言して」


「善処します」


「悪化してる」


「だから」


 白が。


 笑う。


「そういうとき」


「うん」


「今までみたいに、止めてほしい」


 彼女が。


 黙った。


「俺一人だと」


 白は。


 少し。


 困ったように。


「どうも、自分のこと後回しにするみたいだから」


「今さら気づいた?」


「最近」


「遅い」


「はい」


 白は。


 今度こそ。


 真っ直ぐ。


 彼女を見た。


「一番近くで」


 少し。


 息を吸う。


「これからも、俺を守ってくれませんか」


 彼女の。


 目が。


 少し。


 潤んだ。


 でも。


 泣かなかった。


「……それ」


「うん」


「プロポーズとして、どうなんですか」


「ダメ?」


「ダメとは言ってない」


「じゃあ」


「でも条件」


「何?」


「私が止めたら」


「うん」


「ちゃんと止まる」


「……状況による」


「じゃあ保留」


「待って!」


「だって今の聞いた?」


「聞いた」


「却下」


「そこまで!?」


 彼女が。


 笑った。


「返事、聞きたいですか?」


「聞きたいです」


「じゃあ」


 少し。


 間。


「ちゃんと自分も大事にする?」


 白は。


 彼女を見る。


 七歳。


 十八歳。


 そして。


 今。


「……します」


「本当に?」


「します」


「よろしい」


 彼女は。


 頷いた。


 そして。


「よろしくお願いします」


 白が。


 ほっと。


 息を吐く。


「よかった……」


「そんなに不安だったの?」


「未来見えるわけじゃないからね」


「そこは見えないんだ」


「厄しか分からない」


「便利なんだか不便なんだか」


「昔から言われる」


 二人で。


 笑った。


 社殿の奥。


 白い龍は。


 静かに。


 その姿を見ていた。


 七歳。


 己より。


 皆の無事を願った童。


 十三歳。


 己の欲のために。


 力を使うという発想すら。


 持たなかった少年。


 十八歳。


 己も。


 皆の中にいるのだと。


 ようやく。


 理解し始めた青年。


 そして。


 今。


 初めて。


 自分自身が。


 誰かと共に。


 幸せでありたいと。


 願った。


 神の力を。


 借りず。


 己の言葉で。


 己の手で。


 その縁を。


 掴もうとしている。


 白い龍は。


 ほんの少し。


 嬉しそうに。


 目を細めた。


 ――ようやく。


 白が。


 僅かに。


 顔を上げた。


 白い龍の声。


 ――己の願いをしたか。


 白は。


 何も答えなかった。


 ただ。


 隣の人を見て。


 小さく。


 笑った。


 その左耳で。


 白い龍のピアスが。


 静かに。


 揺れていた。

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