第5話 終わらせないために
終わらせないために私達がいる。
結城さんはそう言った。
その言葉の意味を、私はすぐには理解できなかった。
世界が終わる。
空が割れる。
建物が消える。
人が忘れる。
そんな状況で、役所の人が何をできるのか…正直分からなかった。
◇
商業ビルの前には人が集まっていた。
7階から10階だけが無かった。切り取られたみたいに。
そこだけ存在していない。
でも、周囲の人達は騒いでいなかった。
「老朽化か?」
「施工ミスじゃない?」
「危ないね」
そんな声だけが聞こえた。
違う。
そんなはずがない。
建物の途中だけが消えるなんて、普通じゃない。
私はそう思っているのに誰もそう思っていなかった。
「結城さん」
「何ですか」
「みんな、何であんなに普通なんですか」
「普通だと思わされてるから」
結城さんは短く答えた。
「誰にですか」
「時間に」
意味が分からなかった。
でも、それ以上は聞けなかった。
結城さんの顔が、あまりにも疲れていたから。
◇
結城さんは規制線の内側へ入った。
警察官が一度止めようとしたけれど、結城さんが身分証を見せると黙って道を空けた。
私も後に続こうとした。
「あなたは外で待っていてください」
「嫌です」
自分でも驚くくらい即答だった。
結城さんが振り返る。
「危険です」
「外にいても危険ですよね」
「まあ」
「じゃあ同じです」
「同じではありません」
結城さんはため息をついた。
それでも私は引かなかった。
知りたかった。
何が起きているのか。
私だけが覚えている理由を。
世界が壊れかけているのに、誰も怖がらない理由を。
「……絶対に触らないでください」
結城さんはそう言った。
「何にですか」
「欠けている部分に」
私はビルを見上げた。
欠けている部分。
そこには何も無い。
でも、何も無いはずなのに、そこだけ空気が重かった。
見ているだけで気分が悪くなる。
目を逸らしたくなる。
「見過ぎない方がいいです」
結城さんが言った。
「気分が悪くなります」
「もう悪いです」
「でしょうね」
結城さんは平然としていた。
平然としているように見えた。
でも、よく見ると違った。
指先が震えていた。
◇
規制線を越えると欠けたビルの下に、別の人達がいた。
黒や紺のスーツを着た大人達。
工事関係者ではない。
警察でもない。
全員、首から身分証を下げている。
結城さんと同じものだった。
時間調整庁。
その文字を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
本当にいる。
結城さんだけじゃない。
この異常を知っている人達が。
「観測値は」
結城さんが尋ねる。
近くにいた男性が端末を見ながら答えた。
「第7層から第10層まで完全欠落。物理崩壊ではありません」
「残存記録は」
「周辺住民の認識は改変済み。建物所有者の記録も書き換わっています」
「元の情報は」
「本部に一部だけ残っています。ただし劣化が早いです」
私は会話の半分も分からなかった。
でも、一つだけ分かった。
この人達は慌てていない。
いや。
慌てている暇が無いのだ。
全員が、次に何をするかだけを考えて動いていた。
◇
「民間人ですか」
男性が私を見た。
結城さんが短く答える。
「この子、記憶保持があるの」
その場の空気が変わった。
数人が一斉に私を見る。
怖かった。
さっきまでビルを見ていた人達が。
今度は私を見ている。
「年齢は」
「17歳です。」
「保護対象ですか?」
「まだ判断前」
「上に報告は」
「これから」
何の話をしているのか分からない。
でも、私のことを話しているのは分かった。
「記憶保持って何ですか」
私は聞いた。
誰もすぐには答えなかった。
結城さんだけが私を見た。
「普通は忘れます」
「何をですか」
「無かったことになったものを」
心臓が冷たくなった。
コンビニ。
公園。
写真。
友達の電話。
全部が一つに繋がる。
「でも、あなたは覚えている」
「それって変なんですか」
「かなり」
変…私は変なのか。
その言葉が胸に刺さった。
「私、おかしいんですか」
「おかしいのは世界です」
結城さんは即答した。
その声だけは、今までで一番はっきりしていた。
「あなたは、たまたま覚えているだけ」
「たまたま」
「そういうことにしておきましょう」
少し雑だった。
でも、不思議と救われた。
◇
また、空が鳴った。
ゴォン。
鐘のような音。
遠くからではない。
上からでもない。
世界の内側から響いているような音だった。
周囲の人達が一斉に空を見上げる。
調整庁の人達だけが。
通行人は誰も見上げない。
誰も気付いていない。
空の亀裂が、昨日より更に広がっていた。
黒い線ではなかった。
もう、裂け目だった。
空の向こうに、何も無い場所が見える。
見ていると、自分の体までそこへ引っ張られそうになる。
私は思わず目を閉じた。
「見ないで」
結城さんの声がした。
腕を掴まれる。
「見続けると持っていかれます」
「何にですか」
「向こう側に」
私は目を開けられなかった。
怖かった。
でも、結城さんの手だけは現実だった。
冷たい手だった。
震えている手だった。
◇
「第二欠落、来ます!」
誰かが叫んだ。
次の瞬間。
人混みの中から悲鳴が上がった。
私は反射的に目を開ける。
広場の一角。
バス停が消えていた。
バス停だけじゃない。
そこに並んでいた人達のうち、数人が消えていた。
「え……」
さっきまでいた。
見ていた。
確かにいた。
鞄を持った会社員。
ベビーカーを押していた女性。
制服姿の男子高校生。
消えた。
最初からいなかったみたいに。
なのに。
周りの人達は一瞬だけ立ち止まって、すぐに歩き出した。
誰も探さない。
誰も名前を呼ばない。
誰も泣かない。
私は息ができなくなった。
「今、人が」
「見ましたか」
「見ました!」
「何人」
「三人……たぶん三人」
「覚えていますか」
「覚えてます」
「特徴は」
「会社員の男の人、ベビーカーの女の人、男子高校生」
結城さんが端末へ向かって早口で伝える。
「民間記憶保持者より欠落対象三名確認。周辺記録照合急いで」
私は震えていた。
人が消えた。
それなのに、世界は何事も無かったように続いている。
歩行者信号は動いていない。
車は渋滞している。
誰かが電話をしている。
誰かが文句を言っている。
誰も、消えた三人を覚えていない。
「何で」
声が震えた。
「何でみんな忘れるんですか」
結城さんは答えない。
「さっきまでいたのに」
涙が出た。
「いたんです」
「はい」
「いたんですよ」
「はい」
結城さんは短く頷いた。
それだけだった。
でも、その「はい」に。
私はしがみついた。
初めてだった。
私が見たものを、誰かが否定しなかったのは。
◇
調整庁の人達が動き始めた。
消えたバス停の周囲に機材が置かれる。
端末の画面には読めない文字と数字が並んでいた。
誰かが電話で怒鳴っている。
誰かが本部という言葉を口にしている。
誰かが「保たない」と言った。
世界が終わりかけている。
それでも彼らは走っていた。
泣く暇も。
叫ぶ暇も。
絶望する暇も無いみたいに。
「結城主任」
若い職員が駆け寄ってきた。
「本部からです。観測点を移すようにと」
「ここを捨てるの?」
「優先順位が変わりました」
「人が消えたばかりですよ」
「分かっています」
「分かってない」
結城さんの声が少しだけ低くなった。
初めて怒っているように見えた。
若い職員は何も言えなくなった。
でも、結城さんもそれ以上は言わなかった。
言えなかったのだと思う。
他にも消えそうな場所がある。
ここだけじゃない。
駅前だけじゃない。
世界中で、同じことが起きている。
そのことが、言葉にならなくても分かった。
◇
「あなたは安全な場所へ避難してください」
結城さんが言った。
「どこにですか…あるんですか」
結城さんは黙った。
それが答えだった。
「私、見ました」
「はい」
「消えた人達を覚えてます」
「はい」
「だったら、私にも何かできるんじゃないですか?」
「ありません」
即答だった。
「でも」
「ありません」
結城さんは私を見た。
疲れた目だった。
でも、そこだけは譲らない目だった。
「あなたは民間人です」
「でも覚えてます」
「だから危ないんです」
その言葉の意味は分からなかった。
でも、結城さんが本気で私を遠ざけようとしているのは分かった。
「帰ってください」
「嫌です」
「帰りなさい」
「嫌です」
結城さんは深いため息を吐いた。
「17歳って、全員こうなんですか」
「知りません」
「でしょうね」
少しだけ、変な会話だった。
世界が終わりかけているのに。
その一瞬だけ、普通の大人と高校生みたいだった。
◇
また端末が鳴った。
結城さんが応答する。
短いやり取り。
表情が変わって私の方を見る。
「分かりました」
通話を切る。
さっきまでの迷いが消えていたようだった。
「保護します」
「え?」
「あなたを本部へ連れて行きます」
「本部?」
「時間調整庁の」
私は何も言えなかった。
「理由は二つ」
結城さんは指を二本立てた。
「あなたが記憶保持者であること」
一本目。
「そして、今この場で消えた人達を覚えていること」
二本目。
「それが何になるんですか」
「分かりません」
「また分からないんですか」
「分からないことだらけです」
結城さんは少しだけ笑った。
疲れた笑いだった。
「でも、分からないものを記録するのが仕事です」
その言葉が、なぜか胸に残った。
分からないものを記録する。
消えたものを覚えている。
誰も知らないことを、誰かが残す。
◇
私はもう一度、空を見上げた。
裂は広がり続けている。
街は少しずつ欠けている。
人は消えている。
それでも、誰かが記録している。
誰かが走っている。
誰かが終わらせないようにしている。
私はその時初めて世界を救うという言葉が、きれいなものではないと知った。
それは多分…
泣きながらでも。
眠れなくても。
誰にも知られなくても。
目の前の消えた誰かを、消えたままにしないために動くことだと思った。
◇
「行きますよ」
結城さんが言った。
「はい」
私は頷いた。
怖かった。
本当は今すぐ家に帰りたかった。
お母さんに会いたかった。
友達に電話したかった。
でも…帰っても、きっと誰も覚えていない。
私が見たものを。
消えた人達を。
空の亀裂を。
だから私は歩き出した。
時間調整庁へ向かって。
その時の私はまだ知らなかった。
その場所で、私の人生が変わることを。
そして…
結城真琴という人が世界を救うために、少しずつ壊れていく姿を。




