第3話 残っている人
「なんで残ってるの」
その言葉の意味が分からなかった。
私は立ち尽くしたまま、その女性を見ていた。
黒いスーツ。
首から下げた見慣れない身分証。
目の下の濃い隈。
何日も眠っていないような顔。
でも。
初めてだった。
私以外で世界の異常を異常として見ている人を見たのは。
◇
「待ってください」
女性は歩き出そうとしていた。
私は慌てて追い掛ける。
「待ってください!」
女性が止まる。
少し迷惑そうな顔だった。
正直、その反応に少し安心した。
普通だったから。
世界が終わりそうなのに。
その人だけは妙に現実的だった。
「何ですか」
声も疲れていた。
「何が起きてるんですか」
「分かりません」
即答だった。
「え?」
「分かってたら苦労してません」
そう言って女性は缶コーヒーを一口飲んだ。
私は言葉に詰まる。
もっとこう…何か知っている人だと思ったからだ。
◇
「でも」
私は食い下がった。
「コンビニが消えたんです」
女性は黙っていた。
「公園も消えました」
反応は無い。
「誰も覚えてないんです」
そこで初めて女性の視線が私へ向いた。
◇
「コンビニ」
「はい」
「駅前の?」
「そうです」
「青い看板?」
「そうです!」
私は思わず声を上げた。
女性は小さく目を閉じた。
「やっぱりか」
「知ってるんですか!?」
「知ってます」
短い返事だった。
その一言だけで。
私は泣きそうになった。
初めてだった。信じてもらえたのが。
◇
「私がおかしくなったんじゃないんですね」
女性は答えなかった。
少しだけ困った顔をした。
「それは何とも言えません」
「何でですか」
「この状況で正気を保証できる人間なんていません」
もっともだった。
◇
駅前広場の時計は止まっていた。
午後5時42分。
私は思わず見上げる。
「その時間」
女性が言った。
「気付きましたか」
「最初に時計が止まって見えた時間です」
女性は少し驚いた顔をした。
「覚えてるんだ」
「はい」
「そう」
それだけだった。
でも、その一言が妙に重かった。
◇
「あなた誰なんですか」
私が聞く。
女性は少しだけ考えた。
答えるべきか迷っているようだった。
それから観念したようにため息を吐く。
「結城真琴」
それが名前だった。
「公務員です」
「公務員?」
「はい」
「何のですか」
「今は説明しても信じてもらえません」
失礼な人だと思った。
でも、少しだけ安心した。
やっと会話ができたから。
◇
「世界は終わるんですか」
気付けば聞いていた。
聞かずにはいられなかった。
結城さんは少し黙った。
遠くの空を見る。
誰もいない駅前を見る。
止まった時計を見る。
それから…
「分かりません」
そう答えた。
「でも」
その声は静かだった。
「終わらせないために働いてる人達はいます」
◇
私は初めて、この世界で少しだけ希望を見た気がした。
世界が壊れている。
たぶんそれは本当だ。
でも、何もしないで見ている人ばかりじゃない。
この人みたいに。
眠らずに。
疲れ切って。
それでも立っている人がいる。
◇
「どうして私だけ覚えてるんですか?」
結城さんは首を横に振った。
「それを調べてるのが私達です」
「私達?」
結城さんは少し黙った。
そして首から下げていた身分証を外す。
私へ向ける。
見慣れない紋章。
見慣れない組織名。
そこに書かれていた文字を私は一生忘れないと思った。
「時間調整庁」
◇
結城さんは私を見る。
疲れた目だった。
でも少しだけ安心したようにも見えた。
「良かった」
「何がですか」
「一人じゃなかった」
その意味は分からなかった。
ただ。
結城真琴という人もまた、何かと戦っているのだと。
そんな気がした。
空を見上げると亀裂は少しずつ広がっていた。
誰も見ていない空で。
静かに。
確実に。
まさに世界は終わりへ向かっているように見えていた。




