・36・昔の記憶と大道芸人(仮)
夢を見ていた。イアンは夢の中でまだロンドンにいて、家も家族も友達もみんな無事だった。
家族皆で並んで歩いて、隣の母と妹の顔も、見上げた父の顔も笑っていた。
場面がいきなり学校に切り替わる。誰かがジョークでも言ったのか、爆笑している友達が見える。自分も混ざろうと思って声をかけても、誰も反応しない。みんなして自分をからかっているんだと思って手を伸ばし、始めた体がないことに気がつく。正確に言うと、体が腐り落ちていることに気がつく。みんなが顔をしかめ、何か言おうとしても、肺が溶けて声が出ない。ちりとりに入れられ、排水管の中で体が戻る。口に鼻に入ってくる泥水を必死で吐き出し、下水処理場でなんとか陸に上がる。悪寒と、胸のむかつきが止まらない。胃と肺の中に、吐瀉物と塵と糞尿の匂いを感じる。イアンは過去最悪の気分に浸っていた。
「やあ、イアン・ユーバンク・クラーク君。調子はどうだい?」天から声が降ってきた。声の主を見上げたイアンは、喉の痛みを忘れて思わず叫ぶ「父さん?!」と。声の主は、「ああ、失礼。」と一言言って、顔の前で手を一振り。「私は、マトヴェイ・ドノヴァン・フリゼル。バンではなく、ヴァンだ。間違えないでくれたまえ。」見ると、喋りながら男の顔が変わっていた。父の彫りの浅い気弱な顔が、彫りの深い口髭付きの紳士面に変わり、イアンと同じくらいの身長が15センチほど伸びる。
「あんたは何だ。」「失礼だな。今名乗ったじゃないか。いいか、マトヴェイ・・」「違う。誰じゃない。何だ。あんたはここで何をしてるんだ?」
「ああ、そうか、なるほど}そう言って男、フリゼルは少し考える。
「そうだな、わたしは、そう、夢の配達人だ。」「は?」
何を言っているのだろう、この男は。イアンは少し考えて、目の前の男が不審者だと理解した。
「ああ、そういうパフォーマンスはよそでやってもらってもいいですか?」
「パフォーマンス?なんのことだい?」
「マジックに、演技に、変な口上。大道芸人でしょう?あんた。」
フリゼルは大げさに手を広げ、大きく背中を曲げてため息一つ。
「そうか、うーんどうしたらわかってくれるかなぁ。僕は本当に夢の配達人なんだけど・・・。」
フリゼルは顎を撫でて視線を泳がし、考え続けて拍手を一つ。こう言った。
「あ、こうしたら、わかってもらえる?せーの、はい!」
フリゼルはイアンの右手を指し示す。すると戻ったはずの右手がまた腐敗。
「な!?」「はい!」今度は復活。「はい!」腐敗。「はい!」復活。
驚きのあまりイアンは右手を舐めてみた。「はい!」その瞬間舌先を途方も無いえぐ味が襲う。
「んぐっ!」味覚と驚きからの刺激でキャパオーバーのイアンは見事に悶絶。それを見てフリゼルは高笑い。
イアンは本日二度目の吐瀉物ランチを味わった。




