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 翌日、アラン・フィッツジェラルドは動物輸送用の箱馬車を引き連れて、再訪した。カサンドラは朝から納屋で綿雪にブラシをかけていた。犬はみっしりとした毛並みをほぐされて、青い目をうっとり細め、カサンドラの膝に前足をかけて、抱え込むような姿勢で体を押し付けていた。それでも女性に体重をかけ過ぎないように、犬は気を配っていた。「大好き。気持ちいい。うれしい」という気持ちを全身で表している。

 綿雪はこの人が大好きだ。雷鳴がこわくて出奔してからずっと、人間に物を投げつけられたり、棒で威嚇されたり、飼い犬に吠え付かれ、野良犬には縄張りを出ていけと噛みつかれた。怪我をしてお腹がすいて怖くて寂しくて、どうしていいかわからず、広い場所に行きついたので、水を飲んで藪にかくれた。しばらくじっとして、広い場所を人間が歩き、犬に紐をつけて散歩させ、子どもの声がするのを、ぼんやりと眺めていた。これからどうなるのだろう。おうちに帰れるのか。飼い主が迎えに来てくれるのか。もうこのまま死んでしまうのか。横になっていたら鳴き声が出てしまった。そこへ小さい人間が藪を覗き込んだ。


「どしたの、どっか痛いの?」


 おだやかな優しい声に起き上がった。助けが来たんだ、と思った。この子どもと離れてはいけない、と思って飛びついた。小さい子どもは犬の重さを支えきれずころんだ。そこへ男の子が駆け付け、犬の体を引きはがそうとした。怪我をして痛い前足を掴まれ、犬は離されまいと男の子の腕に噛みついて振りほどいた。あとはあまり覚えていない。悲しみと怒りと、やっと現れた救い主を逃したくない気持ちだけだった。

 目の前には必死の目をした小さい男の子。木の枝を突き出している。犬はその枝をがっちり噛みついて、これを放すと救い主までいなくなってしまう、と思った。いつか、周りにはかなりの人影が取り巻いて、犬は悲しくなった。きっとこのまま、犬が子どもを襲ったと思われるんだな、と感じた。大きい人間がきっと犬を殴りつけるのだろう。時間の問題だ。

 軽い足音がして、ふわりといい匂いがした。穏やかな声がして、引っ張られていた枝から力が抜け、犬も口を放した。そこへ柔らかい布が頭からかぶさって来た。一瞬怖くなったが、布はあのいい匂いがして、布越しにしっかりした手と優しい声がした。「助かった」犬は安堵のあまり鳴き声をたてた。ぎゅっと抱きしめられて、もっと厚地の布で体をくるまれた。犬は抵抗なんてするつもりなかった。布がずらされて、きれいな優しい目が犬を覗き込んだ。濡れた物で目と鼻を拭かれた。きれいにしてもらって、目の痛いのも鼻の干からびたのも、よくなった。優しい声優しい腕、犬を守ってくれる優しい人。もう助かったのだ。

 ぐるぐる巻きにされて、知らない匂いの馬車に乗せられて、大きい人間に運ばれて、知らない場所に連れていかれても、この優しい人がずっとそばにいてくれたので、犬は少しも怖くなかった。前にいた家の時のように、大きな盥で体を洗われ、ごしごし拭かれたけれど、少しもイヤではなかった。また飼い犬にもどれた、という安心感だけだった。匂いで医者とわかる人間が怪我の手当をしてくれ、犬はぬくい粥をもらった。久しぶりに何も気にしないでたっぷり食べられた。もう大丈夫。もう安心。優しい人がずっとここにいてくれる。固まってごわごわの毛もきれいになり、優しい人が櫛で梳いてくれた。怪我も手当されてもう痛くない。ああよかった。ああ助かった。犬は眠くなった。

 目が覚めても夢じゃなかった。大きい人間が食べ物を運んで来て、また医者が薬を塗って、昨日とは別の布が取り換えられた。ちゃんと世話をしてくれる人間たち。犬を邪険にいじめる人間とはちがう。そして優しい人が来てくれる。優しい人は最初の救い主の子どもと一緒だった。犬は子どもに感謝の尻尾振りをみせた。「子どものおかげで助かったよ」と。あの男の子もいたけれど、今日は優しい目をしていた。よかった。犬を怒ってはいないんだな、と安心した。子どもは犬の頬をもしゃもしゃしてくれた。小さい手が気持ちよかった。

 それからはずっと幸せだ。優しい人は犬を「綿雪」と呼ぶ。呼ばれるとうれしくてうれしくて、じたばたしてしまう。何人かは匂いを覚えた。食べ物をくれる人間。掃除をしてくれる人間。外の芝生で棒を投げてくれる人間だ。ここの家の飼い犬になったのだな、と犬は思った。そして、前の家の記憶は薄くなっていった。

 だが、ある日、よく知っている匂いの人間が来た。よく知っている名前を呼ばれた。


「フレイファクシ!」


 忘れていたけれど、それが犬の名前だ。その人が犬のもともとの飼い主だ。やっと迎えに来てくれた。やっと思い出せた。犬はぎゅっと抱きしめる飼い主にしがみ着いた。

 その後ろに優しい人が黙って立っている。犬はどうしていいかわからず、心がぐちゃぐちゃになった。

 次の日、もともとの飼い主が迎えに来た。飼い主は好きだけれど、優しい人のことはもっと好きになってしまった。優しい人は「よかったね。元気でね」と犬を撫でた。もうそばにいてくれないのだ、と犬はわかった。どちらも好き、ではダメなんだ。犬は悲しくなった。箱馬車に乗せられ、飼い主が背中を撫でてくれても、犬はしょんぼりとうつむいたままだった。


「フレイはそんなにあの方が好きになってしまったのだね」


 そうなんだ。犬をわかってくれた。助けてくれた。かわいがってくれた。犬を「綿雪」と呼んでくれた、優しい声優しい手。


「私もだよ」


 飼い主が寂しそうにつぶやいた。


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