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アリステアはライモンド公爵に、カサンドラからの申し出のことを話し、父親に口添えをしてもらえないかと頼んだ。公爵はすでに妻ミレディアから聞き及んでいたようで、逆にアリステアに「君はどうしたいのかな」と尋ねた。
「私は、やってみたいです。カサンドラ様の期待にもお応えしたい。牧羊農家が楽になるお手伝いもしたいです。私の絵がお役に立つなら。その結果、絵の学校に行けるかもしれない、というなら、もう頑張るしかありません」
「うん、よくわかった。ホークウッド子爵には私からもお願いしよう」
「ありがとうございます。お願いいたします」
アリステアは目の前の霧がさーっと晴れ渡る気持ちがした。それもこれも、みな、公爵家でカサンドラに出会ったおかげだ。控えめで落ち着いた貴婦人でありながら、カサンドラには表に出さない底知れぬ能力がある。まるで、穏やかな池の淵を覗き込むような。貴族社会はそれを「気味悪さ」「奇妙さ」ととらえるだろう。ただ彼女が女性であるというだけで。自分も、そうなりたい。子爵の末娘ではなく、ひとりの「アリステア・トレメイン」として自立した人間になりたい。アリステアの意志は方向を定めた。
「では、修行の必要がありますので、私はお庭の植物を描きに参ります」
「ああ、料紙や鉛筆、絵の具は遠慮なく注文しなさい。未来のボタニカルアーティストへの公爵家の支援だよ」
公爵はにやりと笑った。ミレディアは「日よけ帽子はかぶってね」と追加した。
カーレオン邸で馬車から降ろされた、正体不明の謎の大きな獸は、吻と足を丈夫な紐で縛られ、動かないようにされた状態で獣医が呼ばれた。到着までの間、カサンドラは納屋に寝かされた獸の体に馬用の毛布を掛け、濡らした海綿でこびりついた目やにをふいてやった。みっしりと毛の生えた耳の中には、マダニがいくつも食いついている。かわいそうに。公園でかぶせた敷物を外す時にも、獸の汚れた毛並みにあちこち血がついて、かなりの怪我をしているようだった。獸はぐったりとおとなしくなり、時々怯えた不安な目で回りを見るほかは、ほとんどじっと目をつむっていた。
「もう大丈夫、大丈夫。もうこわくないのよ。よいこねよいこ」
カサンドラは乾いた鼻面も海綿でふいてやった。
「お医者様に見てもらったら、ごはんにしましょうね。あなたは何を食べるのかしら。それからお風呂に入って、お薬を塗りましょう。そうしたら、痛いのもおなかのすいたのもよくなって、ぐっすり眠れますからね」
ひからびていた鼻がしめって、獸は「ぴすぴす」鼻を鳴らした。
獣医が診察した結果、この国では見たことがないが、外国の犬だろう、とわかった。大型で毛深い所から、寒冷地の犬種、極北の地の犬ではないか、と。犬とわかれば、食べ物は見当がつく。従僕たちも犬の扱いなら慣れたものだ。怪我をした犬を馬用の水槽に運び、ぬるま湯で汚れを流すと、傷口に触れないよう注意しながら、羊毛洗浄剤第二液を薄めて丁寧に洗った。水槽に敷いていた網で四人がかりで洗った犬を持ち上げ、古い敷物の上に寝かせた。総出で犬の体を拭く。
「ご苦労様ね」
エプロン姿で立ち会ったカサンドラが従僕たちをねぎらう。
「厨房にエールの準備がしてあるから、どうぞ休んでください」
従僕たちはにっこりお辞儀をして納屋を出て行った。カサンドラの隣で見守っていた獣医が、犬の怪我の様子を確かめ、毛を切って傷口に薬を塗り、しっかり包帯を巻いていく。耳のマダニもきれいに取り除いた。
「骨は折れてはおりません。傷口も化膿していないようです。犬同士の喧嘩のようですね。かなり痩せていますが、体は大きくてもまだ若い犬のようです。首輪をしていますので、どこかの飼い犬が、逃げ出したか迷ったかで、公園に隠れていたのでしょう。推測ですが、迷い犬になってさほどたっていないと思われます」
「ごらんなさい、この子の首輪にはメダルがついています」
「紋章のようですね。だとしたら、かなりの名家の飼い犬かと」
洗ってきれいになった犬はまっ白だった。毛は長く、乾くにつれてもこもこになった。カサンドラは馬の鬣を梳く櫛でときほぐしてやった。水をたっぷり飲んだあと、牛乳で柔らかく煮込んだひきわり麦の粥を食べた犬は、縮こまっていた体をのばし、楽な姿勢で横たわった。包帯を噛まないように、革の口輪をしていたが、ゆとりがあるので、口をあけたり舌を出したりは自由にできる。
公園で抱えた時は緊張と怯えで白目が出ていたのが、今は青空色の目だけが見えている。犬は甘え声をあげてカサンドラの方へにじり寄った。しっぽの先もゆらゆらしている。
「ああ、助けてくれた人がわかるのですね。賢い犬だ」
「よいこね。もう心配ないから、ゆっくりお休みなさい」
獣医は犬の体に馬毛布をかけてやると、「ではまた明日」と辞去していった。カサンドラも犬が目を閉じたのを見守ると、納屋を出て屋敷に戻った。
「セリカ、ライモンド公爵家のアリステアさんに手紙を出してください」
カサンドラは机にむかって一筆書き、封筒に入れて侍女に手渡した。公園の獸が大きな犬だったこと、首につけたメダルのこと、アリステアに時間がある時に、メダルの図案を描き写してもらえないか、という依頼だ。この図案がエスカッシャンだと、カサンドラには何家の紋章か判別できない。父伯爵か義兄公爵に尋ねるほかないからだ。
アリステアは翌日すぐに来館した。公爵の家令に借りたという拡大鏡持参だ。カサンドラに案内されて、犬のいる納屋に入ると、まっ白の大型犬に驚いた。
「うわぁ、まるで白いクマ、ですね」
「そうなの。でもとてもおとなしいのですよ。こちらの言うこともよくわかるし」
カサンドラは恐れる様子もなく、犬の顔近くにかがみこみ、両手で首回りをなでまわした。ふとそばに控えた従僕に声をかけた。
「テッド、この子にはもうごはんをあげたのかしら」
「はい。ゆでた鶏肉を半羽と、ミルク粥を鍋に一杯。あと、料理長が出汁がらの牛骨をあげました」
「よかったわ。ずいぶん食欲も出て」
前足や胴中の包帯も清潔で、怪我の治りもよさそうだ。機嫌よくしっぽをふっているのを見ると、オーベック公園の鴨池の藪にいた、得体のしれない獸とはとても思えない。それでもアリステアは用心しながら近づいた。犬はカサンドラが大好きだ、という様子で、しきりとカサンドラにすり寄っている。カサンドラは房毛をかきわけて首輪についたメダルを見せた。
「どうかしら、模写できそう?」
「やってみます。犬の首を放さないでください」
「まかせて。ほらテッドもいるし、大丈夫」
メダルに彫られている図柄は、確かにエスカッシャンのようだ。紋章学にくわしくない女性では、家系も図柄の意味もわからない。アリステアはただ見るままに描き写した。楯に剣と翼を上げたグリフォンのようなもの。
「なんとか写してみましたが、正確かどうか」
「ありがとう。十分ですわ」
カサンドラが犬の首を放すと、それまでおとなしくしていた犬が、悲しそうに鳴いた。伏せの姿勢から立ち上がって、じたばたする。アリステアはまるで遊んでほしがる子犬のようだ、とおかしくなった。こんなに大きな体でまだ子犬だというのだろうか。
「この図柄、何枚か描いてくださるかしら。一枚は公爵様にお渡しして、見て頂きたいのですが」
「承りました。今すぐ、二枚描き写しましょう。一枚は私が公爵家へ持ち帰りますね」
「そうしてくださるとありがたいわ」
二人は応接室に移動して、アリステアはそこであと二枚の図案を描き写した。
「ほんとうに上手ね。描線がとても丁寧だわ」
カサンドラはアリステアの手元を見つめて、褒めたたえた。アリステアは頬を赤くした。その後お茶を飲んでいると、家令のジョンストンが声をかけてきた。カサンドラに来客であると。
「では、私はこれで失礼します」
「いえ、トレメイン様にも是非ご一緒に、と。ジェームズ・クロフォードと名乗る紳士と夫人、ご子息とご令嬢がおいでです」
「クロフォード!カサンドラ様、あの公園の男の子です」
「まあ、それはわざわざ。ジョンストン、皆様をこちらへ。お茶もお出しして」




