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父伯爵の容態もかなり安定してきた。領地に戻った頃まだ残っていた、胸に錐をもみこむような痛みもなくなった。締め付ける圧迫感も、息苦しさも緩和している。ゆっくり歩き、新鮮で素朴な食事をとり、まだ歩けなかったコリンと食後にチェスをさした。青空の下に広がる小麦畑、涼風の吹き抜ける森の匂い、首をかしげるヒタキ、渡る白鳥の群、雨の音、小川のせせらぎ、茂みに逃げ込む野ネズミ、野の花に舞う蝶も蜂も。
世界は生きている。かけがえもなく美しい。
大切なものはここにあって、家族への愛は胸の中に。
母や昔から仕えてくれる者たちに心配されながら、鎧戸を閉ざした部屋に閉じこもり、ずっとうつむいて、動かない足をぼんやりとながめている息子。お前は生きている。たった十四歳で残った時間を数えるだけの人生に甘んじるつもりか。お前はたしかに足が動かなくなった。でも、父はお前が三日の昏睡のあと目を開けた時の安堵と喜びを忘れないよ。父は涙が出た。母も泣いていた。生きていてくれただけで、感謝したよ。息子よ、お前の目は見える。耳は聞こえる。手も動く。お前の頭は充分活動できるじゃないか。お前は何度もチェスで父を負かしただろう。自分のまだ持っているものを思い出してほしい。
「コリン、書類の仕分けを手伝ってくれないか」
コリンはぼんやり庭をながめていた寝椅子から、ほんのすこし頭を上げた。
長机の上には王都から届いた書類箱がどんと乗っている。父親の指示で書類箱を運んできた従僕が釘付けの蓋を外し、中から油紙にくるまれた書類束を机の上に積み上げている。
「そのために秘書がいるでしょう。僕なんて役にたちっこない」
「決算期の書類だからね、猫の手も借りたいという所だよ」
「はは……たしかに手ならまだ動くからね」
コリンは気が進まないまま、のろのろと油紙をはがしていった。あらかたはずし終えた頃、コリンが顔をあげると父の姿がない。
「僕に押し付けて自分はやらないのか」
コリンは書類束を投げ出した。久しぶりに手を使ったので腕が痛い。肩もこった。「こんなことくらいで、なさけないな」と自分でも思うけれど、不自由になった息子に仕事を投げ出して休む伯爵ってどうなんだ、といまいましく思った。
扉があいて、母が入ってきた。お茶と茶菓子を運んできたのだった。
「コリン、急に根をつめてはいけないわ。少し休憩しましょう」
コリンは椅子の背にもたれかかると、菓子を口にいれた。昨日までは味もろくに感じなかった焼き菓子が、ふとおいしく思えた。茶を飲むと馥郁とした香りが鼻にぬける。
「お父様にも少し横になっていただいているのよ」
「え?」
「コリンは自分だけでも大変なのに、ごめんなさいね。でも、お父様のお体はかなりよくないの」
「疲れがたまったので、しばらく領地でのんびりする、ということだったでしょう」
母は哀しそうに首を振った。
「王宮でお勤め中に突然お倒れになったの。意識はあったそうだけれど、手も動かせないくらい重態だったの。王命を頂いて王室の侍医の方がついて、カーレオン邸まで運んで頂きました。カシーがずっと付き添ってくれたの。あとで心臓発作だと聞きました」
かなり前の昼間王都から早馬が来て、カサンドラがあわただしく出かけたのを、ぼんやり思い出した。それから下の姉の顔を見ていない。父が領地に戻ってきた時も、カサンドラは付き添っていなかった。
「あのね、お父様はこのままお仕事を続けると、もっと重い発作を起こすだろうと、今度は命にかかわるだろうと、侍医のみなさんに言われたそうよ。カシーがひとりで聞いてくれて、ミリーのご主人の公爵様に相談に乗っていただいて、王宮と宰相府と大臣の方々が、とりあえずカシーが伯爵代理として領地のお仕事をして、なるべく早く結婚して、お婿さんに手伝ってもらえるようにと決まったの」
「僕は聞いてない」
「お父様はゆくゆくはカシーのお婿さんに伯爵位をお譲りすることにしました」
「僕が、後を継げないから、でしょう。そうですよね。でも僕はなにも聞いてないです。嗣子を降ろされたことも、カシー姉様が伯爵代理となることも。ミリー姉様は納得しているの?」
「公爵様もそれが一番いいだろうとお考えです。カシーはずっとお父様を手伝って領地のお仕事に携わっていたし」
「ねえ、コリン。お願いよ。お父様が伯爵位を無事お譲りになるまで、お父様の手助けをしてほしいの」
「僕が…できること、ですよね。僕が後を継げなくなったから、本当なら僕の仕事なのに、カシー姉様がおひとりで担わなくてはいけなかったのですね」
「コリン、わかってくれたのですね」
コリンは力強くうなずいた。その目はすでにぼんやりした色はなく、はっきりと決意と覚悟が込められていた。
その日からコリンはまず朝はきちんと起き、なまってしまった筋肉をつかうべく、室内を手で家具につかまりながら自力で移動するようになった。腰はまだ長時間机に向かう姿勢には耐えられなかったが、背中や腕、動かせる左足はめきめきと回復していった。室内から廊下やホールへ、そして庭へ、コリンの行動範囲は広がっていった。
腰と足のマッサージは、折れた骨がきしみ、萎えた筋肉が悲鳴をあげても、コリンは歯をくいしばって続けた。そして、とうとう館の外へ足を踏み出した。杖を握り、従僕を引き連れて、ゆっくりと足を引きずって歩くコリンの姿を目にした領民たちは、声援を送り涙をうかべ笑顔になった。コリンもそれに応えて領民に手をふった。
体がほぐれると休み休み書類仕事を手伝う。この頃は下読みをして、必要な分だけ父親に回せるようになった。王都から届く書類はほとんど姉の几帳面な文字で、きちんと分類され、必要なら前例の添付がついた懇切丁寧なものだ。時には、これまでにない事例だと、王都の専門家の論文や法律の条文が参考についている。カサンドラはすごい、とコリンは舌を巻く。姉は王宮の文官が務められるほど優秀な人だったのだ。
用紙を節約するために、いきおい文字が小さくなりがちなので、父親の負担を軽くするために、コリンが音読することも増えた。書類には必ず伯爵代理のサインがある。カサンドラではなく義兄のセントクレアのものだ。なぜサインだけ彼のものなのだろう。おそらく書類のほとんどがカサンドラの手を経ているのに。
「セントクレアは財務局に勤める現役の財務官なのだよ。その分カシーの負担が軽くなるので、ありがたいな」
王宮と宰相府選定の婿候補が五人いたことは先日初めて聞いた。もちろん、未成年のコリンにはそれぞれの面識もなければ、ひとがらの判断もできない。そしていつのまにか、そのうちの一人と姉が結婚して、婿が王都のカーレオン邸に住んでいることも知らなかった。
「結婚式、ありませんでしたよね」
「ああ、かなり急いだし、セントクレアが同族なので、教会に特別許可証を申請したからね。許可証が下りたら、王都でもちゃんと婚礼をあげるし、ふたりともカーレオンに来てもらい、こちらでも婚礼をあげて、領民にも披露目をする予定なのだからね」
「楽しみ、ですね」
ほとんどの仕事を姉に押し付け、サインばかりの婿が、優秀な財務官なのかどうか。コリンはかなり疑ってかかっている。婿の顔を見さだめてやろう。そこは楽しみにしている、とお腹の中でひとり呟いた。




