(十九)前夜
(十九)前夜
横地監物は床几から立ち上がった。
「全軍に城まで退くよう、今すぐ伝えよ。城に戻ったら守りを固めよ、と」
母衣を背負った使番が、一斉に騎乗して、四方八方に散っていった。
(領民を襲うオロチはいなくなった。それだけでも良しとせねばならぬ)
動揺している暇はなかった。今すぐにでも、前田、上杉が攻勢に出て来るかもしれない。監物は唇を真一文字に結んで、今後の戦さのゆくえに頭を巡らせた。
「城に戻ったら、ただちに軍議を開く。諸将にはすぐに広間に集まるよう伝えよ」
※
「お方様、お方様」
遠眼鏡から目を離した比佐が、崩れ落ちるように座り込んだのを、侍女たちがあわてて抱きかかえた。
顔色が青い。
「戦さの事は横地殿に任せておけば良いのです。お方様はお心を強く持って、城内の女どもを差配していかねばなりませぬ」
比佐が産まれた時から仕えてきた侍女であったが、いつも気丈な比佐がこのように心が挫けてしまうのを、初めて目の当たりにした。
「お方様がしっかりしなければ、下々の者が動揺してしまいます。男衆にも伝わってしまいます。お気をたしかに」
黙ってうなずいた比佐だが、唇は青いままだ。
「横地殿の戦さぶりは誰もが認めるところです。横地殿がいる限り、この城に猿関白など寄せ付けはしません」
励ましている侍女の言葉も、うわずっていた。
「それに、もうすぐ御屋形様も、兵を率いて小田原から戻って来るでしょう」
そう言っている侍女自身も、氏照の帰りがいつになるのか見当もつかなかった。
※
「お方様。横地様が、急ぎ拝謁を願い出ております」
「分かりました。すぐに参ります」
つい先ほどまで、監物は諸将と軍議をしていた。終わってすぐに拝謁とは、何やら怖い予感がする。比佐は不安を押し殺して広間へと急いだ。
上座の畳につくと、埃にまみれた甲冑を着たままの監物が平伏していた。
「蛇のこと、私も見ておりました」
「ははっ。誠に残念至極の極み。なれど勝敗は武門のならい」
「戦さのことは、すべて横地殿にまかせております。私に遠慮など無用のこと。ご存分に差配なされればよろしい」
監物は、沈痛な表情で沈黙した。言いたい事があるが、言葉が出ない。やがて意を決した監物は、大きく息をついて要件を切り出した。
「城を開け渡すことになりました。さきほど軍議で決しました。城代として、拙者は腹を切ります。猿めに我が首を差し出して、引き換えに全ての城兵の命を助けてもらうよう、使者を出します」
比佐はとっさに言葉が出なかった。ただ黙って監物の顔を見詰めることしか出来なかった。
「拙者に力が無いばかりに…。御屋形様には、死んでおわびするしかありませぬ。ただ、これ以上戦っても、無益に命を落とす者が増えるばかり。それは慈悲にあらず。お方様の身は、全力でお守りいたします」
「降ることに…、なったのですね」
消え入るほどの小さな声で、それだけを辛うじて口に出した比佐の目には、一筋の涙が光っていた。
「秀吉は、信長と違って降伏した者を手厚く遇するという評判です。徳川も島津も、今は厚遇されています。御屋形様も、お方様も、悪いようにはされないでしょう」
「横地殿…」
「拙者一人が腹を切れば、戦さは終わります。多くの命が失われずに済みます」
「横地殿…。今まで長年の働き、感謝いたします」
そこまで言って、比佐は泣きながら笑った。
「ふっふっ。横地殿が泣くのを、初めて見ました。鬼の目にも、涙、ですね…」
「鬼ですか。お方様も…、お口が…、お悪い…」
監物も、笑いながら泣いた。滂沱の涙がこぼれ落ち、板敷の床を点々と濡らした。




